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第一部 統一思想 第一章 原相論 : 一 原相の内容 : (一) 神相 |
神相は神様の属性の「形」の側面をいいます。神様は人間の目には見えませんが、一定の形、または形となる可能性(素材)、規定性をもっています。それがすなわち、神相です。神相には、性相と形状、陽性と陰性という二種類の二性性相である普遍相と、個別相があります。
(1)性相と形状
神様の性相と形状は本性相と本形状ともいいますが、この両者を併せて二性性相といいます。神様と万物の関係は創造主と被造物の関係になっていますが、その関係を原因と結果の関係と見ることができます。そのような観点から見るとき、本性相は被造物の無形的・機能的側面の根本原因であり、本形状は被造物の有形的・質料的側面の根本原因なのです。
1 性相
神様の性相、すなわち本性相は人間に例えれば、心に該当し、すべての被造物の無形的な要素の根本原因です。すなわち人間の心、動物の本能、植物の生命、鉱物の物理化学的作用性の根本原因なのです。言い換えれば、神様の性相が次元を異にしながら時空の世界に展開されたのが、鉱物の物理化学的作用性、植物の生命、動物の本能、人間の心なのです。神様の性相はさらに内的性相と内的形状の二つの部分に分かれており、性相の内部構造を成しています。
1. 内的性相
内的性相は心の機能的部分(主体的部分)であり、知情意の機能をいいます。知的機能は認識の能力であり、感性、悟性、理性などの能力をいいます。感性は五官に映るままに認識する能力であり、悟性は概念化して論理的に判断する能力であり、理性は抽象化し、一般化する能力をいいます。情的機能は喜怒哀楽の情感性を感じる能力をいい、意的機能は決心し、決断する意欲性をいいます。
2. 内的形状
内的形状は心の対象部分である「形」の要素であって、観念、概念、原則、数理などをいいます。観念は心の中の事物の一つ一つの具体的な姿(表象)であり、概念は抽象的な観念であり、原則は現象界の自然法則と価値法則の根本となる法則です。そして数理は自然界に現れる数的現象の根源であり、無数の数、数値、計算法からなっています。
2 形状
神様の形状すなわち本形状は人間に例えるならば、体に該当し、すべての被造物の有形的部分の根本原因です。すなわち神様の形状が次元を異にしながら時空の世界に展開されたのが、鉱物の原子・分子、植物の細胞・組織、動物の肉体、人間の体なのです。そのように被造物の有形的要素の根本原因が神様の形状ですが、この被造物の有形的要素の根本原因は二つの側面があります。一つは素材(質料)的要素であり、もう一つはエネルギー的要素です。
このように神様の形状は万物の質料的要素の根本原因であるために、「前段階質料」ということができます。一方、今日の科学は物質の根本原因を素粒子の前段階のエネルギーと見ていますが、神様の形状は物質を構成しているエネルギー以前の状態、すなわち「前段階エネルギー」または「前エネルギー」(Pre-Energy)ということができます。これを「統一思想」では「原力」(Prime Force)と呼び、原力が万物を通じて作用して現れるとき、その作用力を「万有原力」(Universal Prime Froce)といいます。
3 性相と形状の異同性
本性相とは本形状が本質的に同質的であるのか異質的であるのかを論じることによって、一元論と二元論などの本体論上の様々な問題を引き起こしてきました。「統一思想」では本性相と本形状を同質的な要素の二つの形態と見ています。これは水蒸気と氷が水(H2O)の二つの形態であるのと同じです。神様の性相と形状の二性性相は神様の絶対属性の、すなわち同質的要素の二つの表現態であるということなのです。絶対属性が創造の過程において分化されたのが、神様の心としての性相と神様の体としての形状なのです。本体論から見るとき、このような観点は「統一論」であり、創造を構想する前の絶対属性それ自体を表現するとき、「唯一論」になります。
アリストテレスによれば、形相と質料を究極までさかのぼると純粋形相(第一形相)と第一質料に至ります。この純粋形相がすなわち神様なのですが、これは質料のない純粋な活動であって、思惟それ自体になります。したがってアリストテレスにおいて、神様とは「純粋な思惟」、「思惟の思惟」だったのです。第一質料は神様から完全に独立していました。したがってアリストテレスの本体論は二元論なのです。
