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第一章 原相論 : 二 原相の構造 : (三) 四位基台の種類 |
それでは、再び本論に戻って四位基台の種類を扱うことにします。先に四位基台には自同的四位基台と発展的四位基台のほかに、内的四位基台と外的四位基台という異なる二種類の四位基台があることを明らかにしました。したがって四位基台は四種類あるという結論になるのです。実際には、これらが互いに組み合った次のような四位基台が形成されています。すなわち内的自同的四位基台、外的自同的四位基台、内的発展的四位基台、外的発展的四位基台です。次に、これらの四位基台について説明されています。
(1)内的自同的四位基台
これは、内的自同的四位基台は内的四位基台と自同的四位基台が組み合わさったものです。すなわち本性相の内部の内的四位基台が自己同一性つまり不変性をもつようになったものをいいます。
自同的四位基台とは、性相と形状が授受作用を行ったのち、その結果として合性体または統一体を成す四位基台を意味します。ところが、そのような四位基台が実は内外に同時に形成されるのです。例えば人間の場合、誰でも考えながら生活していますけど、考えるということは内的に内的性相と内的形状が授受作用すること、すなわち内的四位基台の形成を意味します。そして生活するとは、外的に他人と授受作用すること、すなわち外的四位基台を形成を意味します。
ここでの「考え」とは漠然とした非生産的な考えであって、その考えの結果はただ心の一つの状態であるだけです。すなわち内的性相と内的形状の合性体であるだけなのです。そのような合性体を成す容易基台が自同的四位基台ですが、それが内的に心の中で成されるので内的自同的四位基台となります。
被造物の内的自同的四位基台において、その中心は心情または創造目的であり、主体と対象の授受作用は円満に調和的になされ、その結果は合性体(統一体)になります。すべての被造物は例外なく他者と授受作用をしていますが、そのとき必ず被造物の内部において授受作用が行われ、四位基台が形成されています。そのような被造物の内的自同的四位基台の原型が、本性相内の内的自同的四位基台なのです。
(2)外的自同的四位基台
これは、外的四位基台と自同的四位基台が一つに組み合わさったものです。すなわち本性相の外部の(本性相と本形状の)外的四位基台が自己同一性(不変性)を帯びるようになったものをいい、神様が万物を創造する直前の属性の状態、すなわち性相と形状が中和を成した状態を意味するのです。私たちは家庭的にも社会的にも他人と関係を結んで助け合い、頼り合いながら生きています。そのときの四位基台がまさに外的自同的四位基台なのです。
ただし、その時、内的自同的四位基台が伴うようになります。その良い例が夫婦生活です。夫と妻がそれぞれ内的生活すなわち内的自同的四位基台を形成しながら、その土台の上で互いに協助し和合して夫婦一体(合性体)を成しているのであって、それが外的自同的四位基台の形成なのです。そのように外的自同的四位基台は内的自同的四位基台と不可分の関係をもっており、内的自同的四位基台の土台の上に外的自同的四位基台が成立するのです。
次は、万物相互間の実例として太陽と地球の例を挙げています。太陽と地球は万有原力(万有引力)を授け受けながら授受作用を行っています。そのとき、太陽が主体であり地球は対象です。したがって太陽は地球に対して中心的であり、地球は太陽に対して依存的なのです。
被造世界において、授受作用は原則的に、対象が主体を中心として回る円環運動として現れます。それは、原相内の性相と形状の授受作用の円和性を象徴的に表現しているのです。言い換えれば、被造世界において一定の円環運動が起これば、そこには必ず主体と対象間の授受作用がなされているのです。
太陽と地球の関係において、地球は太陽を中心に回りながら(公転)、地球自体も回っています(自転)。これは地球と太陽系の自己同一性を維持するためなのです。すなわち地球は自転を通じて自体の存立(自己同一性)を維持し、公転を通じて太陽と共に太陽系全体の存立(自己同一性)を維持しています。地球のこのような自転と公転は、内的に地球の内部で自己同一性の維持のための授受作用が行われ、外的に太陽との間に自己同一性の維持のための授受作用が行われていることを示しているのです。一方で太陽は、太陽として自転し自己同一性を維持しながら、同時に地球に対しては主体として地球の中心となって地球を主管しているのです。すなわち地球に万有原力(万有引力)と光を与え、地球の公転を助けながら、地球上の生物を生かしているのです。それだけでなく、銀河系の中心に対しては対象となって銀河系の周辺を公転しています。そのように太陽と地球の例を見るとき、そこに内的自同的四位基台と外的自同的四位基台が同時に造成されていることを知ることができます。それは両者が不可分の関係にあるからなのです。
このような内的自同性の維持と外的自同性の維持を現す円環運動、すなわち自転と公転は、本膳の人間生活においても同じなのです。ただし人間生活は精神と精神の関係を中心とした生活であるために、円環運動は物理的な運動ではなくて、原相の場合と同じように愛を中心とした円満性、調和性、円滑性を帯びた授受作用を意味します。したがって内的な自己同一性(内的自同的四位基台)の維持は、愛を中心として他人と和解しながら、よりよく他人に奉仕しようとする心の姿勢として現れます。外的な自己同一性(外的自同的四位基台)の維持は、対象においては、主体を中心とする公転運動として現れます。すなわち、主体に対する感謝に満ちた従順さとして現れます。主体においては、対象に対する主管は真理の力と愛の光として現れます。すなわち、対象をよく教えながら継続して愛を施す姿勢として現れます。
以上は、本然の世界において造成される内的自同的四位基台と外的自同的四位基台に対する説明ですが、今日の堕落した社会では、その模範的な例をほとんど見出すことができないようになりました。そして価値観の総体的な崩壊と社会的犯罪の増大を招いているのです。言い換えれば、原相の内的および外的な自同的四位基台理論は現実問題の解決のまた一つの重要な基準となるのです。
(3)内的発展的四位基台
これは、内的四位基台と発展的四位基台が組み合わさったものです。すなわち本性相内の内的四位基台が発展性、運動性を帯びるようになったものをいいます。ここに発展的四位基台とは、創造目的を中心として主体と対象が授受作用を行い、新生体を生じるときの四位基台を意味します。
四位基台は内外において形成されます。しかし自同的四基台の場合とは違って、発展的四位基台の場合、同時的ではなくて継時的になります。すなわち、まず内的な発展的四位基台が形成され、続いて外的には発展的四基台が形成されるのです。
内的発展的四位基台は創造において最初に形成される四位基台です。例えば人間が製品を作るとか作品を作るとき、まず心で構想し、計画を立てます。次のその構想や計画に従って道具や機械を使用して製品を(作品)を製作(創作)します。そのように構想の段階が先であり、製作の段階が後です。構想は心で行うために内的であり、製作は道具や機械を使用しながら行うために外的です。構想も製作も授受作用による四位基台の造成です。そして構想した結果も新生体であり、製作した製品も新生体です。ここに構想は漠然たる構想ではなく、一定の製品を製作しようとする明確な目標に基づいた構想です。製作の場合も同じです。
