第4章 天一国の民になる道 : 三 天一国の民の態度と資格 :

 神様は、ただ外的に民族の形態だけを備えた民族を待ち望んでいらっしゃるのではなく、外的な形態だけを備えた国家を待ち望んでいらっしゃるのでもありません。民族がいれば、その民族を動かすことができ、国家と主権があれば、その国家の主権を動かすことができる、心情で連結された一つの主権と、一つの民族と、一つの民を待ち望んでいらっしゃるのです。
 選民ならば、彼らは、神様がいかなるお方かを知り、いかなる目的のために自分たちを立てられたのかを、はっきりと知らなければなりませんでした。そのようにして、いかなる苦難に直面しても、いかなる艱難が迫ってきたとしても、それを貫かなければならなかったのです。このようなことが、当時のイスラエル民族の取るべき態度であり、神様に対する心的基準でした。
 しかし、選民であることを誇ったイスラエル民族は、歴史路程において神様に多くの罪を犯しました。もちろん、その時代に対する犯罪よりも、その時代を動かしている神様の心情に対する犯罪のほうが大きかったということを、まず私たちは知らなければなりません。
 それでは、神様が人間を復帰するには、何から復帰しなければならないのでしょうか。願いも願いですが、事情、さらには心情を復帰しなければなりません。切っても切ることができず、分けても分けることができない心情の世界を復帰しなければなりません。ですから、今まで神様は、心情の基台を広めるために、その一日を見つめながら、歴史の峠ごとに背後で苦労してこられたのです。今日私たちは、このような事実を知らなければならないのであり、これを知らなかった先祖に対しては、公憤の心情を抱いて抗議しなければなりません。
 私たちが様々な事情に絡んだ生活環境で暮らしているとしても、それは結局、すべて過ぎ去ってしまうものです。いくら「地上で幸福な生涯を生きた」と言って自らの栄華を謳歌する者がいたとしても、それはすべて過ぎ去ってしまうのです。
 しかし、何かの使命をもって生涯を生きた人ならば、その人には残るものがあります。それは何でしょうか。事情ではなく、事情を支配し得る心情です。この心情が歴史を支配し、民族精神を鼓吹させ、思想を連結させていくのだという事実を、私たちは否定することができません。

 今まで神様が働いてこられたとすれば、それは、人間を救援し、御自身のみ旨を成すためです。神様のみ旨とは、神様の国を成し遂げることです。それゆえに、その国の民となることができ、その国の息子、娘になることができ、御自身の側にいることができる人を育ててこられるということは、間違いないというのです。
 神様は、どこに国を建てようとしていらっしゃるのでしょうか。霊界に建てようとしていらっしゃるのではありません。正にこの地に地上天国を建てようとしていらっしゃるのです。それでは、この地に立てられ、神様の国の民となることができる資格者とは誰でしょうか。それがまさしく皆さんです。天国を建国することができる中心です。

