第一章 原相論 : 一 原相の内容 : (二) 神性

 神様の属性には、これまで述べてきたように形の側面もありますが、機能、性質、能力の側面もあります。それが神性なのです。従来のキリスト教やイスラム教でいう全知、全能、普遍性、至善、至真、至美、公義、愛、創造主、審判主、ロゴスなどは、そのまま神性に関する概念であり、統一思想ももちろん、そのような概念を神性の表現として認めています。
 しかし現実問題の解決という観点から見るとき、そのような概念は形(神相)の側面を扱っていないという点だけではなく、大部分が創造と直接関連した内容を含んでいないという点で、そのままでは現実問題の解決に大きな助けとはなっていなかったのです。統一思想は現実問題の解決に直接関連する神性として、心情、ロゴス、創造性の三つを挙げています。その中でも心情が最も重要であり、それは今までいかなる宗教も扱わなかった神性なのです。次に、これらの神性の概念を説明し、それがいかに現実問題を解決しえるかを明らかにします。

 (1)心情
 心情とは何か
 心情は神様の性相の最も核心となる部分であって、「愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動」です。心情のそのような概念を正しく理解する助けとなるように、人間の場合を例として説明してみます。
 人間は誰でも生まれながらにして喜びを追求するようになっています。喜ぼうとしない人は一人もいないでしょう。人間は誰でも幸福を求めていますが、それがまさにその証拠なのです。そのように人間はいつも、喜びを得ようとする衝動、喜びたいという衝動をもって生きています。それにもかかわらず、今日まで大部分の人々が真の喜び、永遠の喜びを得ることができないでいることも事実なのです。
 それは人間がたいてい、金銭や権力、地位や学識の中に喜びを探そうとするからなのです。それでは真の喜び、永遠の喜びはいかにして得られるのでしょうか。それは愛(真の愛)の生活を通じてのみ得られるのです。愛の生活とは、他人のために生きる愛他的な奉仕生活、すなわち他人に温情を施して喜ばせようとする生活をいいます。

 心情は情的衝動である
 ここで「情的な衝動」について説明します。情的な衝動とは内部からわきあがる抑えがたい願望または欲望を意味します。普通の願望や欲望は意志で抑えることができますが、情的な衝動は人間の意志では抑えられないのです。
 私たちは喜ぼうとする衝動(欲望)が抑えがたいということを、日常の体験を通じてよく知っています。人間が金をもうけよう、地位を得よう、学識を広めよう、権力を得ようとするのも喜ぼうとすると衝動のためであり、甚だしくは犯罪行為までも、方向が間違っているだけで、その動機はやはり喜ぼうとする衝動にあるのです。
 このように喜ぼうとする衝動(欲望)は抑えがたいものです。欲望は達成されてこそ満たされます。しかるに大部分の人間にとって、喜ぼうとする欲望が満たされないでいるのは、喜びは愛を通じてしか得られないということが分かっていないからなのです。そして喜びが愛を通じてしか得られないのは、その喜びの根拠が神様にあるためなのです。

 神様は心情である
 神様は心情すなわち愛を通して喜ぼうとする情的な衝動をもっておられますが、そのような神様の衝動は人間の衝動とは比較にならないほど抑えがたいものだったのです。人間は相似の法則に従って、そのような神様の心情を受け継いだので、たとえ堕落して愛を喪失したとしても、喜ぼうとする衝動はそのまま残っているのです。ゆえに、情的な衝動を抑えるのは難しいのです。
 ところで神様において、喜ぼうとする情的な衝動は、愛そうとする衝動によって支えられています。真の喜びは真の愛を通じなければ得られないためです。したがって、愛そうとする衝動は喜ぼうとする衝動よりも強いのです。愛の衝動は愛さずにはいられない欲望を意味します。そして愛さずにはいられないということは、愛の対象をもたずにはいられないということを意味します。
 そのような愛の衝動によって喜ぼうとする衝動が誘発されます。したがって愛の衝動が一次的なものであり、喜ぼうとする衝動は実は愛そうとする衝動が表面化したものにすぎないのです。
 ゆえに神様の心情は、「限りなく愛そうとする情的な衝動」であると表現することもできるのです。愛には必ず対象が必要です。特に神様の愛は抑えがたい衝動であるため、その愛の対象が絶対的に必要だったのです。したがって創造は必然的、不可避的であり、決して偶発的なものではなかったのです。

