第一部 統一思想 第九章 認識論 : 一 「統一認識論」の概要 : (三) 認識の方法

 認識の方法に関する哲学的論争は、カントの先験的方法とマルクスの弁証的方法に区分して特徴づけることができます。「統一認識論」では先験的方法と弁証的方法が統一されています。カントの先験的方法とは、人間が先天的にもっている理性(思惟)の形式(範疇)に従って、外部の事物からくる感覚的要素(模様、色など)が認識されるようになるという主張です。すなわち認識において主導的なのは、あくまでも認識の内容(感性的要素)をどのように解釈し、判断するかという認識「主観」すなわち、先天的な形式なのです。カントはそのように認識の対象である事物(万物)から経験的「内容」を、そして認識の主体である人間からは先天的な「形式」を取ります。しかし「統一思想」では、対象である万物にも「内容と形式」があって、この互いに似た万物と人間の「内容と形式」が互いに授受作用することを認識過程の初段階と見ます。
 そのとき、行われる授受作用は外的授受作用に相当し、その過程において人間の体内(感覚器官)に認識の像がつくられます。それを外的映像といいます。例えば花を見るとき、人間の網膜すなわち視神経を通じて大脳の視覚皮質に生じた花の映像がそれです。しかし、この過程のみでは認識はなされません。この花の映像を、「花である」と判断する心の中の測定基準があるとき、初めて認識がなされるのです。その心の中の基準がまさに観念(原型)なのです。そのとき、原型(観念)も主体的要件として「内容と形式」をあらかじめ備えていなければなりません。そのように、心の中の観念が主体、体の中に生じた映像が対象となってなされる照合が内的授受作用なのであり、そのとき認識が完了するのです。そのように認識は外的、内的な二つの段階の授受作用を通じて、初めて成立します。したがって「統一思想」の認識の方法は、先験的方法でも弁証的方法でもなく、授受作用の法則すなわち授受法なのです。
 一方、マルクス主義の弁証法は物質が精神を規定するという唯物論哲学の立場を取っています。唯物弁証法によれば、客観的実在である事物(物質)のみが内容(属性)と形式(存在形式)を備えており、認識において、この物資的要素が主導的な役割をするというのです。すなわち、人間の意識内に形成された思惟形式は、単に物質的要素である存在形式がそのまま反映された映像にすぎないというのです。マルクスの弁証法的方法は、主体と対象の認識関係を逆転させたものであり、主体である人間の意識にも内容と形式があるということを無視したものです。このように見るとき、「統一思想」の授受法は先験的方法と弁証法的方法を共に備えた立場であるということができます。すなわち、「統一認識論」の外的授受作用には唯物弁証法的要素が含まれており、内的授受作用にはカントの先験的要素が含まれています。「統一認識論」の授受法が弁証法的方法と先験的方法の統一であるというのは、このことをいうのです。