第十章 論理学 : 一 従来の論理学 : (二) ヘーゲル論理学

 ヘーゲル論理学の特徴
 ヘーゲル論理学の特徴は、「思考の法則と形式」に関する理論ではなく「思考の発展の法則と形式」に関する理論であるという点にあります。しかもその思考は、人間の思考ではなく、神様の思考です。したがってヘーゲル論理学は、「神様の思考がいかなる法則や形式によって発展したのか」を研究する学問なのです。
 この神様の思考は、神様自体に関する思考から、一定の法則に従って自然に関する思考に発展し、ついで歴史に関する思考、国家に関する思考に発展し、ついに芸術、宗教、哲学に関する思考にまで発展します。このような思考の発展に関する法則と形式が、まさにヘーゲル論理学の特徴なのです。
 ヘーゲル自ら述べているように、ヘーゲル論理学は世界創造以前の神様の思考の展開を取り扱っており、「天上の論理」すなわち「創造以前の永遠な本質の中にある叙述」なのです。しかし、それは形式論理学のように、単に形式的な思考の法則を取り扱うのではありません。神様の思考の展開であるとしながらも、現実的なものの最も普遍的な諸規定、諸法則を取り扱おうとするものなのです。

 ヘーゲル論理学の骨格
 ヘーゲル論理学は「有論」、「本質論」、「概念論」の三部門から成っており、この三部門はまたおのおの細分化されています。すなわち、「有論」は「質」、「量」、「質量」から成り、「本質論」は「本質」、「現象」、「現実性」から成り、「概念論」は「主観的概念」、「客観的概念」、「理念」から成っています。そして、これらはまたおのおの細分化されています。例えば「有論」の「質」は「有」、「定有」、「向自有」から成り、さらに「有」は「有」、「無」、「成」から成っているのです。
 ヘーゲル論理学において論理展開の出発点となっているのが有−無−成の弁証法です。この三段階を通過して「有」が「定有」に移行します。そして「定有」にまた三段階があって、それを通過すれば「定有」は「向自有」に移行します。「向自有」にまた三段階があって、これを通過すると「質」が「量」へ移ります。「量」が三段階を通過して「質量」に移り、「質量」が再び三段階を通過すれば、「有」に関する理論が終わります。
 次は、「本質」に関する理論ですが、「本質」から「現象」へ、「現象」から「現実性」へと移行します。次は「概念」に関する理論です。概念は「主観的概念」から「客観的概念」へ、「客観的概念」から「理念」へと移行します。「理念」の中では、「生命」、「認識」、「絶対理念」という三つの段階があります。そのようにして、「絶対理念」が論理の発展における最後の到達点となっているのです。

 次に、論理の世界すなわち理念の世界は、真に自己を実現するために、かえって自己を否定して自然の領域に移行します。ヘーゲルはこれを「理念自身の他なるものへ移りゆく」といい、自然は「理念の自己疎外、自己否定」(Selbstentfremdung, Selbstverneinung derldee)、または他在の形式(die Form des Andersseins)における理念であるといいます。自然界においては、「力学」、「物理学」、「生物学」の三段階を通過します。
 このように自己を否定して自らの外に現れ自然界となった理念は、その否定をさらに否定して本来の自己に戻るといいます。人間を通じて自己を回復した理念が精神です。精神は「主観的精神」、「客観的精神」、「絶対精神」の三段階を通過しますが、ここに「絶対精神」が精神の発展の最後の段階なのです。そこにおいて「絶対精神」は「芸術」、「宗教」、「哲学」の三段階を通過してついに本来の自己(絶対理念)を復帰するのです。