したがって構想段階の四位基台はいずれも目的を中心とした四位基台です。そのように目的と新生体を伴った四位基台が発展的四位基台なのですが、それが内外の二段階として形成されます。初めの構想段階が内的発展的四位基台、次の製作段階が外的発展的四位基台なのです。
人間の制作活動において、まず構想が立てられるのは、その原型が「原相の構造」にあるからです。それがまさに本性相の目的を中心とした内的性相と内的形状の授受作用であり、ロゴスを形成する内的発展的四位基台なのです。そのように、原相の内的発展的四位基台が被造物のすべての内的発展的四位基台の原型になっているのです。
それでは本性相内の発展的四位基台に関して、さらく詳しく説明します。そのために「中心=目的」、「主体=内的性相」、「対象=内的形状」、「内的授受作用」、「結果=構想」などの項目に分けて説明してゆきます。
1 中心=目的
内的発展的四位基台の中心は目的(創造目的)ですが、それは心情、すなわち愛そうとする情的な衝動に基づいた創造目的です。そのように神様の創造は真情を動機としているために、創造の目的を愛の対象を立てて、被造世界に愛を実現することなのです。そうすることによって神様は喜びと慰めを得ようとされたのです。人間は神様の直接的な愛の対象として造られ、万物は人間の愛の対象として造られました。したがって人間の被造目的は、人間が互いに愛し合い、万物を愛することによって、神様に喜びと慰めを与えることにあり、万物の被造目的は、互いに調和しながら人間に美と喜びを与えることにあるのです。しかし、堕落のために人間は互いに愛し合うことができなくなり、万物を愛せなくなったのです。そして、万物の美しさも全面的に受け入れることができないようになったのです。そのため神様を悲しませ、万物を苦しめるよな結果となったのです(ローマ8/22)。
人間は、創造の相似の法則に従って神様に似るように造られました。創造目的においても同じです。すなわち人間のすべての創造活動(製作、生産、創作など)の目的は、神様の創造目的に従って神様の愛を実現することなのです。しかし、堕落によって人間は自己中心的になり、神様の愛を実現することができなくなりました。そして天道に背いた結果となり、人間社会は混乱に陥るようになったのです。したがって今日の世界的大混乱を収拾する方案の一つは、すべての創作活動において、その目的を神様の創造目的に一致させることなのです。したがって内的発展的四位基台の中心である目的に関する理論も、現実問題解決のまた一つの基準となるのです。
2 主体=内的性相
内的性相とは何か
内的発展的四位基台において、主体の立場にある要素は内的性相です。内的性相とは知情意の機能ですが、この三つの機能はそれぞれ別個の独立した機能ではなく、互いに連結されています。知的機能にも情と意が含まれており、情的機能にも知と意が含まれており、意的機能にも知と情が含まれているのです。すなわち三つの機能は統一されていて、その統一体がある時は知的機能をより多く発揮し、ある時は情的機能をより多く発揮し、ある時は意的機能をより多く発揮するのです。知情意の機能というとき、このような性格の三機能として理解する必要があります。そして内的発展的四位基台形成において、神様はこのような性格の三機能を発揮したと見られるのです。
そのように知情意の三機能を理解するとき、現実世界において、知情意の三機能に対応する本然の真美善の価値も共通要素をもっていることが分かります。さらにこの真美善の三つの価値に対応する文化の三大領域(科学・哲学などの学問分野、芸術分野、宗教・道徳分野)も共通要素をもっており、それらの中間領域もあることが分かるのです。
この事実は創造と関連して現実的に重要な意味を持ちます。すなわちそれは、神様が創造において心情を動機として創造目的を立て、その目的を中心として知情意の三機能を総動員して、全力投入しながら創造をなされたことを意味するからです。(文先生は「神様は天地創造において自身を全力投入した」と語られていました)。そればかりでなく、再創造においても知情意の機能をすべて集中させたことを意味するのです。さらには復帰歴史において、特に末世的な混乱が続く今日、知情意のそれぞれに対応する科学、哲学などの学問分野、音楽、舞踊、絵画、彫刻、文化、詩などの芸術分野、宗教、道徳、教育などの規範分野の三大文化分野は、神様の創造理想世界の実現、すなわち統一文化世界、心情文化世界の創建に総動員されなければならないことを意味するのです。
それにもかかわらず、今日、すべての文化領域は方向感覚を喪失しているだけでなく、次第により低俗な方向に堕ちていっています。ここに共産主義や金日成主体思想のような似非改革思想が浸透して、すべての文化領域、特に芸術分野に対して、プロレタリア芸術とか民衆芸術などと言いながら、より低俗化させ、不毛化させているのです。それは背後のサタンのなせるわざなのです。
したがって今日、文化領域に携わっているすべての知性人、学者たちの使命が明白になってきます。それは神様の創造目的を正しく理解し、創造目的を実現し、創造理想世界を建設するために、すなわち統一文化(心情文化)世界を創建するために総決起し、総進軍しなければならないということなのです。このように見るとき、創造に際して、原相の内的発展的四位基台の形成において、内的性相である知情意の三機能が目的を中心に総動員されたという事実も、現実問題の解決の重要な基準になっていることが分かります。
内的性相は肉心と生心の統一体です
ここで付言されていることは、人間の知情意には肉身と霊人体の知情意が共に含まれているという事実です。人間は肉身と霊人体の二重体(統一体)であるために、人間の心(本心)も肉心と生心の統一体になっています。したがって内的性相においても、肉身の知情意の機能と生心の知情意の機能が複合的に統一されているのです。
肉心の知的機能は感覚と知覚の程度であり、せいぜい若干の悟性的機能を現すにすぎません。しかし生心の知的機能は感性、悟性、理性をみなもっており、普遍的真理を体得することもできます。生心はまた自己を認識し反省する能力、すなわち自我意識をもっています。大脳生理学者のジョン・エックルスや生物学者のアンドレ・グド=ペロのような科学者が、人間にだけ自我意識があると言ったのは、人間には生心があるためなのです。
肉心の情的機能も生心の情的機能に比べれば低次元です。肉心の情的機能は生心と同じように喜怒哀楽を感じ、限られた範囲内では愛他心も発揮します。しかし生心の情的機能は高次元であって、それゆえ人間は芸術生活をすることができるのです。自己の命まで捧げて民族や人類を愛するのも人間が生心をもっているためなのです。
肉心の意的機能も生心の意的機能に比べれば低次元です。意的機能は意欲性であって、創造目的(個体目的と全体目的)を達成しようとする実践心(実践力)または決断心(決断力)をいいます。動物の創造目的は主に物質生活(食べる、生きる、子を生むなど)を通じて達成されますが、人間の創造目的は肉身生活を基礎としながら精神生活(真美善の価値の生活)を通じて達成されるのです。したがって意的機能においても、動物と人間の間には顕著な差異があるのです。すなわち動物の意的機能は衣食住と性に関するものですが、人間の意的機能は肉心の意的機能と生心の意的機能が合わさったものです。しかも本然の人間においては生心の機能が肉心の機能より優位にあるために、人間の意的機能は先次的に価値(精神的価値)を追求し後次的に物質生活を追及するのです。