 宇宙創造と心情
 このように心情が動機となり、神様は愛の対象として人間と万物を創造されたのです。人間は神様の直接的な愛の対象として、万物は神様の間接的な愛の対象として創造されたのです。万物が神様の間接的な対象であるということは、直接的には万物は人間の愛の対象であることを意味します。そして創造の動機から見るとき、人間と万物は神様の愛の対象でありますが、結果から見るとき、人間と万物は神様の喜びの対象なのです。
 このように心情を動機として宇宙創造の理論(心情動機説)は創造説が正しいか生成説が正しかという一つの現実問題を解決することになるのです。そして生成説(プロティノスの流出説、ヘーゲルの絶対精神の自己展開説、ガモフのビッグバン説、儒教の天生万物説など)では、現実への罪悪や混乱などの否定的側面までも自然発生によるものとされて、その解決の道がふさがれているのですが、正しい創造説では、そのような否定的側面を根本的に除去することができるのです。

 心情と文化
 次に、「心情は神様の性相の核心である」という命題から心情と文化の関係について説明します。神様の性相は内的性相と内的形状から成っていますが、内的性相は内的形状よりもより内的なのです。そして心情は内的性相よりもさらに内的なのです。このような関係は、創造本然の人間の性相においても同じです。
 これは心情が人間の知的活動、情的活動、意的活動の原動力となることを意味します。すなわち心情は情的な衝動力であり、その衝動力が知的機能、情的機能、意的機能を絶えず刺激することによって現れる活動がまさに知的活動、情的活動、意的活動なのです。
 人間の知的活動によって、哲学、科学をはじめとする様々な学問分野が発達するようになり、情的活動によって、絵画、音楽、彫刻、建築などの芸術分野が発達するようになり、意的活動によって、宗教、倫理、道徳、教育などの規範分野が発達するようになります。
 創造本然の人間によって構成される社会においては、知情意の活動の原動力が心情であり愛であるがゆえに、学問も芸術も規範も、すべて心情が動機となり、愛の実現がその目標となります。ところで学問分野、規範分野の総和、すなわち人間の知情意の活動の成果の総和が文化なのです。したがって創造本然の文化は心情を動機とし、愛の実現を目標として成立するのであり、そのような文化は永遠に続くようになります。そのような文化を統一思想では心情文化、愛の文化、または中和文化と呼びます。
 しかしながら人間始祖の堕落によって、人類の文化は様々な否定的な側面をもつ非原理的な文化となり、興亡を繰り返しながら今日に至っています。これは人間の性相の核心である心情が利己心によって遮られ、心情の衝動力が利己心のための衝動力になってしまったからです。
 そのように混乱を重ねる今日の文化を正す道は、利己心を追放し、性相の核心の位置に心情の衝動力を再び活性化させることによって、すべての文化の領域を心情を動機として、愛の実現を目標とするように転換させることなのです。すなわち心情文化、愛の文化を創建することなのです。このことは「心情は神様の性相の核心である」という命題が、今日の危機から文化をいかに救うかというまた一つの現実問題解決の基準になることを意味するのです。

