第4章 天一国の民になる道 : 一 人類に対する神様の希望 :

 神様と人間が一つのみ旨を中心として一つの愛に和合して生き、全天地が神様の愛を喜びながら、その愛を実際の生命の中心として立てた中で、すべてが一つになって生きることが神様の創造本然のみ旨でした。しかし、アダムとエバが堕落することにより、神様の愛は、神様の愛としてのみ残るようになりました。すなわち、人間と関係を結ばなければならない神様の愛は、人間と関係を結ぶことができずに人間から離れるようになり、すべての被造世界から離れるようになったのです。
 それゆえに、今まで神様は、御自身が立てようとされたその愛を中心として、すべての万物を糾合し、神様と万物が共に喜ぶことのできる一日を願われながら、六千年の歴史を経過してこられたのです。しかし、いまだ全被造万物が神様の愛を中心として一つに統一されないまあm、その神様の理念は、理念のまま残っていて、取り戻さなければならない希望の愛もそのまま残っているのです。ですから、今まで神様は、そのみ旨を成し遂げるために摂理してこられたのです。
 このように、人間の堕落以後今日まで、時代を問わず、神様は、神様の希望を成し、人間に対して信じ得る心と、愛することができる一つの心を取り戻すために、長い時間摂理してこられたのですが、いまだにそれらを成し遂げることができず、取り戻すことができずにいらっしゃるのです。

 創世以後今日まで、宇宙的な勝利の一日を迎えることができなかった神様は、地上の人間を通して、願われた勝利の日を迎えようとしていらっしゃるのです。それゆえに、地上の人間たちがその日を探し立ててさしあげることができなければ、この地で人間を蹂躙しているサタンを処分することができないばかりでなく、天上で神様に人間を讒訴しているサタンの勢力も退けることができないのです。それゆえに、神様は、いかなる苦労も意に介されることなく、いかなる犠牲も意に介されることなく、いかなる闘いも意に介されることなく、きょうのこの時間まで、皆さん個人個人を立てるために楯となっていらっしゃるのです。
 これを見れば、私たちは、神様の希望とは何かということを知ることができます。神様は、皆さん個人個人を立てられ、人間を堕落させた怨讐サタンを分別して、サタンが主管する悪の歴史を終結させようとしていらっしゃるのです。
 私たちは、そのような神様の希望を成してさしあげ、天の前や万物の前に堂々と立つことができ、神様に勝利の栄光をお返しできる人間にならなければなりません。そのようになってこそ、苦労してこられた神様の摂理の目的が成し遂げられるようになるのです。

 神様は、アダムとエバを造られ、彼らが希望の人格者になることを懇切に願われたのですが、そのアダムとエバが堕落してしまいました。堕落前から抱いてこられた慕わしい心情、堕落前から抱いてこられた希望の心情に対して、人間の先祖ダムとエバが裏切ることによって、神様の心には悲しみがしみわたるようになったのです。神様は、アダム家庭に対する悲しみの心情、憤りの心情を抑え、慕わしい心情を再び取り戻すためにカインとアベルを立てられたのですが、彼らは、その希望を成してさしあげることができず、逆に悲しみだけを神様に与えたという事実を、皆さんは考えなければなりません。その後、千六百年という歳月を経て、再びノアを立てられました。しかし、結果は同じことになりました。そこからまた四百年を経て、アブラハムを立てられたのですが、やはり同様でした。慕わしく思った一人に出会って心情を分かち合おうとされたのですが、アブラハムも、やはり神様が抱かれた慕わしい心情を完全に解いてさしあげることができなかったのです。そのようにして、数千年間抱いてこられた慕わしい心情を悟らせるために、三代を経ながらヤコブ家庭を立てられたのです。しかし、その家庭においても、完全にみ旨を成し遂げることはできませんでした。
 イスラエル民族を立てられても、このような慕わしい心情を躊躇なく話すことができず、教えることもできず、支配することもできない立場で、彼らのあとから従っていかざるを得なかった神様の事情を、私たちは知らなければなりません。
 慕わしく思ってこられた一つの民族形態を地上に立てられ、その民族が塗炭の苦しみに陥るたびに、神様はその慕わしく思われる心に比例して苦衷を感じられ、悲しまれ、困難に遭われたという事実を、私たちは知らなければなりません。
 長い歴史路程を経てこられる間、神様は、慕わしい心情を私たちの心に植えつけ、歴史に植えつけ、世界に植えつけるために闘ってこられました。それゆえに、私達が接する物一つにも神様の慕わしさがしみ込んでいるという事実を知らなければなりません。私たちが対する食口にも、歴史的な神様の慕わしさがしみ込んでいるということを知らなければなりません。私たちが生きているこの国、この世界にも、神様の慕わしさがしみ込んでいるというのです。
 したがって、私たちが目を上げて、神様がつくってくださった万象を見つめる時、その万象が神様の切実な慕わしさの対象だということを感じなければなりません。万物もそうであるならば、万物の霊長である人間はどうでしょうか。
 たとえ悪の姿をしていても、神様は間違いなく一つの基準をもって慕ってこられたという事実を皆さんが感じるようになる時、天の前に本当に感謝しなければなりません。