以上、人間の知情意の機能は、肉心の知情意と生心の知情意の統一されたものであるということが明らかにされました。すなわち知的機能は二つの心(肉心と生心)の知的機能の統一であり、情的機能も、意的機能も、二つの心のそれぞれの機能の統一なのです。さらにこのように統一された知的機能、情的機能、意的機能の三つの機能までも、互いに分離されているのではなく、統一されているのです。統一思想の認識論においては、この内的性相の統一された側面を特に取り上げて、これを「霊的統覚」と呼んでいます。生心を中心として統一された認識能力という意味です。そして、このように内的性相を知情意の統一体と見る観点は、自由の問題に対して、伝統的な未解決の問題に解決を与えているのです。
3 対象=内的形状
内的形状とは何か
次は発展的四位基台において、対象の立場にある内的形状について説明されています。これまで述べられているように、内的形状は本性相内にある形の部分であって、観念、概念、原則、数理などです。観念とは、すでに創造されたか、または将来、創造される被造物の一つ一つの具体的な表象(映像)です。概念は、一群の観念に共通した要素を心の中に映像化したものです。原則は、被造世界の自然法則と規範法則などの根本原因となる法則です。そして数理は、数的原理として自然界の数的現象の究極的原因です。
それでは内的形状を成している要素を創造と関連させてみることにします。内的形状は、神様の宇宙創造におて、いかなる役割を果たしのでしょうか。比喩的に言えば、鋳型の役割を果たしのです。鋳型とは、溶けた金属の液体(融解液)を注いで製品を造るときの型を意味します。創造において、融解液に相当するものが本形状、すなわち前エネルギーです。つまり、あたかも人間が鉄の融解液を鋳型に注いで鉄製品を造るように、神様は内的形状という霊的鋳型に本形状という霊的液体を注ぎ入れるような方式で万物を造られたと見るのです。
内的形状は一種の鋳型である
ところで、神様の内的形状内の鋳型は人工の鋳型とは異なり、外見のみの鋳型ではありません。それは内容、すなわち細密な内部構造までも備えた鋳型です。人間の創造に際しての鋳型は、五臓六腑をはじめ、各種の器官、組織、細胞に至るまでの細密な構造を備えた鋳型であり、創造においてそのような鋳型の役割をなしたのが内的形状の観念、概念、原則、数理などであると見るのです。私たちが万物を見るとき、大小に限らず、万物は必ず一定の形をもっており、一定の種類に従って共通性をもっており、一定の法則が作用し、一定の数的内容をもっていることを見ることができます。これはあたかも鉄製品の形がその鋳型に似るように、万物はみな霊的鋳型である内的形状に似たものであると見るのです。
以上説明した内的形状は、創造に直接関連したもの、すなわち被造物の直接的模型となったものです。しかし、そのほかに創造も模型とは無関係な観念、概念、原則、数理はいくらでもあるということを明らかにされています。例えば「神様」、「私」、「父母」、「美」、「理想」、「目的」などの観念や概念は、時空の世界に万物として造られることはないのです。これらは創造と間接的に関連はありますが、直接的に被造物になることはできないものなのです。
4 内的授受作用
内的授受作用とは何か
本性相内において、新生体の形成のための授受作用によって内的発展的四位基台が形成されますが、そのときの授受作用が内的授受作用です。この授受作用もやはり主体と対象間の授受作用であって、それは内的性相である知情意の統一的機能と内的形状との授受作用を意味します。もちろん創造目的を中心とした授受作用です。この内的授受作用は要するに「考えること」、「思考すること」、「構想すること」を意味します。なぜならば本性相は神様の心であり、その心の中でなされる授受作用であるからです。
ここで、「考えること」をなぜ授受作用と見るのでしょうか。私たちが常識的に知っている考えとは、次のような機能を果たす心の作用です。すなわち、記憶、回想、判断、関心、計画、意見、理解、想像、推測、推理、希望、思索、瞑想、解釈などの心の作用です。甚だしくは妄想までも心に現れる現象であるために、やはり考えの概念に含めることができるでしょう。
このような心の現象(考え)は、過去に経験したことに対する考え、現在の状況に対する考え、そして未来のことに対する考えの三種類に区分することができます。過去に経験したことに対する考えとは、記憶に関することであり、現在の状況に対する考えとは、意見、推測、理解などに関することであり、未来のことに対する考えとは、計画、希望、理想などに関することになります。ここで指摘すべきことは、いかなる考えも、あらかじめ心の中に一定量の観念(映像)が入っていなければ成立しないという事実です。そのような心の観念はひとえに経験を通じてのみ形成されます。すなわち、私たちが目を閉じても、心の中で鳥を考え、花を考えることができるのは、実際に過去に鳥や花を見た経験があるからなのです。
観念の操作
考えるのに一定量の観念が必要であるということは何を意味するのでしょうか。過去のことを思い出すだけでなく、現在のことを考察し、未来のことを見通す考えまでも、すべて過去に一度経験した観念をもつことによってのみ可能であるということを意味するのです。したがって過去の経験が豊かであるほど、すなわち経験した観念が多いほど、多く考えることができるのです。これはあたかも、貯蓄を多くしておけば、いつでも必要な時に引き出して生計を増やすことができるのと同じです。また私たちが家財道具を多く倉庫に蓄えておけば、いつでも必要な時に引き出して使うことができるのと同じです。私たちが知識を学び見聞を広げるのも、結局は記憶の倉庫にいろいろな観念を多く貯蓄するためであり、実際、たくさん貯蓄されているのです。そのように、考えるとは倉庫から貯蓄物を引き出して必要な時に適切に使用するように、記憶の倉庫から観念を取り出していろいろと扱うことを意味するのです。そのようなプロセスを統一思想では「観念の操作」といいます。
観念とは、心に保管されている表象または映像のことなのですが、それぞれの事物に対する映像のような簡単なものを単純観念といい、単純観念が二つ以上複合されたものを複合観念といいます(ただし、これは比較上の相対的な概念です)。ここで操作とは、機械のようなものをあれこれ扱うことを意味します。すなわち、必要な部品や機械を貯蔵所から取り出すこと、必要な機械と機械を連結させること、必要に応じて機械を構成部分に分解すること、部品を集めて新しい機械を組み立てること、機械の母体はそのままにしておいて二つの部品の位置を交換すること、いろいろな機械を連結させて一つに統一することなどの作業を意味するのです。
観念の操作は授受作用です
