第一部 統一思想 第一章 原相論 : 一 原相の内容 : (二) 神性

 神様には神相という形の側面もありますが、機能、性質、能力の側面もあり、それを神性といいます。神性には、全知、全能、至善、至美、公義、遍在性、愛、創造主、審判主などいろいろありますが、その中で重要なのが心情、ロゴス、創造性です。

 (1)心情
 心情は神様の属性の中で、特に性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」です。ここで情的な衝動とは、心の内部からわきあがる抑えられない願望であり、欲望を意味します。
 神様において、この喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動によって触発されます。だからといって愛は喜びのための手段では決してなく、ただ無条件的な衝動であるだけなのです。その愛の必然的な結果が喜びなのです。愛の衝動は、愛したくてたまらない欲望、すなわち愛の対象を持ちたくてたまらない欲望を意味します。
 このように神様は心情を動機として、愛の対象として人間と万物を創造されました。これが「心情動機説」です。心情動機説こそ宇宙の起源に関する長い論争を解決することのできる根拠となります。
 また「万有原力」とは物理学でいう万有引力に対応する概念であって、神様の「原力」の延長なのです。神様の原力は心情の衝動力を基盤に形成されるために、宇宙内で作用する万有原力にも、物理的な力だけでなく、愛の力が作用するようになります。
 心情は神様の性相の核心として知情意の機能が成立する基盤となります。そのような知情意の活動を通じて形成される真なる価値実現の文化は心情文化にほかなりません。したがって創造本然の世界は、心情を動機として愛の実現を目標として成立する心情文化、愛の文化、または中和文化の世界なのです。

 (2)ロゴス
 ロゴスとは、「統一原理」によれば「み言」または「理法」を意味します。「統一思想」から見れば、ロゴスを「み言」というとき、それは神様の思考、構想、設計図、計画を意味し、またロゴスを理法というとき、それは理性と法則のことをいいます。神様のロゴスが構想で設計図である以上、それは被造物であり、新生体です。一種の被造物なのです。すなわちロゴスとは、神様の二性性相に似た新生体として、性相内部の「内的性相と内的形状の合性体」であると理解することができます。このとき内的性相と内的形状の主体と対象の関係は各々理性と法則の関係に相当します。このように一定の目的を中心として理性と法則が統一されている状態がまさに「ロゴスの二性性相」なのです。
 このように「理性と法則の統一」としてのロゴスを通じて万物が創造されたために、被造物にはすべて理性的要素と法則的要素が統一的に内包されています。万物が存在し、運動する際に、必ず両者が統一的に作用しています。ただ、低次元の万物であるほど、法則的な要素がより多く作用し、高次元の万物であるほど、理性的な要素がより多く作用としています。そのように万物の存在と運動は、自由性(理性)と必然性(法則)の統一であり、目的性と機械性の統一になっています。すなわち必然性の中に自由性があり、機械性の中に目的性があるのです。よく法則は自由を拘束するもののように考えられていますが、これは法則と自由の原理的な意味をよく知らないところからくる錯覚なのです。

 (3)創造性
 創造性とは、宇宙と人間を創造された神様の創造の能力をいいます。言い換えれば、神様の二性性相が授受作用によって新生体(繁殖体)を産出する能力を意味します。二性性相が授受作用をするときは、必ず四位基台が形成されますが、そのとき心情を基盤とし、目的を中心とする四位基台形成の能力を創造性といいます。つまり、創造性は本性相内の内的性相と内的形状の間で、そして本性相と本形状の間でなされる目的を中心とした内的・外的な授受作用の能力、または内的・外的な四位基台を形成する能力です。
 神様が人間に創造性を賦与したのは、人間が万物を主管するようにせしめるためでした。本然の主管とは、愛をもって創造的に事物を扱う行為、例えば耕作、製作、生産、改造、建設、発明、保管、運送、貯蔵、芸術創作などの行為をいいます。そのように本然の人間が事物を扱うのに、愛とともに新しい創案(構想)が絶えず要求されるため、本然の主管のためには神様の創造性が必ず必要になるのです。
 しかし、人間は堕落によって神様の創造性だけでなく、心情と愛を完全に受け継ぐことができなくなり、自己中心的、利己的存在になってしまったのです。今日の大量殺傷武器の開発や環境破壊などの原因を探ってみると、神様が賦与した創造性を誤って使用としたところからきた結果であることを知ることができます。心情の目的を失ったまま、理性的な創造の能力を発揮するならば、真の創造性が現れるはずがないのです。したがって、今日の世界を危機から救うためには、自己中心的な利己主義を清算して、神様の愛を中心としてすべての創造活動と主管活動を展開しなくてはなりません。そうするとき、初めて真なる愛の文化世界が実現されるのです。