 心情と原力
 最後に心情と原力について説明されています。宇宙万物はいったん創造されたのちにも、絶えず神様から一定の力を受けています。被造物はこの力を受けて個体間においても力を授受しています。前者は縦的な力であり、後者は横的な力です。統一思想では前者を原力といい、後者を万有原力といいます。
 ところでこの原力も、実は原相内の授受作用、すなわち性相と形状の授受作用によって形成された新生体なのです。具体的に言えば、性相内の心情の衝動力と形状内の前エネルギー(Pre-Energy)との授受作用によって形成された新しい力が原力(Prime Force)なのです。その力が、万物に作用して、横的な万有原力(Universal Prime Force)として現れて、万物相互間の授受作用を起こすのです。したがって万有原力は神様の原力の延長なのです。
 万有原力が心情の衝動力と前エネルギーによって形成された原力の延長であるということは、宇宙内の万物相互間には、物理学的な力のみならず愛の力も作用していることを意味するのです。したがって人間が互いに愛し合うのは、そうしても、しんたくも良いというような、恣意的なものではなく、人間ならば誰でも従わなければならない天道なのです。
 このように「心情と原力の関係」に関する理論も、また一つの現実問題の解決の基準となることがお分かりになると思います。すなわち「人間は必ず他人を愛する必要があるのか」、「時によっては闘争(暴力)が必要な時もあるのではないか」、「敵を愛すべきか、打ち倒すべきか」というような現実問題に対する解答がこの理論の中にあることがお分かりでしょう。

 (2)ロゴス
 ロゴスとは何か
 ロゴスとは、統一原理によれば言または理法を意味します。(『原理講論』P165)。ヨハネによる福音書には、神様の言によって万物が創造されたことが次にように表現されています。「初めに言があた。言は神様と共にあった。言は神様であった。この言は初めに神様と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ1/1〜3)。
 統一思想から見れば、ロゴスを言というとき、それは神様の思考、構想、計画を意味し、ロゴスを理法というとき、それは理性と法則を意味します。ここで理性とは、本性相内の内的性相の知的機能に属する理性を意味するのですが、万物を創造したロゴスの一部である理性は、人間の理性とは次元が異なります。人間の理性は自由性をもった知的能力であると同時に、概念化の能力または普遍的な真理追求の能力でもありますが、ロゴス内の理性は、ただ自由性をもった思考力であり、知的能力なのです。
 そしてロゴスのもう一つの側面である法則は、自由性や目的性が排除された純粋な機械性、必然性だけをもつものなのです。法則は、時と場所を超越して、いつどこでも、たがわずに作用する規則的なものなのです。すなわち、機械装置である時計の時針や分針が、いつでもどこでも一定の時を刻むのと同様なものが法則の規則性、機械性なのです。

 ロゴスとは理法です
 理法とは、このような理性と法則の統一を意味します。ここでは主として、そのような理法としてのロゴスを扱います。それはそうすることによって、また一つの現実問題の解決の基準を立てるためなのです。現実問題とは、今日、社会の大混乱の原因となっている価値観の崩壊をいかに収拾するのかという問題です。
 『原理講論』には、ロゴスは神様の対象であると同時に二性性相(ロゴスの二性性相)をもっているとされています(P265)。これはロゴスが神様の二性性相に似た一種の被造物であり新生体であることを意味すのであって、ロゴスは「性相と形状の合性体」と同様なものであると理解することができるのです。
 しかし、ロゴスは神様の言、構想であって、それによって万物が創造されたのですから、ロゴスそれ自体が万物と全く同じ被造物ではありえません。神様の二性性相に似た神様の対象であるロゴスは思考の結果物なのです。すなわち、それは「完成された構想」を意味するのであり、神様の心に描かれた一種の設計図なのです。私たちが建物を造るとき、まず建物に対する詳細な設計図を作成するように、神様が万物を創造されるときにも、まず万物一つ一つの創造に関する具体的な青写真または計画が作られるようになります。これがまさにロゴスなのです。

