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第十章 論理学 : 三 統一論理学から見た従来の論理学 : |
形式論理学
形式論理学そのものに対しては、統一論理学は何も反対することはありません。すなわち、形式論理学の扱っている思考の法則や形式に関する理論はそのまま認めているのです。しかし、人間の思考には、形式の側面だけではなく内容の側面もあります。また思考には、理由や目的や方向性があり、ほかの分野との関連性もあります。すなわち思考は、思考のための思考ではなく、認識や実践(主管)のための思考であり、創造目的実現のための思考なのです。つまり、思考の法則や形式は思考が成立し、維持されるために必要な条件にすぎないのです。
ヘーゲル論理学
ヘーゲル論理学は、神様がいかにして宇宙を創造されたのかを哲学的に説明しようとしたものです。ヘーゲルは神様をロゴスまたは概念として理解し、概念が宇宙創造の出発点であると考えたのです。
ヘーゲルはまず、概念の世界における「有−無−成」の展開について説明しました。有はそのままでは発展がないので、有に対するものとして無を考えました。そして有と無の対立の統一として成が生じるとしたのです。しかし、そこには問題があります。ヘーゲルにおいて本来、無は有の解釈つまり有の意味にすぎないのであって、有と無が分かれているのではありません。ところがヘーゲルは、有と無を分けてしまい、あたかも有と無が対立しているかのように説明したのです。したがってヘーゲル哲学は、出発点からすでに誤謬があったのです。
次に問題になるのは、概念が自己発展するという点です。統一思想から見れば、原相の構造において、概念は内的形状に属するのであり、目的を中心として、内的性相である知情意の機能−特に知の機能の中の理性−が内的形状に作用することによって、ロゴス(構想)が形成され、それが新しい概念になるのです。したがってロゴスや概念は、神様の心の中に授受作用によって形成されるもの(新生体)であって、それ自体が自己発展するということはありえないのです。チュービンゲン大学総長リューメリンは、ヘーゲルの主張する「概念の自己発展」を批判して次のように述べています。
ヘーゲルのいわゆる思弁的方法なるものが、その創始者ヘーゲルにとって、一体どんな意味をもっていたのかということを理解するために……われわれがどんなに骨を折り頭を悩ましたかは言語に絶する。人々はみな他を顧みて頭をふりながら、こう尋ねたものである。一体君には分かるかね。君が何もしないのに概念は君の頭の中でひとりでに動くかね、と。そうだと答えられるような人は、思弁的な頭脳の持ち主だと言われた。こういう人とは別なわれわれは、有限な悟性的カテゴリーにおける思考の段階に立っているにすぎなかった。……われわれは、なぜこの方法を十分に理解しなかったかという理由を、われわれ自身の天分の愚かさに求めて、あえてこの方法そのものの不明晰や欠陥にあると考えるだけの勇気がなかったのである。
またヘーゲルの弁証法からは、次のような問題が生じます。ヘーゲルは、自然を理念の自己疎外または他在形式であると見ました。これは原相論で指摘したように、汎神論−自然を神様そのものの現われと見て、両者に区別をおかない見方−に通じる考え方でした。それは、容易に唯物論に転化する素地となったのです。
ヘーゲルの弁証法において、自然は人間が発生するまでの中間的過程にすぎなかったのです。建物が出来上がると、途中に組み立てられていた足場は取り去られます。それと同じように、人間が発生してからの自然は、それ自体としては哲学的には無意味なものとなったのです。
彼はまた、歴史の発展において、人間は理性の詭計に操られているとしましたが、そのために人間は、あたかも絶対精神によって操られる人形のような存在となってしまいました。しかし統一思想から見れば、神様が一方的に歴史を動かしているのではありません。人間の責任分担と神様の責任分担が合わさって歴史はつくられたのです。
さらにヘーゲルの正反合の弁証法は円環性であり、帰還性であるので、最終的には完結点に達するようになります。したがってヘーゲルにおいて、プロシアは歴史の終わりに完結点として現れる理性国家とならなければなりませんでした。しかし、実際は、プロシアは理性国家になれず歴史の中に消えてゆきました。したがって、プロシアの終わりとともに、ヘーゲル哲学も終わりを告げたということになります。
