第1章 創造の原動力は神様の真の愛 : 一 真の愛は神様のみ旨がとどまる中心 :

 神様は、真理の大王、善の大王、真の大王、愛の大王です。では、神様は、もともといらっしゃったのでしょうか、お生まれになったのでしょうか。神様も大きくなってこられました。それを知らなければなりません。それをどのように知ることができるのですか。神様の本性に似たすべてのものが、小さな細胞から育ってくるのと同じです。それでは、神様は何によって大きくなってこられたのでしょうか。愛ゆえに大きくなってこられたというのです。絶対的な愛を中心として大きくなってこられました。愛の主体が神様であり、人間はその愛の対象です。

 神様は、真の愛のために天地を創造されました。神様が天地を創造されたのは、人を見るためではありません。愛ゆえに創造されたのです。愛は、神様お一人でもつことはできません。お一人で愛を感じることはできません。もちろん、御自身の中に愛はあるのですが、円満に和合する喜びが充満した愛は感じることができません。いくら美しい花が咲いても、香りが出なければならず、いくら香りをもっていたとしても、風が吹いて初めて香りが飛んでいくのです。ですから、風のように相対的な刺激の対象が必要なのです。

 真の愛は、神様が創造される時の根源的力です。原動力だというのです。それゆえに、神様も好むのは、真の愛だというのです。神様も、私たちのように御飯も召し上がり、目もあり、鼻もあり、すべてあります。そのようなお方ですが、そのお方が喜ばれることは何かというと、私たち人間たちが喜ぶ黄金の塊ではありません。それは、いつでもつくることができます。それから、知識も同じです。神様は全知全能のお方です。知識の大王であり、能力の大王です。

 真の愛の深さは、神様がお生まれになる時の、その底まで包括するという話です。どれほど深いか分かりません。神様が存在し始めた根源から始まったので、どれほど深いか分からないのです。一生の間生きても、すべてそこまで行けないので、あの世界に行っても、それに向って永遠に発展するのです。ですから、夫婦でけんかをして別れるというのは考えることもできません。
 神様御自身も育ってこられたというのです。神様がその深さまで、出発とともに根源と一緒にいらっしゃったのです。根源は、神様が先ではなく愛が先です。「神様は二性性相になっている」というのですが、なぜ二性性相ですか。愛ゆえに二性性相を大切に保管するのです。

 真の愛は、神様が思いのままにお出ましになることができる橋になるのです。すべての四肢五体が、いつ愛を中心として表面で一つになってもOKであり、内面で一つになってもOKです。北でも、南でも、東でも、西でも、天国でも、地上世界でも、どこでも同じです。愛を中心として和合することができ、愛を中心として自律的に和動することができるのです。それは、愛だけがもっているものです。
 体制においても同じです。党を神様の絶対的な代わりとして立て、完全に一つになろうとするのは、神様を中心として一つになるということです。

 神様も、真の愛に対しては絶対的に服従します。真の愛を中心としては、神様も生命を捧げようとされます。男性や女性も、真の愛があれば、なぜ命を捧げようとするのですか。愛が生命よりも先だからです。神様がなぜ存在し始めたのでしょうか。愛ゆえに存在し始め、愛するために存在されるというのです。愛という概念がなかったならば、神様も生まれる必要がなかったというのです。
 それゆえに、神様からつくられたすべてのものは、ペア・システムになっています。鉱物世界もペア・システムであり、レベルは低くても、陽イオンと陰イオンも愛を表示しながら絡み合っているのです。これは、レバレンド・ムーンがこの世に現れて、歴史上初めて発表したのです。神様御自身も真の愛を絶対視され、それに絶対服従しながら生きようと思われるその起源を発表したのは、レバレンド・ムーンが歴史上初めてです。それは、観念ではなく事実です。このように神様は、真の愛を求めるために創造されたのです。

 真の愛というものは、神様を介在させることなくしては成立しません。神様が介在されなければ、真という言葉、真という男性、真という女性、真という家庭、真という真理、真という愛がないというのです。神様が介在してこそ、それらが可能なのです。
 神様は、真理の大王であり、善の大王です。真の大王です。愛の大王様です。それゆえに、神様を介在させない所には、善なるものがあり得ないのです。仕事もそうです。神様を抜かして行うのは詐欺です。信じることができません。すべてのものがそうだというのです。神様を介在させることによって、真の基準、永遠の基準が設定されるのです。

 それでは、真の愛と偽りの愛を、何によって分別することができるのですか。自分を中心として「ため」に生きようとする愛は、悪魔と通じる愛であり、相対を中心として「ため」に生きようとする愛は、天地の道理と通じ、神様と通じる愛です。ここに境界線があるのです。
 神様の愛は、与えて、与えて、与えても忘れてしまうのです。それが真の愛です。年を取ったおばあさん、九十歳になったおばあさんが七十歳を越えた息子に、「おい、なにがしよ。きょう外に出たら車に気をつけなさい」と言って、相変わらず昔の幼い時の息子と同じように接してあげるというのです。毎日のように繰り返すその話を、九十歳を越えるまでしても疲れません。千万年たっても疲れないのです。そのような愛が真の愛です。

 自分の生命までも投入して、また投入するという位置、与えて、また与えても忘れてしまうことができる位置においてのみ、真の愛が始まるのです。真の愛は、天地を貫きます。死の世界も貫いて上がっていくのです。
 生命の世界も、硬い心でも、どこでも貫いていくことができるというのです。愛が通ることのできない所はありません。愛は、秘密の部屋も通ることができるのです。

 愛というものは、ただそのまま出てくるのではありません。神様の愛を通じなければ、栄光が出てこないのです。その人が栄光を享受するというのは、自分一人でいる愛をいうのではなく、億万長者になって金の畑に座っていることをいうのではありません。
 愛の因縁を完全に備え、変わらない幸福の位置にいることを、栄光を享受するというのです。栄光は、神様の愛を除いてはあり得ないというのです。責任を完遂したのちに、完成段階の基準を経たのちに神様の愛を受けるようになれば、栄光は自動的に訪れるのです。

 真の愛は、神様よりも貴くなり得るのです。それは何の話かといえば、神様でも愛の相対は、何千万倍も立派であることを願うというのです。それは逆にいえば、真の愛の対象は、神様より貴いというのです。皆さんも、相対が皆さんより立派であることを願うのが愛です。

 真の愛は、神様の愛です。霊界に行けば、真の愛の色と味を感じることができます。そのような世界が霊界です。その真の愛と和合すれば、通じない所や聞こえない所がなく、すべて通じるのです。真の愛の主人である神様の産毛があるならば、その産毛も真の愛に属しているので、少しだけ動いても天下がすぐに知るようになります。鋭敏だというのです。感情が宇宙的感情にまで、すべて通じるというのです。

 愛を中心として、人間たちが神様、創造主以上の位置にまで上がっていける特権を許諾したその道を歩んでいくことができ、従っていくことができる方向を教えてあげるので「神主義」というのです。
 「神主義」は真の愛主義ですが、真の愛主義は、堕落した生命を犠牲にして投入することができる道を訪ねていかない限り、その道に到達できないのです。それで聖書は、「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」と、逆説的な論理を教えてくれたことを知らなければなりません。

 愛の道を尋ね求めていく人は、どのようなものを備えなければならないのでしょうか。神様の愛、神様と父母、そして私が一つにならなければなりません。それで初めて真の愛だというのです。これが、神様のみ旨のとどまることのできる中心です。私がそのみ旨と一つになることのできる中心です。