以前の内容と同様な方式で観念を扱うことが観念の操作です。すなわち、まず機械の取り出しに相当する観念の操作が「想起」であり、機械の連結の操作に相当するのが観念と観念の「連合」または「複合」であり、機械の分解に相当するのが観念の「分析」であり、新しい機械の組み立てに相当するのが新しい観念の「構成」であり、部品の位置の交換に相当するのが観念の「換位」であり、いろいろな機械の連結、統一に該当するのが観念の「総合」であり、そのほかに、重要な観念の操作の一つに、一定の観念を「そうでない」と否定することもありますが、これを「換質」といいます。要約すれば、観念の操作とは、過去に経験したいろいろな観念の中から必要なものを用いて、想起、連合、分析、総合、換位、換質などを行うことをいいます。
想起は過去の経験の中から必要な観念を取り出すことであり、連合は一つの観念を考えるとき、それによって他の観念が連想されることです(例えば父親を考えるときには母親が連想される)。いくつかの小さな観念が集まって大きな観念を成すのが構成です(例えば、土台、礎石、柱、桁、梁、大梁、たる木、屋根、部屋などの観念が集まって、家庭という大きな観念が構成される)。ある観念を小さい観念に区分するのが分析です(例えば、人体は神経系統、消化器系統、感覚器官、循環器系統、呼吸器系統、筋肉組織、泌尿器、内分泌腺、リンパ系統などから成っているという時の細分する方式)。分析したいろいろな観念を再び一つの大きな観念に総合する方式が総合です(例えば、神経系統、消化器系統、感覚器官、循環器系統、呼吸器、泌尿器などが合一したものが人体であるというときの思考方式)。一つの判断の意味を変えないようにしながら主語と述語を換える操作を換位といいます(例えば、「すべてのAはBである」をを「あるBはAである」とすること)。そして一つの肯定判断を否定判断にするとき、その述語を矛盾観念に換えて意味が変わらないようにする操作を換質といいます(例えば、「AはBである」を「Aは非Bでない」とすること)。
説明が少し長くなりましたが、「考え」が内的授受作用であることを理解するのに助けになるようにするためでした。
授受作用の類型
以上で、いろいろな考え(回想、判断、意見、想像、理解、推理など)が、いろいろな方式の観念の操作にすぎなかったことが理解できると思います。そして観念操作とは、まさに授受作用のことなのです。そのことを具体的に説明されています。
観念の操作が授受作用であることを理解するためには、まず授受作用の類型を理解する必要があります。それは両側意識型(第一型)、片側意識型(第二型)、無自覚型(第三型)、他律型(第四型)、対比型(対照型:第五型)の五つの授受作用をいいます。
両側意識型とは、主体と対象が共に意識をもって行う授受作用をいいます。片側意識型とは、主体だけが意識をもっており、対象は無機物あるいは無生命の存在であるとき、その両者の間で行われる授受作用をいいます。無自覚型とは、主体と対象の間で、無意識的に行われる授受作用(例えば、動物と植物間の二酸化炭素と酸素の交換)をいいます。他律型とは、両者が共に無生命の存在であって、第三者から与えられた力によって行う授受作用(例えば、製作者の意志に従って動く機械)をいうのです。
そして対比型とは、認識または判断の場合に形成されるものです。そのとき片側意識型の場合と同様に主体だけが意識をもっていますが、主体が複数の対象あるいは対象の複数の要素を比較しながら認識(判断)するのです。例えば、道を歩いている一組の男女を眺めて、二人の年齢や身ぶりなどを比較または対照してみて彼らが夫婦であると判断すること、店で商品を眺めて比較しながら良いものを選ぶこと、緑の森の中に赤い瓦の屋根があるのを見て調和の美を感じることなどは、みな対比型の授受作用なのです。対比による判断は主体が一方的に行っていますが、それが授受作用であるのは、主体は対象に関心をもち、対象は主体に自身の姿を見せることによって、授け受ける作用になるからです。
考え(思考)も対比型の授受作用である
先に考え(思考)は授受作用であると説明されていましたが、実はこの対比型の授受作用だったのです。すなわち人間の場合、心の中で知情意の統一体である霊的統覚(内的性相)が主体となって、内的形状の中の経験から得られたいろいろな観念を対比しているのです。霊的統覚が対比するとき、二つの要素の中の一つを主体として、他の一つを対象として両者を対比するのであり、そこにおいて、霊的統覚の関心が両者の間を往来するために、内的形状内の対比される任意の二つの要素間の作用も一種の授受作用と見られるのです(それは狭い意味での対比型の授受作用です)。霊的統覚と内的形状との授受作用も対比型の授受作用であり、内的形状内の対比される任意の二要素間の作用も対比型の授受作用なのです。
授受作用(対比)の結果はどうなるのでしょうか。両者が完全に一致する場合もあり、ただ似ている場合もあり、一致しない場合もあります。時には正反対になる場合もあります。また両者が対応関係になる場合もあり、そうでないこともあります。そして授受作用は目的を中心としてなされるために、目的によって結果は異なります。そのような多様な結果を予想しながら、霊的統覚はできるだけ一定の方向へ授受作用を調整してゆきます。これがまさに考えるということの内容なのです。考えには、回想、理解、判断、推理、希望などいろいろありますが、それらは授受作用の目的と対比の方式の違いによるのです。そのようにして、多様な考えが水が流れるように継続的につながっていくのです。
ところでこの考えの流れは、いったんまとめられます。すなわち創造しようとする被造物の鋳型(模型)になる観念(単純観念と複合観念)が決められます。それを「鋳型性観念」と呼ぶことにします。これは対比型の授受作用によって新生体が形成されたことを意味します。すなわち創造に関する鋳型は新生体としての「新生観念」なのです。しかしこれはまだロゴス(構想)としての新生体ではなく、その前段階です。これを「前ロゴス」(Pre-logos)または「前構想」ということができると思います。新生観念である鋳型性観念は、その観念に必要な概念、原則、数理などの要素をみな備えており、緻密な内部構造までも備えた具体的な観念なのです。そのように新生観念が形成される段階が内的授受作用の初期段階なのです。そして実際の被造物に対するロゴス(構想)は後期段階において立てられるのです。
目的が中心である
以上で、考えとは心の中で行われる内的授受作用であることを明らかにしましたが、それは授受作用であるために目的が中心となっています。人間の考えには目的のない漠然としたものも少なくありませんが、神様は創造の神様であられるので、神様の考え(構想)には初めから目的がありました。それがまさに心情に基づいた創造目的(全体目的と個体目的)なのです。
神様が創造を考える前段階、すなわち心情を中心とした四位基台(自同的四位基台)だけの段階もありましたが、心情は抑えがたい情的な衝動であるために、自同的四位基台の上に必然的に創造目的が立てられ、発展的四基台が形成されたと見なければなりません。創造後にも自同的四位基台(神様の不変性、絶対性)が発展的四位基台の土台になっているという事実がそのことを裏づけています。そのように神様の構想は、目的があって立てられたのです。
これは、とても重要なことを示しています。なぜならば、これもまた現実問題解決の重要な一つの基準になるためです。すなわち人間は、いかなる考えでもするようにはなっていないこと、本然の人間においては、必ず心情を動機として、創造目的の達成のために考えるようになっていることを意味するのです。したがって今日の社会的混乱を収拾するためには、自己中心的な恣意的な思考パターンを捨てて、本然の思考パターンに戻り、愛を動機とした創造目的の実現すなわち地上天国実現のために考え、行動しなければならないということなのです。