以上のように、ヘーゲル哲学は多くの問題点を抱えていましたが、そのような誤りを生じた原因は、彼の論理学にあったと見ざるをえません。そのことを次に検討されています。
ヘーゲルは、概念の発展を正反合の弁証的発展としてとらえました。概念(理念)は自己を疎外して自然となり、その後、人間を通じて精神となり、本来の自身を回復するというのです。ハンス・ライゼガングによれば、このようなヘーゲルの思考方式は彼の聖書研究に基づいた特有の方式であるといいます。すなわち、高い総合のうちに止揚されるヘーゲルの対立の哲学は、「一粒の種が地に落ちて死ななければそれはただ一粒のままである。しかし、もし死んだら豊かに実を結ぶようになる」、「私はよみがえりであり命である。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」というヨハネ福音書をテーマにしたものだといいます。
そのような立場からヘーゲルは、神様をロゴスまたは概念としてとらえ、そしてそのような神様が、あたかも地に蒔かれた種の生命が外部に自己を現すように、自己を外部の世界に疎外したと見たのです。そこにヘーゲルの犯した誤りの根本原因があったのです。
統一思想から見れば、神様は心情(愛)の神様であり、愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動によって、創造目的を立て、ロゴスでもって宇宙を創造されたのです。その時のロゴスは神様の心の中に形成された創造の構想であるだけで、神様そのものではありません。しかし、ヘーゲルの概念弁証法において、神様には心情(愛)や創造目的は見当たらないだけでなく、神様は創造の神様ではなくて、発芽して成長する一種の生命体であったのです。
ここで、ヘーゲル論理学と統一論理学の重要な概念を比較してみれば、その意味するところは異なっていますが、互いに相応する関係にあることが分かります。ヘーゲルにおけるロゴスは、統一思想では神様の構想に相当します。ヘーゲルのロゴスの弁証法は、統一思想では原相の授受作用に対応します。そしてヘーゲルの正反合の形式は、統一思想の正分合の形式に対応します。ヘーゲルの帰還的、完結的な弁証法は、統一思想では、自然界においては創造目的を中心とした授受作用による螺旋形の発展運動に相当し、歴史においては再創造と復帰の法則に相当します。ヘーゲルは自然を通じて理念を見いだそうとしましたが、統一思想は万物を通じて象徴的に、原相(神相と神性)を発見するのです。したがってヘーゲルの汎神論的性格は、統一思想においては汎神相論−すべての被造物において神相が現れているという見方−をもって克服することができるのです。
マルクス主義論理学
これまでに述べられているように、旧ソ連の思想界において引き起こされた言語学論争を収拾するために、スターリンは「マルクス主義と言語学の諸問題」という論文を発表し、そこで彼は、言語は上部構造に属するものではなく、階級的なものではないと結論を下したのでした。その結果、形式論理学の矛盾律・同一律は認められるようになったのです。
しかし、形式論理学の同一律・矛盾律は思考の法則であるだけで、客観世界の発展法則ではありませんでした。したがって思考が同一律・矛盾律に従うということは認めるとしても、客観世界に関する限り、発展は矛盾の法則(対立物の統一と闘争の法則)に従うというのです。形式論理学は自然界を扱うのではなく、思考を扱うからだというのです。しかしそうすると、「思考は客観世界の反映である」という唯物弁証法の本来の主張が崩れるというアポリア(aporia)が生じてしまったのです。
そのようにスターリンの論文が発表されたあとは、唯物弁証法において、客観世界の法則(矛盾の法則)と思考の法則(同一律)が相反するようになってしまったのです。それに対して、客観世界においても、思考においても、発展性(変化性)と不変性が統一されていると見るのが、統一思想の主張なのです。