 ところで設計図は建築物ではないとしても、それ自体は製作物すなわち結果物であることに違いはありません。同じように、ロゴスも構想であり設計図である以上、やはり結果物であり、新生体であり、一種の被造物なのです。被造物はすべて神様の二性性相に似ています。それでは新生体としてのロゴスは、神様のいかなる二性性相に似たのでしょうか。それがまさに本性相内の内的性相と内的形状なのです。
 言い換えれば、内的性相と内的形状が一定の目的を中心として統一されている状態がまさにロゴスの二性性相なのです。あたかも神様において、本性相と本形状が中和(統一)をなしている状態が神相であるのと同様なのです。ところでロゴスは言であると同時に理法でもあります。それでは、ロゴスを理法として理解するとき、ロゴスの二性性相とは具体的にいかなるものなのでしょうか。それはまさに理性と法則なのです。理性と法則の関係は内的性相と内的形状の関係と同じであって、内的性相と内的形状の関係は後で述べるように主体と対象の関係であるため、理性と法則の関係は主体と対象の関係になっているのです。

 ロゴスは理性と法則の統一体
 理性と法則の統一としてのロゴスによって万物が創造されたために、すべての被造物には理性的要素と法則的要素が統一的に含まれています。したがって万物が存在し、運動するとき、必ずこの両者が統一的に作用するのです。ただし低次元の万物であればあるほど、法則的要素がより多く作用し、高次元であればあるほど、理性的要素がより多く作用しています。
 最も低次元である鉱物においては、法則的要素だけで理性的要素は全くないようであり、最も高次元である人間においては、理性的要素だけで法則的要素は全くないようでもありますが、実際は両者共に理性的要素および法測的要素が統一的に作用しているのです。
 したがって万物の存在と運動は、自由性と必然性の統一であり、目的性と機械性の統一なのです。すなわち必然性の中に自由性が作用し、機械性の中に目的性が作用するのです。ところで今まで、自由と必然の関係は二律背反の関係にあるように理解されてきました。それはあたかも解放と拘束が正反対の概念であるように、自由と必然も正反対の概念であるように感じられたためなのです。
 しかし統一思想は、ロゴスの概念に関して、理性と法則を二律背反の関係とは見ないで、むしろ統一の関係と見るのです。比喩的に言えば、それは列車がレールの上を走ることと同じなのです。列車がレールの上を走るということは必ず守らなければならない規則(法則)であって、万一、レールから外れると、列車自体が破壊されるだけではなく、近隣の人々や建物にも被害を与えるのです。ゆえに列車は必ずレールの上を走らなければならないのです。そのような観点から見て、列車の運行は順法的であり、必然的なのです。しかしいくらレールの上を走るといっても、速く走るか、ゆっくり走るかは機関車(機関士)の自由なのです。したがって列車の運行は全く必然的なもののように思われますが、実際は自由性と必然性の統一になっているのです。
 もう一つの例を挙げて説明します。自動車の運転手は青信号の時には前進し、赤信号の時には停止するのですが、これは交通規則として誰もが守らなければならない必然性なのです。しかし、いったん青信号になったのちには、交通安全に支障にならない限り、速度は自由に調整することができるのです。したがって自動車の運転も自由性と必然性の統一なのです。
 以上で列車の運行や自動車の運転において、自由性と必然性が統一の関係にあることを明らかにしましたが、ロゴスにおける理性(自由性)と法則(必然性)も同様に統一の関係にあるのです。このように、ロゴスの二性性相としての理性と法則は二律背反ではなくて統一の関係にあることを知ることができます。

 ロゴスが理性と法則の統一であるために、ロゴスを通じて創造された万物は、大きくは天体から小さくは原子に至るまで、すべて例外なく、理性と法則の統一的存在になっています。すなわち万物は、すべて理性と法則、自由性と必然性、目的性と機械性の統一によって存在し、運動し、発展しているのです。
 この事実は今日の一部の科学者の見解とも一致しています。例えば検流計(ポリグラフ)の付着実験による植物心理の確認(バクスター効果)や、ジャン・シャロン(Jean Charon, 1920- )の複素相対論における電子や光子内の記憶と思考のメカニズムの確認、などがそうなのです。すなわち、植物にも心があり、電子にも思考のメカニズムがあるということは、すべての被造物の中に理性と法則、自由性と必然性が作用していることを示しているのです。