5 結果=構想
構想とは何か
次は結果、すなわち構想について説明されています。内的発展的四位基台の結果の位置に立てられる構想とは、具体的にいかなるものなのでしょうか。すでに「内的授受作用」においても構想を扱いましたが、その構想は「考える」という意味の構想、すなわち内的授受作用と同じ意味の構想でした。しかし、ここでいう構想は、考えた結果としての構想であって、ヨハネによる福音書一章一節にある言すなわちロゴスを意味します。それは神性の一つであるロゴスのことなのです。神性のロゴスのところですでに構想と理法に関しては説明をしました。それにもかかわらず、ここで再び論じるのは、そこで扱ったのは構想(言)としてのロゴスというよりは理法としてのロゴスであって、ここで少し説明を補充する必要があるためです。そこでロゴスに関して要点を再び紹介し、続いて若干の補充を行うことにします。
『原理講論』によればロゴスは言または理法ですが、言は構想、思考、計画などであり、理法は理性と法則の統一です。理性には自由性と目的性があり、法則性には必然性と機械性があります。したがって理性と法則の統一である理法は、自由性と必然性の統一、目的性と機械性の統一でもあります。そのような理法によって宇宙万物が創造されたために、万物の中に理法が入っており、万物相互間にも、理法が作用しています。そして自然界に作用している理法が自然法則であり、人間生活で守られなければならない理法が価値法則(規範)なのです。
自由性と必然性の統一が理法であるということは、自由は必然つまり法則の中での自由であり原理の中での自由であること、すなわち原理の中での理性の選択の自由であることを意味します。したがって原理や法則を無視した自由は実は放縦なのです。すでに述べられているように、言も理法も共にロゴスですが、言の一部が理法なのです。また理法は言と共に、神様の二性性相に似た神様の対象であるため(『原理講論』P265)、一種の新生体であり、被造物なのです。そして創造は心情を動機としているので、理法も愛が土台となっているということ、したがって自然法則や価値法則の背後にも愛が作用しているということも明らかにされたのです。さらに、日常生活において理法は必ず守られなければなりませんが、温かい愛の中で理法の守られる生活であってこそ、そこに初めて百合が咲き乱れる春の国のような平和が訪れるということも明らかにされたのです。
構想としてのロゴス
以上が神性で扱ったロゴスの要点です。しかし、そこでは主として理法としてのロゴスを扱ったのであり、言すなわち構想としてのロゴスのことは詳細には扱われませんでした。そこで構想としてのロゴスに関して具体的に説明されています。
すでに内的授受作用の説明の中でも構想を扱いましたが、それは新生体(結果物)としての構想ではなく、主として考えるという意味の構想、すなわち授受作用としての構想、観念の操作としての構想でした。そのとき、観念の操作の意味をもつ構想のほかに、新生体の意味をもつ「前構想」という概念についても、すでに触れています。すなわち創造を目的とした対比型の授受作用の結果、形成された新生体としての、概念、原則、数理などを備えた、緻密な内部構造をもった、よりいっそう具体化された鋳型(霊的鋳型)、つまり模型としての新生観念(鋳型性観念)について述べられました。
しかしそのような構想は、神様が宇宙を創造した言としての構想ではなく、ただその前段階にすぎないのです。それは写真と同じような静的映像にすぎず、映画のような生動感のある動的映像ではありません。それは文字どおりの設計図です。しかし、神様が宇宙を創造した言であるロゴスは生命が入っている生きた新生体であり、生きた構想なのです。ヨハネによる福音書一章にはその事実が次のように書かれています。「初めに言があった。言は神様と共にあった。言は神様であった。この言は初めに神様と共にあった。すべてのものはこれによってできた。……この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネ1/1〜4)。
ロゴスは構想体である
そのように万物を創造した言は、生命をもった生動する構想体でした。それは観念の操作の段階で形成された新生体としての緻密な内部構造を備えた新生観念(鋳型性観念)に生命が与えられて、動的性格を帯びるようになったものです。では、いかにして静的な性格をもった新生観念が動的性格を帯びるようになったのでしょうか。内的授受作用における初期と後期の二段階の過程によってそうなったのです。すなわち霊的統覚(知情意の統一体)と内的形状との授受作用に初期段階と後期段階の二つの段階があるのです。その初期段階において、観念の操作によって新生観念(前構想)が形成されます。そして後期段階において、心情(愛)の力によって知情意の機能が注入され、新生観念が活力すなわち生命を得るようになって、完成された構想として現れるのです。
ここで明らかにしなければならないことは、知情意の中に可能性として含まれていた陽性と陰性が、後期段階において表面化されて、知情意の機能の発現に調和的な変化を起こすという事実です。そのようにして完成された構想が神様の対象であるロゴスであり、二性性相を統一的にもったロゴス、つまり「ロゴスの二性性相」(『原理講論』P265)なのです。それがまさに宇宙を創造した言としてのロゴスであり、内的発展的四位基台の結果である構想なのです。
ロゴスの二性性相とは、内的性相と内的形状の二要素がロゴスの次元と種類によって、必要なだけ内包されていることを意味します。すなわち内的性相である知情意の機能と、内的形状である観念、概念、原則(法則)、数理などが、創造される万物の次元と種類に従って、それぞれ各様にロゴスの中に含まれています。それは内的授受作用の後期の段階において、すでに観念の操作によって形成された前構想の中に、心情の衝動力によって知情意の機能がそれぞれ次元を異にしながら注入され、前構想を活発化させたということなのです。
(4)外的発展的四位基台
1 外的発展的四位基台とは何か
これは、外的四位基台と発展的四位基台を組み合わせたものであって、本性相の外部での授受作用すなわち本性相と本形状の授受作用の土台になっている外的四位基台が発展性、運動性を帯びるようになったものをいいます。
これまで述べてきたように、発展とは、新しい性質をもつ個体すなわち新生体が生まれることをいいます(発展は創造を結果の側面から把握した概念です)。したがって発展的四位基台とは、創造目的を中心として主体と対象が授受作用を行い新生体を生じる時の四位基台を意味するのです。そのように外的発展的四位基台は、本性相の外部に形成された外的四位基台が発展性を帯びることによって、発展的四位基台になったものです。
先に述べられているように外的四位基台は、内的発展的四基台に続いて形成されます。すなわち本性相を中心として見るとき、自同的四位基台の場合と同じように、発展的四位基台も本性相の内外で形成されますが、自同的四位基台の場合のように同時的ではなく継続的なのです。まず内的な基台が形成され、次に外的な基台が形成されるのです。