 有−無−成の弁証法
 ヘーゲル論理学においては、有から出発して絶対理念に至るまでを扱っていますが、有は有論において扱われており、有−無−成の弁証法から始まっています。したがってヘーゲル論理学の性格を理解するためには、有−無−成の弁証法について調べてみる必要があります。この部分がヘーゲル論理学(弁証法)の出発点であると同時に核心となっているからです。
 ヘーゲルの論理学は有から始まります。有とは、単に「ある」ということですが、それは最も抽象的な概念であり、全く無規定性な空虚な思考です。ゆえにそれは否定的なもの、すなわち「無」であるといいます。ヘーゲルにおいては、有と無は共に空虚な概念であり、両者にはほとんど区別がありません。
 次にヘーゲルは、有と無の統一が成であるといいます。そこにおいて、有も無も、共に空虚で抽象的なのですが、両者は対立の状態において統一をなしたのちに、最初の具体的な思考としての成となります。この有−無−成の論理を基本として、普通ヘーゲルの方法と考えられている、正−反−合、肯定−否定−否定の否定、定立−反定立−総合の弁証法的論理が成立しているのです。

 定有への移行
 次は、「定有」について述べられています。定有とは、一定の状態をもつ有、具体的に考察された有であり、有が単に「ある」を意味しているのに対して、定有は「何ものかである」ことを意味しています。有−無−成から定有への移行は、要するに抽象的なものから具体的なものへの移行を意味しているのです。成はそのうちに有と無の矛盾を含んでいますが、この矛盾によって、成は自己を止揚して、つまり一層高められて、定有となるのです。
 このように定有とは、特定の有、規定された有なのです。ヘーゲルはこの定有の規定性のことを「質」と呼びました。しかしいくら特定されるといっても、ここで考察されているのは、単純な規定性のことであり、規定性一般にすぎません。
 有を定有とする規定性は、一方では「成るものである」という肯定的な内容であると同時に、他方では限られたもの、すなわち制限を意味しています。したがって、あるものをあるものとする質は「成るものである」という肯定的な面から見れば、実在性であり、限られたもの、他のものでないという面から見れば、否定性です。したがって定有においては、実在性と否定性の統一、肯定と否定の統一がなされているのです。次に定有は向自有へと移行します。向自有とは、他のものと連関せず、また他のものへ変化せず、どこまでも自分自身にとどまっている有のことです。

 有−本質−概念
 ヘーゲルが「有論」において論じたのは、「あるということ」はどういうことかということから始まって、変化の論理、生成消滅の論理に関することでした。次に「有論」は「本質論」へと移りますが、そこでは、事物のうちにある不変なもの(本質)、および事物の相互関連性が論じられています。次に「有論」と「本質論」の統一としての「概念論」へと移ります。そこでは、他者に変化しながら自己であることをやめない事物のあり方、すなわち自己発展が考察されています。この発展の原動力をなすものが、概念であり、生命なのです。
 なぜ神様の思考が有−本質−概念というように進んだといえるのでしょうか。それは、事物を外側から内側へと関心を移していく人間の認識の過程を見れば分かるというのです。例えば、ある花を認識する場合、まず外的に現象的に花の存在をとらえたのちに花の内的な本質を理解するというのです。そして、花の存在と花の本質が一つになった花の概念を得るようになるというのです。

 論理−自然−精神
 すでに述べられているように、ヘーゲルによれば、自然とは他在の形式における理念、自己疎外した理念です。したがって論理学を「正」とすれば、自然哲学は「反」となります。次に、理念は人間を通じて再び意識と自由を回復しますが、それがすなわち精神です。したがって、精神哲学は「合」となります。
 自然界も、正−反−合の弁証法的発展をしていますが、それが力学、物理学、生物学の三段階です。しかし、それは自然界そのものが発展する過程ではなくて、自然界の背後にある理念が現れていく過程なのです。まず力の概念が、次に物理的現象の概念が、その次に生物の概念が現れるというのです。
 そしてついに人間が現れ、人間を通じて精神が発展します。それがすなわち主観的精神、客観的精神、絶対精神の三段階の発展です。主観的精神とは、人間個人の精神のことですが、客観的精神とは個体を越えて社会化された精神、対象化された精神をいいます。
 客観的精神には、法、道徳、倫理の三段階があります。法とは、国家における憲法のように整備されたものではなく、集団としての人間関係における初歩的な形式をいいます。次に、人間は他人の権利を尊重して、道徳的生活をするようになります。しかしそこには、まだ多分に主観的な面(個人的な面)があります。そこで、すべての人が共通に守るべき規範として倫理が現れます。
 倫理の第一段階は、家庭です。家庭では愛によって家族が互いに結ばれており、自由が生かされています。第二の段階は、市民社会です。ところが市民社会に至ると、個人の利害が互いに対立し、自由は拘束されるようになります。そこで第三の段階として、家庭と市民社会を総合する国家が現れるようになるのです。ヘーゲルは、国家を通じて理念が完全に自己を実現すると考えました。理念の実現した国家が理性国家です。そこでは、人間の自由が完全に実現されます。
 最後に現れるのが絶対精神ですが、絶対精神は芸術、宗教、哲学の三段階を通じて自らを展開します。そして哲学に至って理念は完全に自己を回復します。このようにして理念は、弁証法的運動を通じて原点に帰るのです。すなわち、自然、人間、国家、芸術、宗教、哲学などの段階を通過して、ついに最初の完全なる絶対理念(神様)に帰るのです。この帰還がなされることによって発展の全過程が終わります。