 神様が、今まで数多くの悲しみの歴史過程を経てこられながらも、人類を捨てることができずに胸に抱いてこられた内容とは何でしょうか? それは、神様が人間に対して「お前は、私の実の息子、娘だ」と言い得るようになることを願われたのです。このような理想を成し遂げるために、今まで神様は闘ってこられたのです。
 神様の善の園において、神様の栄光の中で、神様の愛を中心として万物が和動する中で、万物の主人の資格を備え、神様に「私の父よ! 栄光をお受けください」と言えたはずのアダムは、堕落により、そのような価値を喪失してしまいました。ですから神様は、創生以後本然の息子、娘が現れて、「お父様」と叫ぶその一言をお聞きになりたかったのだといことを、皆さんは知らなければなりません。
 今日私たちが叫んでいるそのお父様は、罪悪の立場から叫ばれる、そのようなお父様ではありません。したがって、私たちは、罪悪の中から抜け出して、善の理想の園に入っていかなければなりません。その理想の園とは、人間が神様の栄光を現し得る世界であると同時に、喜びに陶酔して生き得る世界です。別の言い方をすれば、人間が動ずれば万物が動じ、人間が静ずれば万物が静ずるようになり、人間と万物が動じ静ずると同時に、創造主である神様も動じ静じ得る世界です。そればかりでなく、神様と人間の相対的な関係を超越して一体となり得る理想の園なのです。
 神様はこのように、人間が神様御自身と一つになることを願われたのであり、一つになった中で驚くべき愛を中心として喜びに酔う、その一場面を思い描きながら、そのような世界を創造してこられたのです。ところが、人間が堕落することにより、これが自分たちの恨みとなると同時に天倫の恨みとなり、堕落以後今日まで、その恨みに恨みを加重させる悲しい歴史を引き起こしてきたのです。
 それでは今日、神様がこの地に対して摂理なさる最大の希望とは何でしょうか。それは、堕落の父母をもっている人類を再び神側に立て、「私は、あなた方の永遠の父であり、あなた方は、私の永遠の息子、娘だ」と叫ぶことです。そのようにすることができる日を迎えることが、堕落した人間たちの歴史的な希望であり、天倫に対する天的な希望だということを、皆さんは知らなければなりません。