 皆さんは、「過去の人間は、こうだったのだなあ。今日の私は、どうであり、今後はどのようになろう。神様の事情はこうであり、神様のみ旨はこうであり、神様の心情はこうであり、お父様は悲しいお父様だったので、私はそのお父様の前にどのように進んでいかなければならないのか。お父様が血と汗と涙をもって祭物となってこられたので、その祭物を受けるためには、血と汗と涙を流さなければならない」。このように悲しい涙をもって、「お父様は、与えるために悲しんでこられ、与えるために血の汗を流してこられたが、私たち人間は、受けるために死に、受けるために涙を流し、受けるために苦痛を受けてきたので、授け受けすることができるその一日は、どれほどの喜びとなるだろうか。涙で出発し、喜びの涙が目の前を遮り、しみわった恨が込み上げて爆発し、私の口で喜びと栄光と勝利の凱歌を歌うことができるその日をもたなければならない」。こうでなければなりません。
 そこにおいて初めて神様が、「お前は私の息子だ、お前は私の娘だ」とおっしゃることができ、天下万物のすべての福を前に置いて、心情と事情が通じ合う立体的な理念圏内において、神様が「お前は私の息子であり、私はお前の父だ」とおっしゃることのできる父子の因縁を復帰して印を受け、初めて天の家庭を築き、天の民族を築き、一つの世界、一つの主権、一つの天地をつくることが、人間である私が取り戻さなければならない因縁の中心だということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 天国の民の階段に入っていかなければならない運命が、皆さんの前に置かれています。このような皆さんは、新たな歴史的な意識をもたなければなりません。私という一存在は、自分のために生きようとするのではなく、天国の民である同胞のために生きようという観念をもたなければなりません。それだけではなく、天国の兄弟のために、天国の夫婦のために、天国の父母のために努力しようという観念をもたなければなりません。それは、部分的な観念ではなく宇宙的な観念です。
 ただイエス様を信仰する人として、むやみにイエス様を信奉するのではなく、内的にも外的にも天地の運勢と和合してイエス様を信仰する人にならなければなりません。神様は、宇宙的な摂理を中心として、天国復帰の理念を立てていらっしゃいます。私たちは、そこに立つことができる息子、娘、そして民にならなければなりません。そして、天国の同胞を愛することができなければなりません。
 皆さんの周囲に信じる民がいれば、皆さんは、彼らを兄弟と、また同胞と思うことができる人にならなければなりません。また、すべての人がそのようになるようにしなければなりません。このようなことを考えてみるとき、皆さんの責任は、この上なく大きいのです。
 六千年歴史を縦的に見れば、旧約時代には天の民を集め、新約時代には天の子女を集めました。このように歴史は逆に流れてきたのです。

 この地の誰もが異口同音に、今日を「終わりの日だ」と言っているこの時、すなわち歴史的な終結、科学的な終結、倫理と宗教的な終結を予告している世界的な終末時代に置かれている皆さんは、どのようにしなければならないのでしょうか。
 イエス様が叫ばれたみ言、すなわち「まず神の国と神の義とを求めなさい」のように、自らのことは考えずに、ただこの地上に神様の国と神様の義を立てるために不変の忠誠を尽くす人にならなければなりません。そのようにして、皆さんは、自らを万宇宙に誇ることができなければならず、神様の代身者の使命を完遂する人にならなければなりません。
 すなわち、その国の本質的な理念の内容を皆さん自体の生活に適用し、それが皆さんの生涯の実体的な価値を形成し、永遠の未来を約束する希望の一日を実現するようにしなければなりません。もしそのような皆さんになることができなければ、皆さんは、神様がアダムとエバの堕落以後四千年間苦労されたのちにイエス様を送られて役事させたみ旨と、イエス様以後今日まで、イエス様と聖霊を合わせた三位神が役事してきたそのみ旨とは、何の関係もなくなるというのです。
 このような観点から、今、皆さんは何を探し出さなければならないのでしょうか。皆さんは、その国とその義を立てることができないようにしている、すなわち天宙的な理念を立てるができないようにしている不義の条件を探し出さなければなりません。そのようにして皆さんは、一身の生活において闘争して勝利し、神様の息子であるイエス様に代わる存在にならなければなりません。すなわち皆さん自身が、その国に処することができる人、その国の義の民になろうとすれば、食べること、着ることで争う愚かな人になってはいけません。食べる問題、飲む問題、着る問題を超えて生きる人にならなければならず、むしろそのような物が自分に少しでも付与されれば、ぼろを着て飢えている人にそれを分け与えることができなければなりません。一切れのパンがあれば、そのパンを一人で食べるのではなく、多くの人に分け与えたいと思っていらっしゃるのが神様の心情です。イエス様は、このような心情を身代わりしたのですが、イエス・キリストの前に現れた人間たちは、そうではありませんでした。
 それでは、今日、家庭において不和が生じる原因、争いが起きる原因はどこにあるのでしょうか。それは、家庭は自分だけのために存在すると考えているからです。食べ物があれば、それは自分だけが食べるためにあると考えるので、争いが起き、不和が生じるのです。正にこれが罪の矢であり、サタンだということを、皆さんは肝に銘じなければなりません。
 それゆえに、今日皆さんは、食べる問題を解決しなければならず、着る問題を解決しなければなりません。自分だけのために生きようとする心、すなわち家庭不和の条件を打破しなければならず、正にそのような歴史的な矛盾を踏み越えなければならないのです。このように、皆さんは、衣食住のすべての問題を超え、真の勝利者の姿をもって神様の前に現れなければならない立場に立っていることを忘れてはいけません。