 ヘーゲル論理学のトリアーデ構造
 これまで説明されているように、ヘーゲル弁証法の始まりは有−無−成というトリアーデ(三段階過程)であり、この三段階は矛盾による正−反−合の三段階です。このようなトリアーデがレベルを高めながら反復することによって、論理学−自然哲学−精神哲学という最高のトリアーデを形成するのです。
 論理学を構成する三段階過程は有−本質−概念ですが、この概念の段階において絶対精神(神様の思考)は理念つまり絶対理念となります。ところで絶対精神は、論理学の段階を通過して、絶対理念となって外部に現れたのち、自然界となり(自然哲学)、さらに人間を通じて主観的精神−客観的精神−絶対精神となります。そして一番最後には、最初に出発した自己自身、すなわち絶対理念に戻ります。
 自然哲学や精神哲学は、論理学とは全く別の分野のように考えがちですが、そうではありません。論理学は、三段階過程の初めの段階ですが、その中に自然哲学や精神哲学の原型がすべて含まれているのです。
 これまで述べられているように、絶対精神は有−本質−概念というトリアーデの概念の段階において理念となるのですが、この理念は自然哲学と精神哲学の内容のすべての原型となっているのです。それはいわば、宇宙の設計図をもっている精神です。つまり自然哲学や精神哲学は、この理念の中の原型がそのまま外部に現れた映像にすぎないのです。あたかも映画のフィルムの画像が、スクリーンに映ったものが映画であるのと同じなのです。言い換えればヘーゲルの論理学は最高のトリアーデの初期段階であり、自然哲学や精神哲学の原型であって、それらをすべて包含しているのです。それゆえ、論理学においてヘーゲルの哲学体系全体を扱っているのです。絶対精神の発展を扱う、このようなヘーゲルの弁証法は普通、観念弁証法と呼ばれています。

 ヘーゲル弁証法の円環性と法則と形式
 これまでに述べられているように、ヘーゲル弁証法は、正−反−合の三段階の発展の反復を通じて高い水準において元に位置に戻ってくる復帰性の運動であり、円環性の運動です。これは低いレベルのトリアーデにおいても、高いレベルのトリアーデにおいても、同じなのです。ところでヘーゲル弁証法のもう一つの特徴は、発展運動が円環性(復帰性)であると同時に完結性であるということです。絶対精神が自己内復帰を終えれば、それ以上の発展はなくなるからです。
 ここで、ヘーゲル論理学における法則と形式について述べられています。形式論理学における法則は、同一律、矛盾律などでありました。そして形式は、判断形式や推理形式でした。ところでヘーゲル論理学の法則は、弁証法の内容である「矛盾の法則」、「量から質への転化の法則」、「否定の否定の法則」などであり、形式は、弁証法の発展形式である正−反−合の三段階過程による発展形式を意味します。このような三段階発展の形式を扱う論理学は普通、弁証法論理学と呼ばれています。