トマス・アクィナスは、アリストテレスの「思惟」を根拠として、「純粋形相」または、「思惟の思惟」を神様と見ました。さらにアウグスティヌスと同じように、彼は神様が無から世界を創造したと主張したのです。しかし、無から物質が生じるという教義は、宇宙がエネルギーによってできているとする現代科学の立場からすれば受け入れがたい主張なのです。
デカルトは、神様と精神と物体を三つの実体としました。究極的には神様が唯一の実体なのですが、被造世界において、精神と物体はそれぞれ神様に依存しながらも、相互に完全に独立している実体であるとして、二元論を主張しました。その結果、精神と物体はいかにして相互作用をするのか、説明が困難になったのです。
このように西洋思想からとらえた形相と質料、または精神と物質の概念には様々な矛盾点があったのです。そのような難点を解決したのが「統一思想」の「本性相と本形状は同一なる本質的要素の二つの表現態である」という理論なのです。
(2)陽性と陰性
性相と形状は神様の直接的な属性ですが、陽性と陰性は神様の間接的な属性であって、直接的には性相と形状の属性になっています。言い換えれば、神様の性相(本性相)も陽性と陰性をその属性として備えており、神様の形状(本形状)も陽性と陰性をその属性として備えているのです。そして陽性と陰性の二性性相も中和をなしています。この中和の概念は性相と形状の中和と同じように、調和、統一を意味するもので、創造が構想される以前には「一つ」の状態にあったものです。この「一つ」が創造において陽的属性、陰的属性に分かれたと見るのです。
「統一思想」において、陽性と陰性は性相と形状の属性です。すなわち、被造世界において性相・形状は個体または実体を成していて、陽性・陰性はこの実体(性相・形状)の属性として現れています。これに対して、東洋哲学の陰と陽は実体であったり属性であったりして、実体と属性の区別がありません。例を挙げると、太陽(実体)は陽であり、太陽の明るさ(属性)も陽なのです。また、火(実体)は陽であり、火の熱さ(属性)も陽なのです。
東洋では男性を陽、女性を陰と表現する場合が多いです。しかし「統一思想」においては、男性は陽性実体、女性は陰性実体といいます。東洋哲学と「統一思想」の男女観は同じように見えるかもしれませんが、事実は全く異なっています。「統一思想」から見れば、男性と女性は共に性相・形状と陽性・陰性をもっていますが、性相において男性と女性の陽陰は質的に異なっています。例えば男性における陽陰は「男性的な陽陰」、女性における陽陰は「女性的な陽陰」ということができます。このような陽性と陰性をもつ男性を、「陽性を備えた性相と形状の統一体」といい、このような陽性と陰性をもつ女性を、「陰性を備えた性相と形状の統一体」といいます。これを簡単に、男性を「陽性実体」、女性を「陰性実体」と表現しています。形状において男女間の差は量的な差です。それは形状(体)において男女は共に陽性要素と陰性要素をもっていますが、男性は量的に陽性要素をより多くもっており、女性は量的に陰性要素をより多くもっていることを意味します。
(3)個別相
万物はすべて普遍的に性相・形状および陽性・陰性を備えているので、神様の性相・形状および陽性・陰性を「普遍相」といいます。一方、万物は種または種類に従って特性や姿が異なり、人間においては、個人ごとに体格、体質、容姿、気質などが異なっています。このように万物と人間の個別的特性の原因は神様の本性相の内部、特に内的形状の中にあります。神様の内的形状の中にある、このような個別的特性の原因を個別相といいます。人間における個別相は各個人の特性をいいますが、人間以外の万物の個別相は一定の種類の特性、すなわち種差をいいます。
被造物の個別相がいくら個体の特性であるといっても、普遍相と別個の特性ではなく、普遍相それ自体が個別化されたものなのです。例えば、人間の顔がそれぞれ違うのは、顔という形状(普遍相)が個別化され、特殊化されたからです。人間の個性がそれぞれ違うのも、性格、気質という性相(普遍相)が個別化され、特殊化されたためです。被造物において普遍相の個別化が個別相であるのは、神様の内的形状の中にある被造物に対する個別化の要因(個別相)が、神様の性相・形状および陽性・陰性を個別化させる要因として作用するためです。ここで神様の普遍相を「原普遍相」、神様の個別相を「原個別相」と呼びます。人間の個性の尊厳性が保障されなければならないのは、それが神様から由来した個別相を根拠とするためです。