 皆さんは、国と義のために生きる人にならなければなりません。いかなる難しい環境に直面したとしても、自分自身に対する父の願いがあることを思いながら、その環境と闘って勝利する人にならなければなりません。そのような皆さんになって初めて「神様の真の息子、娘だ」と言うことができるのです。
 それでは、神様の国を建設することができる人とはどのような人でしょうか。自分自身を否定し、切ない心で神様のために生きる人です。自らを否定し、社会と民族、国家、世界のために生きる人が、まさしく神様の国を建設することができる人だというのです。さらには、国家と世界を否定しても神様のために生きる人が、天国を建設することができる人だというのです。また何かの悲しい環境に直面しても、自分自身のために悲しむのではなく、社会と国家、世界、ひいては神様のために悲しむ人であってこそ、神様の国を建設することができるのです。
 今日、皆さんは、奉仕する信仰生活をしなければなりません。そのようにして、ただ神様のみ旨と人類だけのために苦労されたイエス様の心情的基準まで行かなければならず、今まで苦労してこられた神様の切ない心情を慰労してさしあげる神様の真の子女の立場まで行かなければなりません。
 皆さんは、不義を見れば憤慨する心をもち、また与えたいと思われる神様の愛をもち、この世の果てにまで行って、神様の国と神様の義を探し立てるために苦労しなければならず、さらには、今まで人類を救援するために悲しみの中で苦労してこられた神様の心情を慰労することができなければなりません。
 それだけではなく、皆さんは、神様の国と神様の義を探し立てるその過程において、サタンとの闘いで敗北せずに勝利し、個人から家庭、社会、民族、国家、世界を一つに連結させることができなければなりません。すなわち皆さんは、いかなる立場に置かれたとしても、そこにおいてサタンと闘い、勝利する人にならなければなりません。
 社会に出ていけば、その社会のどのような環境の中でもサタンと闘い、勝利しなければならず、国家に出ていけば、その国家の最も難しい問題に責任をもって立ち上がり、サタンと闘い、勝利する人にならなければなりません。
 もしこのような人が現れれば、私たちがその人を見ると、今は滅びるように見えるのですが、あとから繁栄するようになるということを、皆さんは知らなければなりません。また、正にそのような人が、家庭や職場、団体、国家の主人です。家庭において父母のために自らの生命を捧げて孝の道理を尽くし、夫と妻が烈男烈女の道理を尽くし、国王のために忠臣の道理を尽くす人が、正にその家庭の主人であり、その国家の主人です。
 このような心が皆さんの心の中からわき出てきて、体と一つになり、サタンまでも皆さんを尊敬して従うようになる時、初めて皆さんは、その国とその義を探し立てる民として立つことができるのです。

 今日、数多くの人々は、「私はいかなる人間だ」、「私は国の民だ」と言って誇っています。今日、アメリカ人たちは、「大国の民だ」と言って誇っています。しかし、それは永遠ではありません。アメリカは、自分の国だけのために生きているのであって、他の国のために生きなければならないということを知らずにいます。昔、ギリシャ文明がローマのためにあったという事実を知らなかったのと同じです。ローマも、自分の国の文明がイギリスを経て現代文明のためにあったということを知りませんでした。それゆえに、今日、アメリカの国民は、自分の国のために働くのはもちろんですが、他の国のためにも働かなければならないことを知らなければなりません。しかし、大部分のアメリカ人は、これを知らずにいます。そのような中でも、自分たちだけのために生きるのではなく、天倫のために働かなければならないという理念が一部の人々に立っているということは、不幸中の幸いです。
 今日、統一教会に集まった皆さん、皆さんは小さな教会に座っていますが、これを広げれば世界に代わることができ、さらには天情に代わることができるという心情を感じたとすれば、問題は解決するでしょう。いかなることも解決することができるのです。皆さんは、神様のみ旨を身代わりした子女なので、神様をこの世界の主人として侍る天国の民にならなければなりません。そして、皆さんは、いつどこにおいても、父のみ旨から外れることができないということを肝に銘じなければなりません。