 ロゴスそして自由と放縦
 次は、ロゴスと関連して自由と放縦の真の意味を明らかにします。自由と放縦に関する正しい認識によって、また一つの現実問題が解決されるからです。今日、自由の名のもとになされている様々な秩序破壊行為と、これに伴う社会混乱に対する効果的な対策は何かということが問題になっていますが、この問題を解くためには、まず自由と放縦の真の意味が明らかにされなければなりません。
 『原理講論』には「原理を離れた自由はない」(P125)、「責任のない自由はあり得ない」(P125)、「実績のない自由はない」(P126)と書かれています。これを言い換えれば、自由の条件は「原理内にあること」、「責任を負うこと」、「実績をあげること」の三つになります。ここで「原理を離れる」というのは、「原則すなわち法則を離れる」という意味であり、「責任を負う」とは、自身の責任分担の完遂を意味すると同時に、創造目的の完成を意味するのであり、「実績をあげる」とは、創造目的を完成し、善の結果をもたらすことを意味するのです(P126)。ところで責任分担の完遂や、創造目的の完成や、善の結果をもたらすことは、すべて広い意味の原理的な行為であり、天道に従うことであり、法則(規範)に従うことです。
 したがって自由に関する三つの要件、すなわち「原理内にあること」、「責任を負うこと」、「実績をあげること」は一言で、「自由とは原理内での自由である」と表現することができるのであり、結局、真の自由は法則性、必然性との統一においてのみ成立するという結論になるのです。ここで法則とは、自然においては自然法則であり、人間生活においては価値法則(規範)になります。価値とか規範は秩序のもとにおいてのみ成立します。それゆえ規範を無視するとか、秩序を破壊する行為は、本然の世界では決して自由ではないのです。

 自由とは、厳密な意味では選択の自由になりますが、その選択は理性によってなされます。したがって、自由は理性から出発して実践に移るのです。そのとき、自由を実践しようとする心が生まれますが、それが自由意志であり、その意志によって自由が実践されれば、その実践行為が自由行動になります。これが『原理講論』(P125)になる自由意志、自由行動の概念の内容なのです。
 かくして理性の自由による選択や、自由意志や、自由行動はみな恣意的なものであってはならず、必ず原理内で、すなわち法則(価値法則)の枠の中で、必然性との統一のもとでなされなければならないのです。そのように自由は理性の自由であり、理性は法則との統一のもとでのみ作用するようになっています。したがって本然の自由は理法すなわちロゴスの中でのみ成立することができ、ロゴスを離れては存立することはできないのです。よく法則は自由を拘束するもののように考えられていますが、それは法則と自由の原理的な意味を知らないことからくる錯覚なのです。
 ところで、本然の法則や自由はみな愛の実現のためのものです。すなわち愛の中での法則であり自由なのです。真の愛は生命と喜びの源泉です。したがって本然の世界では、喜びの中で、法則に従いながら自由に行動するのです。それは、ロゴスが心情を土台として形成されているためなのです。
 ロゴスを離れた恣意的な思考や恣意的な行動は似非自由であり、それはまさに放縦です。自由と放縦はその意味が全く異なります。自由は善の結果をもたらす建設的な概念ですが、放縦は悪の結果をもたらす破壊的な概念です。そのように自由と放縦は厳密に区別されるものなのですが、よく混同されたり、錯覚されています。それは自由の真の根拠であるロゴスに関する理解がないためなのです。ロゴスの意味を正しく理解すれば、自由の真の意味を知るようになり、したがって自由の名のもとであらゆる放縦が避けられ、ついには社会混乱の収拾も可能になるのです。このようにロゴスに関する理論も、現実問題の解決のまた一つの基準になるのです。