悟性段階の思考(あるいは認識)は、主として自己同一的です。なぜならば、外界から来た感性的内容と内部の原型が照合することによって、認識がいったん完了するからです。ところが理性的段階における思考は、発展的になります。しかしそうであっても思考は、段階的に発展するので、それぞれの段階において完結的な(すなわち自己同一的な)側面もあるのです。したがって統一思想は同一律・矛盾律も当然認める立場です。
ともかく唯物弁証法において、形式論理学すなわち同一律・矛盾律を認めるようになったということは、何を意味するのでしょうか。本来、唯物弁証法の基本的な主張は、事物を不断に変化し、発展するものとしてとらえるということでした。ところが同一律・矛盾律を認めたということは、たとえ思考に関することであるにせよ、不変性を肯定するようになって、唯物弁証法の変質をもたらしたことを意味するのです。これは、弁証法の修正ないしは崩壊を意味するものです。同時に、事物を自己同一性と発展性の統一として把握する統一思想の主張が正しいことを証明するものなのです。
記号論理学
思考の正確さや厳密さを期するということは意義あることであって、記号論理学に反対する理由はなにもありません。しかし、数学的厳密さだけでは、人間の思考を十分にとらえることはできません。
原相において、内的性相と内的形状が授受作用してロゴスが形成されましたが、そのとき内的形状は原則として数理を含んでいるので、授受作用を通じて形成されたロゴスも数理性を帯びています。したがって、ロゴスによって創造された万物には数理性が現れます。ですので科学者たちは、自然を数学的に研究しているのです。
人間の思考は、ロゴスを基準にしたものです。したがって人間の思考にも当然、数理性があるのです。言い換えれば、思考は数理的正確さに従ってなされるのが望ましいのです。ここに、記号論理学が思考を数理的に研究する意義が認められるのです。
しかし、そこには留意しなければならない点があります。それは内的性相と内的形状の授受作用において、心情が中心になっていることです。これはロゴス(言)の形成において、心情が理性や数理より上位にあることを意味しています。したがって、人間は本来、ロゴス的存在(理性的、法則的存在)であるのみならず、より本質的にはパスト的存在(心情的、感情的存在)であるのです。すなわち、思考にたとえ数学的厳密さがなくても、そこに愛あるいは感情がこもっていれば、発言者の意向が十分に相手に伝えられるのです。
例えば、誰かが火事に出会って「火だ!」と叫ぶとき、これは文法的に見れば、「これが火だ」という意味か、「今、火事が起きた」という意味か、分からないのです。しかし、差し迫った場合には、助けを求める訴えの感情がそこにこもっていれば、その言葉に文法的な正確さがなくても、その意味はすぐ分かるのです。
人間は本来、ロゴスとパストの合性体です。ロゴスだけに従うのでは、人間としては半面の価値しかありません。理性的だけでは人間性が不足しており、情的な側面を共に備えて初めて完全な人間らしさが出るのです。したがって、あまり正確でない言葉の方が、かえって人間らしいという場合もあります。つまり人間の思考には、厳密を要する面もありますが、必ずしも常に正確に、論理的に表現しなくてはならないと主張することはできないのです。
イエス様の言葉を見ても、非論理的な面がたくさん見られます。しかし、その言葉はなぜ偉大なのでしょうか。それはその言葉のうちに、神様の愛が含まれているからなのです。したがって、人間の言葉が正確に論理に従っていなくても、その中にパスト的な要素が適切に含まれているとすれば、その意味するところを十分に相手に伝えることができるのです。
先験的論理学
カントは、対象からの感性的内容と人間悟性の先天的な思惟形式が結合して、認識の対象が構成されることによって、初めて認識と思考がなされると主張しました。しかし統一思想から見れば、認識の対象には内容(感性的内容)だけでなく形式(存在形式)もあり、認識主体にも形式(思惟形式)だけではなく内容(内容像)もあるのです。カントのいう先天的な形式と感性的な内容だけでは、対象に対する思考の真理性は保証されないのです。それに対して統一思想では、人間と万物の必然的関係から思考の法則・形式と、客観世界の法則・形式の対応性が導かれ、対象に対する思考の真理性が保証されているのです。