 歴史的な終末時代において、私たちは、華やかに着て、おなかいっぱいに食べて生きる民族ではなく、歴史に代わって耐え、奉仕する民族にならなければなりません。逆さまにならなければなりません。そうであってこそ公平です。主権をもって他の生命を奪ってきたいかなる理念にも、反対の立場に立たなければなりません。そのような時が来なければなりません。必然的に、このような過程を経なければならない歴史路程です。そうでなければ、道がふさがります。
 そうだとすれば、神様が行く道、神様の息子、娘が行く道、神様の民が行く道とは、どのような道でしょうか。絶えて、奉仕し、犠牲になりながら行く道です。皆さんは、耐えるにおいて盲目的であってはいけません。救い主のために、神様のために耐えなければなりません。神様のみ旨のために耐えなければなりません。一時があるので、その時のために耐えましょう。それゆえに、再臨思想がない高等宗教はありません。
 一時が来ると言いますが、その時とは、どのような時でしょうか。心の主体であられる神様が、心の目的を達成される時です。人間は、心の主体であられる神様のみ旨に従って闘い、その時のために探し求めていかなければならない歴史的な運命に置かれています。人間が神様に従い、神様の目標に向かっていくところでは闘いの路程がないはずがないので、このような曲折を記録しているのが歴史です。
 その闘いとは、どのような闘いでしょうか。耐える者が先に打たれる闘いであり、犠牲になる者が支配される闘いであり、新しい理念と新しい希望をもって立ち上がる人が殺される闘いです。そのような闘いの歴史路程でした。それゆえに、この地上で善を叫んできた人は、誰もが苦痛の路程を耐えなければならなかったのであり、民族に代わって犠牲にならなければならなかったのであり、自分の信念を曲げないために死の場に出ていかなければならなかったのです。

 貧しく暮らしている人に対しては、助けてあげなければなりません。日本を中心としてアメリカを助け、アメリカを通して飢えて死んでいるアジアの人、かわいそうなインドのような所を助けなければなりません。この世界の人々は、一つの国の人々です。アメリカ人がアメリカの国民を愛するよりも、天の国の人が天の国を中心として愛するほうが、より強いというのです。
 今、韓国は悲惨な立場にありますが、ここで支援しているすべてのものをもって韓国を助けてあげれば、韓国民族が私を褒めたたえながら喜ぶことを知っています。しかし、私は、韓国を助けずに、アメリカに来て、このようなことをしているのです。なぜならば、アメリカには世界へ向かい得る、より高い次元の何かがあるからです。

 自分の生活文化の背景に歴史時代の痕跡が残っていては、本然の純粋な天国の民になることができません。サタン世界の文化背景を中心として習慣化した、そのような痕跡は、天国の本然の世界にはあり得ないというのです。生活的、習慣的な要素が残っていては天国に入っていくことができないのです。

 民さえ転換すれば、地は自然に転換するようになります。主権さえ立てられれば、民も転換し、国も転換するのです。ですから、レバレンド・ムーンは、世界的な主権を手にすることができる最も近い基地であるアメリカとソ連に対して関心をもつのです。今まで、ソ連はアメリカと両極化していましたが、彼らさえも世界の頂上で一つに統一されています。神様は、そのような頂上を導きたいと思っていらっしゃるのです。強いて比較するならば、そのようになった時、導いていく機関車のようなものがレバレンド・ムーンだというのです。
 このような一つの主権における一つの民、一つの地、一つの文化圏がエデンの園ですが、エデンの園には言語問題がないというのです。なぜならば、天国には天国の母国語(真の御父母様の言語)を使う人が入っていくようになっているからです。