 ロゴスおよび心情と愛
 終わりに、ロゴスと心情と愛の関係について述べられています。すでに明らかにしたように、ロゴスは言または構想であると同時に理法でもあります。ところで言(構想)と理法は別のものではありません。言の中にその一部として理法が含まれているのです。あたかも生物を扱う生物学の中にその一分科として生理学が含まれているのと同じです。すなわち生物学は解剖学、生化学、生態学、発生学、分析学、生理学など、いろいろな分科に分類されますが、その中の一分科が生理学であるように、創造に関する神様の無限なる量と種類を内容とする言の中の小さな一部分が理法なのであり、それは言の中の万物の相互作用または相互関係の基準に関する部分なのです。
 言と理法は別個のものではないばかりでなく、言の土台となっている心情は、同時の理法の土台にもなっているのです。あたかも有機体の現象の研究が生理学のすべての分科に共通であるように、創造における神様の心情が構想と理法の共通基礎となっているのです。

 心情は愛を通じて喜ぼうとする情的な衝動です。心情が創造において言と理法の土台となっているということは、被造物全体の構造、存在、変化、運動、発展など、すべての現象が、愛の衝動によって支えられていることを意味します。したがって自然法則であれ、価値法則であれ、必ず背後に愛が作用しており、また作用しなければならないのです。一般的に自然法則は物理化学的な法則だけであると理解されていますが、それは不完全な理解であって、必ずそこには、たとえそれぞれ次元は異なるとしても、藍が作用しているのです。人間相互間の価値法則(規範)には、愛がより顕著に作用しなければならないのは言うまでもありません。
 先にロゴスの解説において、主として理性と法則、したがって自由性と必然性に関して扱いましたが、理法の作用においては、理法それ自体に劣らず愛が重要であり、愛は重要度において理法を凌駕することさえあるのです。
 愛のない理法だけの生活は、規律の中だけで生きる兵営のように、冷えやすく、中身のないしいなのようにしおれやすいものなのです。温かい愛の中で守られる理法の生活においてのみ、初めて百合が咲き乱れ、蝶や蜂が群舞する春の園の平和が訪れてくるのです。このことは家庭に真の平和をもたらす真の方案は何かという、また一つの現実問題解決の基準になるのです。すなわち心情を土台とするロゴスの理論は、家庭に対する真の平和樹立の方案にもなるのです。

 (3)創造性
 創造性は一般に「新しいものを作る性質」と定義されています。統一原理において、創造性を一般的な意味にも解釈していますが、それよりは「創造の能力」として理解しています。それは『原理講論』において「神様の創造の能力」と「神様の創造性」を同じ意味で使っているのを見ても知ることができます(P79)。
 ところで、神様の創造性をそのように創造の性質とか創造の能力として理解するだけでは正確な理解とはなりえないのです。すでに明らかにしたように、神様の属性を理解する目的は現実問題を根本的に解決することにあります。したがって、神様に関するすべての理解は正確で具体的でなければなりません。創造性に関しても同じなのです。したがって創造に関する常識的な理解だけでは神様の創造性を正確に把握するのは困難なのです。ここに神様の創造性、または要件が明らかにされる必要があるのです。
 神様の創造は偶発的なものではなく、自然発生的なものではさらにありません。それは抑えることのできない必然的な動機によってなされたのであり、明白な合目的的な意図によってなされたのでした。そのような創造がいわゆる「心情を動機とした創造」(心情動機説)なのです。