2 内的発展的四位基台の基盤の上に形成される
四位基台とは、要するに心情または目的を中心として授受作用を行い、結果が生じる現象を空間的概念として表現したものです。したがって、内的および外的発展的四位基台も授受作用として理解すればいいことになります。発展とは、創造を結果の面から把握した概念であるため、発展的四位基台を理解するためには、創造や製作がいかになされるかを調べればいいのです。そのことを人間の場合を例に取って説明されています。
人間は何かを造ろうとするとき、まず心において構想します。例えば家を建てようとすれば、一定の目的を立てて、構想し、計画書や青写真を作ります。計画書や青写真は構想を忘れないように紙面に表しただけで、やはり構想なのです。それが先に述べられた内的授受作用、すなわち創造の第一段階なのです。
次に、創造の第二段階が始まります。これは構想に従って建築材料を用いて建築工事を行うことです。そして一定の時間ののちに、目的とした建物が完成します。このように建築材料を用いて、構想どおりに家を建てることも授受作用ですが、これは心の外で行われる授受作用であるため外的授受作用です。
考えられた構想も以前にはなかった新しいものであり、造られた建物も以前にはなかった新しいものであって、いずれも新生体です。そのような新生体の出現は動機から見れば創造であり、結果から見れば発展なのです。外的授受作用において、主体は構想(実際は構想をもった人間、またはその人間を代理した他の人間)であり、対象は建築資材などです。そして主体と対象の授受作用が建築工事の遂行であり、授受作用の結果が完成された建物なのです。
画家が絵を描く場合を例に挙げています。画家はまず一定の目的を立てて、構想します。時にはその構想を素描として表すこともあります。それが第一段階なのです。構想が終われば、第二段階の作業が開始されます。すなわち画幅、筆、絵具、画架などの画具を使いながら、画家は構想したとおりの絵を描きます。そして絵が完成するのです。
ここにおいて第一段階の構想も授受作用であり、第二段階の絵を描くことも授受作用です。そして第一段階の構想も、第二段階の絵も、いずれも以前にはなかった新しい結果であるので新生体なのです。そのように、絵を描くことも創造であり発展なのです。
3 すべての創造は二段階の発展的四位基台によってなされる
ここで、次のような事実が明らかになります。第一に、創造には必ず二段階の過程があるということです。第二に、第一段階は内的な構想の段階であり、第二段階は外的な作業の段階であるということです。第三に、二段階の授受作用がいずれも同一の目的を中心として成され、必ずその結果として新生体を造るということです。ここで、第一段階は内的発展的授受作用の段階であり、第二段階は外的発展的授受作用の段階です。
このような一連の原則はすべての創造活動に適用されます。すなわち生産、製作、発明、芸術など、いかなる種類の創造活動にも例外なく適用されるのです。それは、その基準が神様の原相にあったからです。それが本性相の内外の授受作用、すなわち内的発展的授受作用と外的発展的授受作用です。神様はまず一定の目的を立てられ、万物の創造を構想したあと、材料に相当する形状(前エネルギー)を用いて、構想したとおりに万物を造られました。ここで神様が構想する段階が内的発展的授受作用の段階であり、実際に万物を造る段階が外的発展的授受作用の段階です。
以上、人間の創造や製作には必ずその前に構想がなければならないということ、したがって外的発展的授受作用には必ずその前に内的発展的授受作用がなければならないということが明らかになったのです。そして人間の構想の時の授受作用の原型は、神様の原相内の授受作用だったのです。
原相内の授受作用は、必ず四位基台を土台として行われます。それゆえ四位基台の別名が授受作用であり、授受作用の別名が四位基台なのです。したがって神様の創造において、内的発展的授受作用が必ず外的発展的授受作用に先行するということは、内的発展的四位基台が必ず外的発展的四基台に先行して形成されることを意味するのです。言い換えれば、創造においては必ず内的発展的四位基台と外的発展的四位基台が連続的に形成されるのです。これを「原相の創造の二段構造」といいます。人間の場合、現実的な創造活動の時にも、内的および外的な四位基台が連続的に形成されます。そして人間の創造活動において、連続的に形成される二段階の四位基台を「現実的な創造の二段構造」というのです。
ここで次のような疑問が生じるかもしれません。すなわち「創造には必ずまず構想が立てられなければならない」というように、分かりやすく表現すればよいのに、なぜ内的発展的四位基台とか、外的発展的四位基台とか、二段構造などの難しい表現を使うのか、統一思想はなぜ分かりやすい言葉も難しく表現しようとするのか、という疑問です。結論から言えば、それは統一思想が天宙の根本原理を扱っているためなのです。
根本原理とは、霊界と地上界を問わず、存在世界に現れるすべての現象に共通に適用される根本理致をいいます。この根本理致すなわち原理は深くて広い内容を含んでいますが、それを表す用語はできるだけ簡単なものでなくてはなりません。その例の一つが「二性性相」すなわち「性相と形状」です。この用語は人間の心と体を現す用語であるだけでなく、動物、植物、鉱物、さらには霊人体や霊界のすべての存在がもっている相対的属性を表す用語です。そのように二性性相の意味は大変深くて広いのです。しかし二性性相の用語はそのままでは理解しがたいので、易しく詳細に説明する必要があるのです。そして時には例えや比喩も必要です。統一思想において扱う根本原理は五官で感じられない神様と霊界世界に関するものが大部分であるため、なおさらそうなのです。
ところで、例えや比喩を挙げながら行う説明は、ただ根本原理を明らかにする手段にすぎず、根本原理それ自体ではありません。根本原理それ自体はあくまでも神様の「二性性相」または「性相と形状」なのです。同様に、「授受作用」、「四位基台」、「二段構造」なども根本原理に関する概念すなわち基本概念であるので、それらの用語を取り除くことはできません。「内的発展的四位基台」、「外的発展的四位基台」、「創造の二段構造」なども、そのような根本原理を含んだ概念なのです。
さらには「一分一秒を惜しみながら生きなければならないこの忙しい時に、そのような難しい概念をわれわれが学ばなければならない必要があるのか」という疑問もありうるでしょう。それは、そのような基本概念を正しく把握することによってのみ、現実のいろいろな難問題を根本的に解決することのできる基準が明らかになるためです。
4 外的発展的四位基台の構成要素
次は、再び本論に戻って、「外的発展的四位基台」の説明を継続されています。先に人間の創造活動において、外的発展的四位基台は必ず内的発展的四位基台の次の段階として形成されるので、そのような二段階過程を「現実的な創造の二段構造」といいましたが、神様の創造においても、同様な創造の二段構造が形成されます。本性相の内外において形成される内的発展的四位基台と外的発展的四位基台がそれなのです。これは原相内において創造の時に形成される四位基台であるため、「原相の創造の二段構造」といいます。