 一つの国家を見ても、そこには代表者がいて、民族には氏族の代表者がいて、家庭には家庭の代表者がいます。人間は、このようなすべての世界と関係をもっているので、宇宙的な父母、教団的な父母、家庭的な父母に侍っていってこそ天の民となることができるということを、皆さんは知らなければなりません。
 今日、全世界の人類が探し求めているものとは何でしょうか。宇宙的な父母です。特にキリスト教信者たちは、教団的な父母が現れることを願っています。その宇宙的な父母が現れる日が、正に再臨の日です。しかし、まだ教団的な父母と対面させることができる摂理が成されていません。
 神様は、六千年間摂理のみ旨を立ててこられましたが、教団を中心として大祭司長の責任を担ってこなければならないという再臨主の使命が残っているのを見るとき、新郎新婦という約束圏内の摂理は成されたのですが、新郎新婦が教団を中心として生活することができる真の父母の位置には、まだ行くことができないことを知ることができます。
 真の父母の位置が決定するまでは、真の子女たちによって築かれる真の家庭は成立しません。一段階さらに進んで、宇宙的な父母の位置が決定するまでは、教団的な父母の位置が決定されないのです。

 二十四時間、常に明るい光を発し、常に熱い情熱を発する人が神様の国の人です。虫たちが、真っ暗な夜に光のある所に寄り集まってくるのと同じです。
 それゆえに、神様の生命力と愛の力、明るく熱いものを永遠にもち続けることができる人ならば、その人は天国の人に間違いありません。

 真の父の国、真の母の国、真の長子の国があります。そこに連結されて天国の民が生まれるのです。ですから、私が天国の民であり、天国の息子、娘であり、天国の主人だ、そのような結論が出てくるというのです。過程から出発して、天国の主人になるのであり、皇族圏に入っていくのです。家庭の主人は孝子、国の主人は愛国者ですが、此れが一つにずっと連結されなければなりません。一つの道を行かなければなりません。孝子から愛国者、愛国者から聖人、聖人から聖子になるのが一つの方向です。あとに戻ることはありません。
 神様は、一つの道を行くことを願われます。最初は孝子にならなければなりません。「あなたが絶対的に必要だ。苦難の場であろうと幸福な場であろうと一緒にいたい」とおっしゃることができる私にならなければなりません。生涯、「永遠に一緒にいたい」とおっしゃることができる私にならなければなりません。誰がいくら否定し、迫害したとしても、皆さんはその道を行かなければなりません。天国の民になれば、そこには蕩減がありません。一度成し遂げた成果は、永遠に存続するのです。

 皆さんは、この国が認めなければならない真の家庭になるのです。この国の民が認めなければなりません。この国の氏族が認め、この国の家庭が認め、この国の個人が認め、皆さんの家庭が個人、家庭、氏族、民族、国家の認定圏を超えてこそ、世界へ入っていくことができるのです。
 ここで認められなければ、皆さんの行く道はふさがるのです。認められることによって、歴史始まって以来、初めて皆さんは天国の民として入っていくことができることを知らなければなりません。

 皆さんの婚約者が気に入らなくても、耐えて犠牲となり、耐えて奉仕しながら行かなければなりません。「あの人と出会わなければ、私は学ぶことができなかったはずであり、私を天国に行かせるためにあの人を私に与えられ、もっと苦労し、奉仕し、犠牲になることができる精神を私にもたせてくれるのだなあ!」。そのように考えれば、偉大な人となり、天国に行くことができる人になるのです。
 神様は、罪人までもその息子、娘にすることを願われていらっしゃるのに、婚約者の顔が少し悪く、日本人で、背が小さいからといって、「ああ、私の好みに合わない!」と、そのように考えることができますか。男性として生まれ、最も醜い女性を連れて、より犠牲となり、より奉仕すれば、一等天国に行くのだということを考えなさいというのです。
 最も偉大な夫となり、聖人の夫になるのだということを知らなければなりません。統一教会の食口ならば、それくらいのことは考えられなければなりません。