 創造には、創造目的を中心とした内的および外的な四位基台または授受作用が必ず形成されなければなりません。したがって神様の創造は具体的には「目的を中心とした内的および外的な四位基台形成の能力」と定義されます。これを人間の、新しい製品をつくるという創造に例えて説明すれば、内的四位基台の形成は、構想すること、新しいアイデアを開発すること、したがって青写真の作成を意味し、外的四位基台形成は、その青写真に従って人間(主体)が機械と原料(対象)を適切に用いて新製品(新生体)を造ることを意味するのです。
 神様において、内的四位基台の形成は、目的を中心とするロゴスの形成であり、外的四位基台形成は、目的を中心として性相と形状が授受作用をして万物を造ることです。したがって神様の創造性はそのような内的および外的四位基台形成の能力であり、言い換えれば「ロゴスの形成に続いて万物を形成する能力」なのです。神様の創造性の概念をこのように詳細に扱うのは、創造に関連したいろいろな現実的な問題(例えば公害問題、軍備制限ないし撤廃問題、科学と芸術の方向性の問題など)の根本的解決の基準を定立するためなのです。

 人間の創造性
 次は、人間の創造性に関して説明されています。人間にも新しい物を作る能力すなわち創造性があります。これは相似の法則に従って、神様の創造性が人間に与えられたものなのです。ところで人間は元来、相似の法則によって造られたので、人間の創造性は神様の創造性に完全に似るように、すなわち神様の創造性を引き継ぐようになっていました(『原理講論』P79,114,259)。しかし、堕落によって人間の創造性は神様の創造性に不完全に似るようになったのです。
 人間の創造性が神様の創造性に似るということは、神様が創造性を人間に賦与されることを意味します(同上P131,259)。それでは、神様はなぜ人間に創造性を賦与されようとしたのでしょうか。それは人間を「万物世界に対する主管位に立たせて」(同上P132)、「万物を主管し得る資格を得させるため」(同上P114,131)でした。ここで万物主管とは、万物を貴く思いながら、万物を願うように扱うことをいいます。つまり人間が愛の心をもって、いろいろな事物を扱うことを万物主管といいますが、そこには人間生活のほとんどすべての領域が含まれます。例えば経済、産業、科学、芸術などがすべて万物主管の概念に含まれます。地上の人間は肉身をもって生きるために、ほとんどすべての生活領域において物質を扱っています。したがって人間生活全体が万物主管の生活であるといっても過言ではないのです。

 ところで本然の万物主管は、神様の創造性を受け継がなくては不可能になっています。本然の主管とは、愛をもって創造的に事物を扱いながら行う行為、例えば耕作、生産、改造、建設、発明、保管、運送、貯蔵、芸術創作などの行為をいいます。そのような経済、産業、科学、芸術などの活動だけでなく、ひいては宗教生活、政治生活までも、それが愛をもって物を扱う限りにおいて、本然の万物主管に含まれるのです。そのように本然の人間においては、事物の扱うのに、愛とともに新しい創案(構想)が絶えず要求されるために、本然の主管のためには神様の創造性が必要になるのです。
 人間は堕落しなかったならば、そのような神様の創造性に完全に似ることができ、したがって本然の万物主管が可能となったことでしょう。ところが人間始祖の堕落によって、人間は本然の姿を失ってしまったのです。したがって、人間が引き継いだ創造性は不完全なものになり、万物主管も不完全な非原理的なものになってしまったのです。
 ここに次のような疑問が生じるかもしれません。すなわち「神様が相似の法則によって人間を創造したとすれば、人間は生まれる時から本然の創造性をもっていたであろうし、したがって堕落とは関係なく、その創造性は持続されたのではないか。実際、今日、科学技術者たちは立派な創造の能力を発揮しているではないか」という疑問です。