原相内の内的発展的四位基台については、すでに「内的発展的四位基台」の項目で詳細に説明しましたので、ここでは説明が省略されています。ただ内的発展的四位基台の四つの位置において、中心の位置には目的が立てられ、主体の位置には内的性相(霊的統覚)、対象の位置には内的形状、結果の位置には構想が新生体として立てられるということ、主体と対象の授受作用は考える過程すなわち観念の操作の過程であるということを想起するだけにしています。
原相内の外的発展的四位基台も四つの位置、すなわち中心、主体、対象、結果から成るのはもちろんですが、そのときの中心は内的な四位基台の場合と同様に心情に基づいた創造目的であり、主体は本性相であり、対象は本形状です。そして授受作用によって形成される結果は新生体としての被造物なのです。次にこの四つの位置、すなわち中心、主体、対象、結果の位置にそれぞれ立てられるところの、目的、本性相、本形状および被造物に関して具体的に説明することになります。
目的は、内的発展的授受作用の場合の目的すなわち創造目的と同じであるので、ここでは省略し、主体=本性相、対象=本形状、外的授受作用、結果=被造物の項目に分けて説明します。
主体=本性相
原相の外的発展的四位基台は本性相と本形状との授受作用の基台です。ここに本性相が主体の立場にあるのは言うまでもありませんが、本性相は、具体的にいかなるものでしょうか。それはまさに、内的発展的四位基台の結果の立場にある構想です。すなわち目的を中心として内的性相と内的形状が内的授受作用を行って、新生体として現れたみ言であり、ロゴスであり、構想です。ここに内的授受作用は考えること、すなわち思考の過程です。
すでに述べてきたように、内的授受作用の過程には前段階と後段階の二段階があります。前段階は観念の操作が進行する過程であって、そこにおいて前構想が形成されます。そしてあとの段階では霊的統覚から知情意の機能が、その属性である陽性・陰性の影響を受けながら前構想に注入されて、前構想が生命をもつ完成した構想として現れるようになるのです。そのようにして完成した構想がまさに二性性相をもつロゴスなのです。そのようにしてロゴスは新生体として本性相の内部に形成されたものですが、主体(本性相)と対象(本形状)の授受作用において、霊的統覚に保持されながら、主体として作用するのです。
ここで明らかにしておきたいことは、内的授受作用によって内的性相である霊的統覚(知情意の統一体)が内的形状内に形成された新生観念に注入されるとしても、霊的統覚自体は本来無限性を帯びた機能であるので、その一部が新生観念の中に注入されたのちにも、依然として内的性相としての知情意の統一的機能はそのまま維持しているということなのです。したがって本性相と本形状間の授受作用において、主体としての本性相は霊的統覚に保持された状態にあるロゴスなのです。
対象=本形状
すでに「神相」のところで説明したように、本形状は無限応形性の究極的な質料的要素です。質料的要素とは、被造物の有形的要素の根本原因を意味し、無限応形性とは、あたかも水の場合と同じように、いかなる形態でも取ることのできる可能性を意味するのです。
質料的要素は物質の根本原因であるのですが、科学の限界を超えた究極的原因なので、統一思想ではこれを前段階エネルギー、または簡単に前エネルギーと呼んでいます。次に述べるように、水が容器に注がれれば容器の形態を取るように、本形状が本性相の構想の鋳型(霊的鋳型)の中に注入されて、現実的な万物として造られるようになるのです。
外的授受作用
次は、外的授受作用について説明されています。神様の性相と形状の授受作用によって万物が創造されたという統一原理や統一思想の主張が正しいことを明らかにしようとしているのです。外的授受作用も四位基台を土台として行われます。そのとき分かれていた主体と対象が再び合わさって一つの新生体、すなわち万物になるというように説明しましたが、それはあくまでも理解を助けるための方便的な説明でした。神様は時間と空間を超越しておられるので、神様の世界には内外、上下、遠近、広狭がありません。大中小もなく無限大と無限小が同じなのです。また先後がないので過去、現在、未来がなく、永遠と瞬間が同じなのです。
時空を超越した神様の世界で授受作用が行われているのですが、その授受作用を説明の便宜上(理解の便宜上)、主体と対象が同一空間を重畳的に占めながら授受作用を行っていると見ることができます。例えば、人間の霊人体(主体)と肉身(対象)は、空間的に離れていたものが一つになったというのではなく、本来から同一の空間を重畳的に占めていながら授受作用をしていますが、それと同じだということができます。そのような観点から、原相内の外的授受作用を同一空間を重畳的に占めている主体と対象間の授受作用と見て、また授受作用によって生じた新生体である被造物もやはり同一空間を重畳的に占めていると見て、論理を展開することにしました。
すでに述べましたように、外的発展的四位基台の主体である本性相は霊的統覚に保持された状態にある新生体としてのロゴスであり、対象である本形状は無限応形性をもった前エネルギーです。このような主体と対象が重畳して同一空間を占めたまま授受作用を行い、新生体である被造物(例えば、馬のような動物)を産出(創造)するようになりますが、そのとき産出された被造物も同一の空間を重畳的に占めると見るのです。以上で授受作用が行われる四位基台の四つの位置は、分かれている四つの位置ではなく、四つの定着物を重ねている一つの位置なのです。その一つの位置において、互いに重なったまま、目的を中心として主体と対象が授受作用を行い、その結果物として被造物が生じたと見るのです。
それでは授受作用の具体的な内容を説明します。重畳した状態での授受作用とは、本形状である前エネルギーが本性相内に形成された構想(ロゴス)の鋳型(霊的鋳型)の中にしみ込むということです。先にも述べられているように、本性相内の内的授受作用の初段階において形成された緻密な内部構造を備えた新生観念としての鋳型性観念が、次の段階で心情の衝動によって生命を賦与されて現れたものが完成した構想でした。この完成した構想は生命をもつ鋳型性観念であり、生きている鋳型です。この鋳型は初期段階の緻密な内部構造を備えた鋳型性観念が後期段階で活力を与えられたものです。しかしいくら活力を与えられたとしての、そしていくら名部構造が緻密であるとしても、鋳型(霊的鋳型)であることには違いありません。したがって実際の鋳型に鉄の融液を注入して鉄製品を造る場合と同じく、この鋳型性観念にも必ず融液に相当する本形状の質料(前エネルギー)が注入されうる空間があるようになっているのです。
言い換えれば、鋳型の空間は必ず融液が入って満たされるようになっているのです。本性相と本形状の間にこのような現象が行われるとき、それがまさに授受作用なのです。すなわち本性相の鋳型性観念内の緻密な空間に、本形状の質料的要素が浸透して満たすのが授受作用なのです(そのとき、本形状の中に可能性として潜在していた属性である陽性と陰性が表面化され、質料的要素の浸透の流れに調和的な変化を起こします)。なぜこのような現象が授受作用になるのかといえば、本性相は鋳型の空間でもって本形状に質料の浸透の機会を提供し、本形状は質料でもって空間を満たすことによって、その空間の存在目的を果たすようになるためです。