 女性にとって最も幸福であり、最も貴いことは、夫をもったということです。それから、夫婦にとって最もうれしいことは、子女をもったということです。その子女は、父親のものでもなく、母親のものでもありません。この世界のものです。天国のものです。族譜は天国にあるのです。
 自分の息子、娘ですが、みな国籍に入っているでしょう? 国籍があるということは、その国の民だということです。それと同じように、その息子、娘は、天国の息子、娘だというのです。それから、その夫婦は、天国を代表した夫であり、天国を代表した妻だというのです。そのように思うことができる心があってこそ、入籍する時、天国の基準に拍子が合うのです。そして、その基準に共鳴することができるのです。この地上において共鳴的体験をしなくては、いくら祝福を受けたとしても、天上世界では困るというのです。
 男性も同じです。女性をもったということが最高の幸福です。二人が一つになって、愛を中心として息子、娘をもったということが第二の幸福です。そのような愛の家庭を世界に伝授しなければなりません。そのようになれば、天国の民としての資格を完全に備えるのです。

 三位基台は、三大祭物です。アブラハムの三大祭物があり、ノアにも三層の箱舟があったでしょう? すべて三大祭物です。このように祭壇を築いて三人が祭物を捧げ、その地域の民のために忠誠と誠心を尽くし、自分の息子、娘に対して福を祈る心情をもって、その地域を抱くことができる人にならなければなりません。そのような地域を受け持って三年間だけ活動すれば、天の民の資格を備えるのです。

 真の人とは、全体のために犠牲となって苦労した人です。真の人の中には、真の息子がいて、真の娘がいて、真の師、真の友人、真の父母、真の兄弟、真の家庭、真の国、真の天国があります。それでは、真の天国とはどのような所でしょうか。全体のためにより犠牲となり、苦労した人々が行く所です。

 アダムとエバは、個人で間違った結婚をすることによって滅びたので、今は逆に、国家間において二世が交差結婚をするのです。今は、愛さざるを得ません。愛によってその怨讐を溶かさなければなりません。このような基準を立てるためには、アメリカという国を中心として、六カ国の怨讐の国々、日本、韓国、ドイツ、フランス、イギリス等の怨讐が集まり、その怨讐の国に行き、その国の忠臣以上になり、新しい国を蘇生させるための伝統として、怨讐を愛したという挙国的な愛の基台を通してのみ、一つになったその基台の上で天国が出帆するのです。

 天国に行こうとすれば、怨讐を愛さなければなりません。エデンの園には、神様を中心としたアダムとエバ、それからアダムとエバを中心とした天使長がいました。アダムとエバが完成して天国に入っていく時、天使長も一緒に入っていくようになっていました。愛して入っていく所が天国です。天使長が、神様の愛とアダムとエバの愛を受けたのちに、一緒に入っていくのです。それが創造理想です。

 生きるのは、自分のために生きるのではありません。全体を代表して生きなさいというのです。自分が女性ならば、すbての女性に代わってこの時代に生まれ、自分を見ている女性の手本にならなければなりません。一つの標本として生きるのです。そのようになれば、子孫たちは間違いなくその標本に従っていくのです。そのように標本に従って連結する所が天上世界であり、永遠の世界です。ここに合格すれば、すべてのことが無事通過ですが、合格できなければ、大変なことになるのです。真の父母が教えてあげるのではなく、真の父母を通して完成した人々が行く所です。あの世には、そのような教育制度がありません。この地上で教育を受けてから行かなければなりません。地上でつなぐことは、天でもみなつながれ、地上で解くことは、天でもみな解かれるのです。

 天国の民は、万民の前に奉仕の旗を掲げて立ち上がった人々です。それゆえに、今日私たちがある民族を救うためには、自分が所有しているすべてのものを、その民族のために分け与えなければなりません。それでも救うことができなければ、自らの生命まで捧げることができる人にならなければなりません。このような人が、すなわち天国の民です。このような民を糾合して天国理念を成就しなければならない神様の事情があることを、皆さんは考えなければなりません。