 今日、この地上には、数多くの人が生きています。彼らは、各自のビジョンと意見をもって生きており、また何かの主義主張をもって生きています。しかし、心から神様に敬拝し、神様を主張しながら、神様の召命を受けたと、天と地の前で自信をもって立ち上がる人はいません。
 今、私たち人間が最後に取り戻さなければならないこととは何でしょうか。自らの主義主張と、自らのあらゆる主観的な行動をすべて放棄し、自分の心と体は神様に代わり、自分は神様に代わって行動すると主張しながら立ち上がる人がこの地上に現れることを、今日まで歴史上に現れて死んでいった数多くの人々が望んでいたのです。また、神様は、このような代身者が現れることを願われ、無限な苦労と忍耐をされながら、長い間摂理していらっしゃるのです。
 したがって、地上の悲しみとは何かというと、何かの主義がなくて悲しいのではなく、また行動する人がいなくて悲しいのではなく、神様の心情に代わり、神様のみ旨に代わって主張することのできる主義がなく、また神様に代わって行動する人がいないということが悲しみであり、切なさだというのです。
 今日、この地と人間世界に散在している嘆息と苦痛と、しみわたっているあらゆる恨みを除去することに対しても、神様に代わることができる主義主張と、神様に代わる一人の人が現れなければなりません。したがって、摂理の目的もこの一人であり、歴史の目的もこの一人だということを知らなければならない時になったということを、皆さんは再び感じなければなりません。

 皆さんは、神様に代わって心から本当に信じることができる一人の友人をもたなければなりません。さらには、神様に代わって信じることができる一つの兄弟、父母、夫婦をもたなければなりません。そのようにして、家庭を超えて、社会、国家、世界の舞台にまで伸びていかなければなりません。これが神様の願われた希望だったのです。
 しかし、神様は、人間の個人の立場で追い出され、信じることができない立場に立てられ、人間世界のいかなる希望もすべて絶たれた中で、人間をして神様を信じさせるようにされました。そのようにして、その信じる人が一つになって、すなわち兄弟同士、友人同士で、神様に代わってお互いに信じ得る関係を結ぶことを神様は願われたのです。これがまさしく神様の願われた最高の希望なのです。

 レバレンド・ムーンがサタンに、「サタンよ、お前が要求するものはすべて満たしてあげたか、あげなかったか」と尋ねれば、「満たしてくれた」と答えるというのです。神様の本然の愛を中心としたすべてのものを中心として、堕落したサタンまでも愛して余りあるほどに、天国に入っていき得る堂々とした基盤を築いたので、サタンは、「あなたが行く世界は解放であり、あなたの願いで成し遂げられないものはない」と言って祝福しなければなりません。「どこに行こうと、あなたが願うもので、成し遂げられないものはなく、あなたが願うもので、あなたのものではないものはありません」と言うというのです。
 「神様のみ名によって、真の御父母様のみ名によって、真の家庭の名によって世界は解放されなければならない!」と言う時は、「アーメン」と答えるようになっているのです。春が来ました。雪がどれほど冷たく、水がどれほど硬いとしても、溶けるようになっているのです。ですから、春の季節には種を蒔きなさいというのです。サタンが悪の種を蒔いた以上に世界の果てまで、アメリカの果てまで種を蒔くのです!
 良い種は、家庭です。サタンは一つ植えたのです。それが堕落したアダムとエバです。今、私たちは、新しい家庭をつくるために、どこにおいてもそれを築き上げなければなりません。そこにおいてすべてのものを栽培することができます。それをこのアメリカの地でしなければなりません。それが神様の願われた目的です。

 神様が男性と女性を造られ、大きくなることを願われたのは何ゆえでしょうか。愛するためです。愛するためだとすれば、その愛は神様より高くなるほうが良いでしょうか、低くなるほうが良いでしょうか。神様が、「おい、お前たち! 私がお前たちを愛するよりも、お前たちが私を愛するほうが大きくなってはいけない」とおっしゃるでしょうか。そのようにはおっしゃらないというのです。
 それでは、今皆さんが永遠の神様とつかみ合って闘えば、神様のほうが情熱的でしょうか、それとも弱いでしょうか。情熱的です。神様には、すべてあります。ないものがありません。神様がより情熱的な時は、どのような時でしょうか。新しい男性と女性が現れて、昔の私たちの先祖よりも情熱的に愛するようになれば、神様も息切れされるようになるのです。
 そのような情熱的な夫婦に出会ったならば、神様は、人間と離れて生きられるでしょうか。それともくっついて生きられるでしょうか。くっついて生きられるのです。したがって、愛を中心としてのみ、愛においてのみ永遠性があるということを知らなければなりません。真の愛には永遠という概念がある、という話が成立するのです。