以上、理解を助けるためにいささか模型的に表現しましたが、このような作用が同一の位置において、主体と対象が重畳した状態でなされたのです。これが神様の宇宙創造において、原相の内部でなされた外的授受作用の真の内容だったのです。
ここで一つ付け加えることは、この授受作用は片側意識型の授受作用であるということです。なぜならこの授受作用において、主体は知情意の統一体である霊的統覚(鋳型性観念を含む)であり、対象は本形状(質料)であるためです。
結果=被造物
結果としての被造物は、創造目的を中心として本性相と本形状が授受作用することによって形成された新生体です。それが『原理講論』(1957年韓国版)に書かれた「被造世界は二性性相の主体としておられる神様の本性相と本形状が創造原理によって形象的または象徴的な実体としての展開された……神様の実体対象である」(P25)という文章の中の「実体対象」であり、「神様の二性性相をかたどった個性真理体」(同上、P25)であり、「主体と対象の二性性相の実体的展開によって創造された被造物」(同上、P24)なのです。そして『原理講論』に書かれた「被造物はすべて、無形の主体としていまし給う神様の二性性相に分立された、神様の実体対象である」(P47,48)というときの「実体対象」なのであり、「このような実体対象を個性真理体と称する」(同上、P48)というときの「個性真理体」なのです。
そこにおいて統一原理(『原理解説』および『原理講論』)でいう「実体対象」や「個性真理体」という概念は、被造物を見る観点によって表現を異にする概念です。「実体対象」は、客観的、物質的側面を浮き上がらせた概念であり、ロゴスのように心に描かれた観念的な対象ではなくて、三次元の空間的要素を備えた客観的、物質的な対象であるという意味なのです。それに対して「個性真理体」は、被造物が神様の二性性相に似たものであるという側面を浮き上がらせた概念なのです。被造物はすべて相似の法則によって創造されたために、例外なく個性真理体なのです。
相似と外的授受作用
被造物が神様の二性性相をかたどったというとき、外的授受作用の観点から見て、その相似の内容は具体的にいかなるものなのでしょうか。すでに説明したように、被造物は本性相と本形状が創造目的を中心として授受作用をした結果として現れた新生体でした。そのとき、本性相は生きている鋳型性観念を保持した霊的統覚、または霊的統覚に保持された生きている鋳型性観念であり、本形状は質料的要素です。そして生きている鋳型性観念がロゴス、すなわち二性性相を帯びたロゴスなのです。
ロゴスの二性性相とは内的性相と内的形状の二要素をいいますが、そこにおいて内的性相は知情意の機能であり、内的形状は観念の操作によって形成された新生観念としての鋳型性観念を意味します。すなわちロゴスは知情意の機能と鋳型性観念が複合された新生体なのです。したがって最終の新生体である被造物の中に含まれた本性相の部分は、内的性相に相当する霊的統覚の一部としての知情意の機能と、内的形状に相当する鋳型性観念です。そして本形状の質料的要素はそのまますべて被造物に含まれています。それが「鋳型性観念の緻密な空間の中に本形状の質料的要素が浸透した」ということの意味なのです。そのように外的授受作用によって、本性相の要素と本形状の要素が被造物を構成したのです。
ここで一つ明らかにしておきたいことは、本性相と本形状はその属性である陽性(本陽性)と陰性(本陰性)を帯びながら被造物を構成したという事実です。そうして被造物はすべて、神様の本性相と本形状の要素と、本陽性と本陰性の要素を帯びるようになったのです。
そして、本性相の中に含まれた鋳型性観念はそのまま個別相でもありました。結局、被造物は神様の属性(本性相と本形状、本陽性と本陰性、個別相)をみな引き受けたという結論になります。そのような被造物(個体)を個性真理体といいます。それが統一原理でいう「被造物は神様の二性性相をかたどった個性真理体である」ということの内容なのです。
ロゴスと被造物の関係
次は、ロゴスと被造物の関係について述べられています。聖書には、神様が万物を言でもって造られたと記録されていますが(ヨハネ1/1〜3)、その言がまさにロゴスなのです(『原理講論』P265)。ところが『原理講論』には、「ロゴスは神様の対象」であり、「ロゴスの主体である神様が、二性性相としておられるので、その対象であるロゴスも、やはり二性性相とならざるを得ない」(同上P265)、「もし、ロゴスが二性性相になっていないならば、ロゴスで創造された被造物も、二性性相になっているはずがない」(同上P265)とあります。これは被造物の二性性相はロゴスの二性性相に似ており、ロゴスの二性性相は神様の二性性相に似ているということを意味します。したがってロゴスの二性性相と神様の二性性相が完全に同一なものであるかの印象を受けます。
しかし統一思想から見るとき、神様の二性性相は本性相と本形状ですが、ロゴスの二性性相は内的性相と内的形状です。すなわち神様の二性性相とロゴスの二性性相とは同じではありません。したがって被造物が神様の二性性相に似るというのは、神様の本性相と本形状に似るという意味であり、ロゴスの二性性相に似るとということは、ロゴスの内的性相と内的形状に似るという意味なのです。ここで万物が似ているロゴスの内的性相と内的形状とは、具体的にいかなるものなのでしょうか。
すでに述べられているように、ロゴスは、内的授受作用の後期段階において霊的統覚の一部が前段階で形成された新生観念(鋳型性観念)に注入されることによって生じた完成した構想であり、生きた構想でした。したがってロゴスの内的性相は、鋳型性観念の中に注入された一部の知情意の機能であり、内的形状は鋳型性観念それ自体なのです。そのような内容をもつ内的性相と内的形状がロゴスの二性性相なのです。『原理講論』において、被造物の二性性相はロゴスの二性性相に似ているというときのロゴスの二性性相とは、まさにそのような内容の二性性相であったのです。
ここで指摘するのは、空間的な三次元の実体である被造物の姿がそのままロゴスの二性性相に似ているのではないということです。ロゴスは生きた構想であり、活力を帯びた観念にすぎません。それは動く映像のようなものであり、夢の中で会うようなものなのです。人間や万物がロゴスの二性性相に似ているということは、そのような生きた映像に似ていることを意味します。夢の中の人間や万物は物質的な体をもっていませんが、その他の面では現実の人間や万物と似ています。それが物質的な体まで備えた存在になるためには、神様の二性性相に似なければなりません。すなわち神様の本性相と本形状に似なければならないのです。
それでは、いかにすれば神様の本性相と本形状に似るようになるのでしょうか。それは外的授受作用によって、本形状である質料的要素(前エネルギー)が本性相である生きた鋳型の緻密な空間の中へ浸透することによって、似るようになるのです。そのような授受作用を通じて、動く映像が物質的な体を備えるようになり、現実的な実体となるのです。そしてそのとき被造物は、神様の二性性相に似た被造物となるのです。
以上で神様の二性性相とロゴスの二性性相が具体的にどのように違うのか、明らかにされたと思います。それと同時に、被造物が神様の二性性相に似ているという場合と、ロゴスの二性性相に似ているという場合の、その違いも明らかになったと思います。次は、授受作用に関連した正分合作用について説明します。