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第4章 天一国の民になる道 : 六 天宙天地真の御父母様の勝利圏相続 : 2. み言 |
原理には三大裁きがあります。真理、人格、心情において裁きます。堕落は三大要件を犯したからです。先生は成して、あなた方に教えているのです。復帰の道は成して教えるべきであって、成さないで教えるのであれば、聖書において六千年前にもう既にやってきています。なぜでしょうか。原則があるからです。父母の信仰が立たないから、父母が先に知らなかったら、知るのも父母が先に知らなければなりません。父母が先に実行できなかったら、実行するのも父母が先に実行してこそ、知るようになるのが原則です。ですから、原理は先生から、もう成した基準に立っていないと教えられないのです。
あなた方は、原理をパスしなければなりません。原理をパスして、原理基準に引っ掛からないような自らとならなければなりません。そうして原理の実体者にならなければなりません。蕩減原則から外れた人には実体復帰は成されません。そのような条件が残っている場合には、サタンがいつも私のものだといって、引っ張っていきます。ですから、実体基準を立てようとすれば、サタンと正面で対抗し、勝利しなければなりません。
聖書には、善悪の実を「取って食べてはならない」という内容が出てきます。そこには、人間と神様との関係を破綻させ得る内容が込めてあったからです。それで問題になるのです。原理ではこの事実を明確に解明しています。原理は、堕落に対する事実がはっきり分からない人には、偉大な福音です。苦痛を受けながら生きているすべての人々を救援することのできる、偉大な福音です。
善悪の実は、文字どおり木と見ることはできません。木の実ではありません。億千万代(にわたって)人類がこのように破綻の立場と闘争の路程で呻吟する状況をつくるような果実を、神様がなぜつくられるでしょうか。先生が語る、愛の内容を中心として現れた結果だというのが、何よりも理論的だと考えられます。
復帰の法度が原理です。この原理は、大学で教える科学の原理のようなものではありません。人間が堕落し、父母を失ったので、その父母を捜し出すための公式を教えるのが原理です。それなのに原理を知らないでいいのかというのです。また、知ったならば、どうしなければならないでしょうか。ただ知るだけで、見物だけしていればいいのでしょうか。実践しなければなりません。自ら学んで、実践しなければなりません。「原理」のみ言どおりに実践しようとすれば、原理に対する確信がなければならないのです。
では、「原理」のみ言を聞いて何をしますか。父母が自ら、原理を中心にして実践したから法度になったのです。ですから、子女たちも「原理」のみ言を中心にして実践しなければなりません。
統一教会には「原理」という言葉があります。原理というのは、宗教を信じる人も、宗教を信じない人も、千年前も万年前もこの道を経なければならない、その原則的な道をいうのです。
ですから、統一教会で今、教えている真理というのは、神様と人間世界における曲折のすべての事情、恨が残ったものを解くことのできる原則的な内容を教えているのです。教理ではありません。教理は、天使長圏復帰解放時代までです。それでは家庭を築くことができないのです。家庭を取り戻すことができません。
私という純粋な者をどこで探るか、という問題を結論づけなければなりません。まずもって、この統一教会の真理が、唯一の真理であるというその自信をもたなければなりません。それから、変わらない、天然、霊界も、他界も、あるいは歴史を通しても、永遠に変わらない真理です。誰も、国も変えることができなければ、世界かも変えることができません。神様も変えることができないのです。先生自体もそうです。過去、現在、未来において変わらないという真理であるとするならば、この真理は、人間本来が願う、理想的な価値をもっているに違いありません。
原理を学んだと言いながら、原理を全部奥にしまい込んで、自分がしたいままに、自分は自分なりに、原理は原理なりに一つになっていないのです。それで伝道してうまくいかないのです。神様が共にいらっしゃらないので、そのようなものは偽物です。原理どおりにしなければなりません。皆さん、原理の本を見れば、そこには神様の六千年の心情があるのです。先生の一生の血を流した闘争の歴史が、そこにあります。皆さんの知らない内容がいくらでもあるのです。そのような原理の本を1ページ1ページ見るたびに、夜を徹して祈祷しながら、ここに神様の心情を探すことのできる鍵があるのではないかと思いながら覚えましたか。線を引きながら、この一言の背後にどのような歴史があるのか考えてみましたか。それで何、「神様が協助してくださらない」と言うのですか。ですから新しい制度をつくらないわけにはいかないのです。今からみな体質を改善しなければなりません。神様の仕事をする聖職者の業が、どれほど神聖なものであるかを知らないでいるのではないかというのです。
原理は、生命のみ言が入っている倉庫です。原理を聞けば、大きな倉庫にゴムホースをつけて生命の水を供給されるのと同じです。この生命の水の味を一度知ると、夢中になって、口を離そうとしても離せられなくなるのです。口を離そうとすれば口だけ取れてしまって、行くなら行くでしょうが、離せなくなるというのです。これはちょうど蜂が蜜を吸うとき、ピンセットのようなものでおしりをつかんで引っ張れば、おしりがとれてしまいますが、蜜から口を離そうとしないのと同じです。このように、原理には蜜よりももっと甘い何かがあります。
私たち「統一教会の原理の内容」といえば、身震いするほど話してみなさいというのです。身震いするほど、一度やってみようというと、それはどんなにおもしろく、どんなに興味深いか分かりません。み言は創造の能力をもっているという事実を、確実に分からなければなりません。私がどこに行こうとも、天が共にいらっしゃることを知っているので、その心情が直接大衆に影響を与えることができるのです。
み言と伝道、皆さん、統一教会の人たちがみな原理を知らないでいるのです。み言で武装するのと同時に伝道しなければならないのです。心情の体恤というものは、自分一人では駄目です。伝道しなければなりません。伝道です。どうやって? 何で伝道をするのですか。『原理講論』の本をみな覚えるほどに朗読しなければならないのです。どのページには何があると、全部分からなければならないのです。