 怨讐の子女を自分の息子、娘よりも愛さなければ、天国に行く道がありません。今日の既成教会員たちは、神様に「いつも幸福にしてくださり、私たちの罪と悪なることを、すべて許してください」と祈ります。それは、すべて偽物です。それを知っている文総裁は、神様に祈祷することができません。祈祷する前に実績を収め、それを捧げながらも恥ずかしさを感じなければなりません。面目ない私たちの先祖の罪を、何をもって神様に許していただくのですか。
 いまだに真の父母が結婚式を挙げることができていません。真の父母が定着できていないのです。しかし、今は、真の父母が「真の父母と成約時代安着」という時代を迎えたので、真の父母が初めて還故郷することができるようになったのです。還故郷する時には、散在していたすべての子女を連れていくのです。故郷に行き、真の父母が定着して結婚式を挙げたので、息子、娘を結婚させるようになるのです。
 それゆえ、統一教会は、今まで他の宗教と反対の道を歩んできましたが、誤った宗教ではなく、正統の道を教える宗教だというのです。なぜならば、「真の父母」という言葉をもっているからです。偽りの父母が教えた世界とは反対の世界に立っているのです。
 偽りの父母の立場から、修養して真の父母の道を求めていくためにこのようなことを教えてあげたので、真の父母は、当然還故郷をしなければならず、家庭をもたなければならないというのです。ですから、真の父母の息子、娘も還故郷し、家庭をもたなければならないということは理論的です。

 皆さんの心が「今、私は新しい時代に越えてきている」と思えば、後ろも振り返らずに「世の中よ、さようなら! 私は行く」と言わなければなりません。何の話か分かりますか。天上地上平和統一解放聖火式をしたので、その峠を越えたのです。
 ソドムとゴモラを離れる時、後ろを顧みてはならないと警告したにもかかわらず、ロトの妻が、「ああ、行く道が漠然としている」と言って……。行く目的地も知らず、どこに行くのかも知らず、避難することよりも、今の苦痛が目の前をふさいでいて真っ暗な天地だと思って行くので、女性たちは、昔の暮らしを慕わしく思い、間違いなく後ろを顧みるのです。ですから、終わりの日にはそのような時があるので、「身重の女と乳飲み子をもう女とは、不幸である」(マタイ24/19)と言ったのです。

 皆さんの国がありますか。この国のすべての結論を出さなければなりません。ですから、今から盟誓文も天一国主人です。主人になるのです。天一国主人私たちの家庭は、真の愛を中心として。これが主体です。このようにするのです。分かるでしょう? 盟誓文が変わるのです。盟誓文に主人が生まれました。誰もがみな売り飛ばすことができます。しかし、天一国という言葉は、永遠に、永遠に真の父母によって生まれた言葉です。神様の王権を樹立し、天地父母安着生活圏を経て、地上天上和合統一大会を経て、天宙、天上地上平和統一解放聖火式が終わったので、新しい国が必要です! 分かりますか。

 統一教会に入ってきてどれほど信仰したとしても、心と体が一つにならなければ天国に行くことはできません。闘うところには影があるからです。
 皆さんがここで入籍修練を受け、祝福を受ける時、正午定着ということを言いました。影があってはなりません。
 皆さんの心と体が一つになっていなければ、日の光がさすとき、心が高い位置にあれば、左側に影が生じます。体が良心よりも高くなれば、左側から影が生じます。正午定着にならなければなりません。上中下が完全に垂直に立たなければなりません。神様が一代だとすれば、アダムが二代であり、三代圏が垂直にならなかったというのです。神様には三代がありませんでした。孫と孫娘をもつことができなかったかわいそうな神様だということを知りませんでした。私たち人類の先祖であり、私たちの師の中の師であり、主人の中の主人であり、王の中の王であり、天下の大主宰であられるそのお方が、このように悲惨な立場に立っていらっしゃたという事実を、堕落した人間は知りませんでした。知ることができませんでした。