第九章 認識論 : 二 統一認識論 : (二) 認識における内容と形式

 一般的に内容と形式をいうとき、事物の中にあるものを内容といい、外に現れた形を形式といいますが、認識論で扱う内容は事物の属性をいい、形式はその属性が規制されて現れる一定の枠組みのことをいいます(すなわち属性が一定の枠組みを通して現れるとき、その枠組みを形式といいます)。

 対象の内容と主体の内容
 認識の対象は万物または事物であるので、対象の内容とは、万物(事物)がもっている、いろいろな属性、すなわち形態、重量、長さ、運動、色、音、匂い、味などをいいます。したがって対象の内容は、物質的内容つまり形状的内容です。一方、認識の主体は人間であるので、主体の内容とは、人間がもっている、いろいろな属性をいうのですが、その属性も万物(事物)の属性と同じく、形態、重量、長さ、運動、色、音、匂い、味などの物質的内容です。
 普通、人間の属性といえば、理性、自由、霊性などをいう場合が多いですが、認識論では内容の相似性を扱っているために、対象(万物)と同じ属性を扱うのです。人間は宇宙の縮小体(小宇宙)であり、万物の総合実体相なので、人間は万物のもつ構造、要素、素性などをすべて、統一的に(縮小的に)もっています。したがって人間は、万物のもっている属性と同じ属性を備えているのです。
 しかし、主体(人間)と対象(万物)が同じ属性をもっているというだけでは、認識における授受作用は成立しません。認識は一種の思惟現象であるので、内容は主体の心にも備わっていなくてはならないのです。主体の心の中にある内容が原型です。正確に言えば、これは原型の中の内容の部分であって、原意識(生命体のもつ潜在意識…後述)の中に現れる原映像をいいます。この原映像は人間の体の属性に対応した心的映像であるのですが、人間の体の属性は外界の万物の属性(物質的内容)に対応しています。それゆえ心的映像つまり原映像は、万物の属性(物資的内容)に対応する心的内容となるのです。そのように人間の体の属性は万物の属性(物質的内容)に対応し、人間の心的映像(原映像)は人間の体の属性に対応しているのです。結局、人間の心的映像は万物の属性に対応しているのです。したがって認識において、主体(人間)の心的映像(原映像)と対象の物質的内容(感性的内容)が互いに対応するようになり、主体と対象の間に授受作用が行われることによって、認識がなされるのです。

 対象の形式と主体の形式
 認識の対象である万物(事物)の属性は、必ず一定の枠組み(フレーム)をもって現れます。この一定の枠組みが存在形式です。存在形式は事物の属性の関係形式でもあります。そして、この存在形式または関係形式が認識における対象の形式となるのです。
 人間の体は宇宙の縮小体(小宇宙)であり万物の総合実体相であるので、人間の体は万物がもっている存在形式と同じ存在形式をもっています。ところで、認識における形式は心の中の形式すなわち思惟形式でなくてはならないのです。これは体の存在形式が原意識の中に反映したもの、すなわち形式像(または関係像)であって、原型の一部をなしているのです。

 原型の構成要素
 認識において、判断の基準(尺度)となる主体の中の心的映像を原型といいますが、原型は次のような要素から構成されています。
 まず第一に、原映像があります。これは、人体の構成要素である細胞や組織の属性が原意識に反映された映像です。つまり、原意識という鏡に映った細胞や組織の属性の映像が原映像なのです。原型を構成する第二の要素は、関係像すなわち思惟形式です。原意識には、人体の細胞や組織の属性だけでなく、属性の存在形式(関係形式)も原意識に反映されて、映像をなしています。それが関係像であって、この関係像が顕在意識の思考作用に一定の制約を与える思惟形式となっているのです。
 以上の原映像と関係像(思惟形式)は経験とは関係のない観念、すなわち先天的な観念であって、原型にはそのほかに、過去および直前までの経験によって付加された後天的な観念もあります。すなわち認識に先立つそれまでの経験によって得られた観念(経験観念)は、その後の認識においては原型の一部を成すのです。したがって、私たちは一度経験した事物と同様な事物に出会うとき、容易にそれを判断しうるのです。そのように原型は原映像、関係像(思惟形式)、経験的観念の三つの要素から構成されているのです。
 このように、原型は経験に先立っている先天的な要素と、経験を通じて得られる要素すなわち経験的要素から成っています。先天的な要素とは、本来の意味の原型のことであり、原意識に現れた原映像と関係像をいいます。これは、経験とは関係のない「先天的な原型」です。それを「原初的原型」ともいいます。そして経験的要素とは、日常生活の体験において心の中に映像として現れた経験的観念をいい、一度現れると、その後、原型の一部となるのです。それを「経験的原型」といいます。そのような先天的原型と経験的原型が総合した原型を「複合原型」といいます。日常生活における原型は、みな複合原型です。

 原型の先天性とその発達
 原型には先天的要素と経験的要素があるために、ある瞬間の判断は、それ以前に形成された原型(複合原型)がその判断の基準(尺度)となります。このように認識において、判断基準(原型)が必ずあらかじめ備わっているのです。この事実を「原型の先天性」といいます。カントは認識の主体がもっている形式を先天的(アプリオリ)であると主張しましたが、統一認識論では主体がもっている原型の先天性を主張するのです。
 ところで人間が生まれながらもっている原型(原映像と関係像)は、出生直後の幼児の場合、細胞、組織、器官、神経、感覚器官、脳などの未発達のために、まだ不完全なものなのです。したがって認識は不明瞭なものとならざるをえないのです。しかし幼児が成長するにしたがって、体の発達とともに、原映像や関係像は次第に明瞭になってきます。それに経験によって得られた新しい観念が次々に加わってきます。そうして原型は、質的にも量的にも発達します。これは記憶量の増大または新しい知識の増大を意味するのと同時に、経験的原型の発達、さらには複合原型の発達を意味します。