 相似の創造
 ここで、相似の創造が時空の世界では具体的にどのように現れるかを説明されています。神様の創造とは、要するに被造物である一つ一つの万物が時空の世界に出現することを意味します。したがって神様の構想の段階では、創造が超時間、超空間的になされたとしても、被造物が時空の世界に出現するに際しては、小さな、未熟な、幼い段階から出発して、一定の時間的経路を経ながら一定の大きさまで成長しなければなりません。そして一定の大きさの段階にまで完成したのちに、神様の構想または属性に完全に似るようになるのです。その時までの期間は未完成段階であり、神様の姿に似ていく過程的期間であって、統一原理ではこの期間のことを成長期間といい、蘇生期、長成期、完成期の三段階(秩序的三段階)に区分しています(『原理講論』P77)。
 人間はこのような成長過程において、長成期の完成級で堕落したのでした(同上P78)。したがって神様の創造性を受け継ぐに際しても、未然の創造性の三分の二程度だけを受け継いだのであり、科学者たちがいくら天才的な創造力を発揮するといっても、本来神様が人間に賦与しようとした創造性に比較すれば、はるかに及ばないといわざるをえないのです。
 ところで、被造物の中で堕落したは人間だけです。万物は堕落しないでみな完成し、それぞれの次元において神様の属性に似ているのです。ここで次のような疑問が生じるかもしれません。すなわち万物の霊長であるといわれている人間が、なぜ霊長らしくなく堕落したのかという疑問です。それは、万物が原理自体の主管性または自律性だけで成長するようになっているのに対して、人間には、成長において、原理の自律性、主管性のほかに責任分担が要求されたからなのです。

 創造性と責任分担
 ここで原理自体の自律性とは有機体の生命力をいい、主管性とは生命力の環境に対する影響力をいいます。例えば一本の木が成長するのは、その内部の生命力のためであり、主管性はその木の生命力が周囲に及ぼす影響をいうのです。人間の成長の場合にも、この原理自体の自律性と主管性が作用しています。しかし人間においては、肉身だけが自律性と主管性によって成長するのであって、霊人体はそうではありません。霊人体の成長には別の次元の条件が要求されます。それが責任分担を完遂することなのです。
 ここで明らかにしたいことは、霊人体の成長とは、肉身の場合のように霊人体の身長が大きくなることを意味するのではありません。霊人体は肉身に密着しているので、肉身の成長に従って自動的に大きくなるようになってはいますが、ここでいう霊人体の成長とは、霊人体の霊性の成熟のことであり、それは人格の向上、心情基準の向上を意味します。要するに、神様の愛を実践しうる心の姿勢の成長が、霊人体の成長なのです。
 このような霊人体の成長は、ただ責任分担を完遂することによってのみなされます。ここで責任分担の完遂とは、神様に対する信仰を堅持し、戒めを固く守る中で、誰の助けも受けないで、内的外的に加えられる数多くの試練を自らの判断と決心で克服しながら、愛の実践を継続することをいいます。

 神様も干渉することができず、父母もいない状況で、そのような責任分担を果たすということは大変難しいことだったのですが、アダムとエバはそのような責任をすべて果たさなければならなかったのです。しかしアダムとエバはそのような責任分担を果たすことができず、結局、サタンの誘惑に陥って堕落してしまったのです。それでは神様はなぜ失敗しうるような責任分担をアダムとエバに負わせたのでしょうか。万物のように、たやすく成長しうるようにすることもできたのではないでしょうか。
 それは人間に万物に対する主管の資格を与えるためであり、人間を万物の主管主にするためだったのです(創世記1/28、『原理講論』P131)。主管とは、自分の所有物や自分が創造したものだけを主管するのが原則であり、他人の所有物や他人の創造物は主管しえないようになっています。ここに人間は万物よりあとに創造されたのですから、万物の所有者にも創造者にもなりえないはずなのです。しかし神様は、人間を神様の子女として造られたために、人間に御自身の創造主の資格を譲り与え、主管主として立てようとされたのです。そのために人間が一定の条件を立てるようにせしめて、それによって人間も神様の宇宙創造に同参したものと認めようとされたのです。

 人間の完成と責任分担
 その条件とは、アダムとエバが自己を完成させることなのです。すなわちアダムとエバが誰の助けも受けないで自己を完成させれば、神様はアダムとエバが宇宙を創造したのと同様な資格をもつものと見なそうとされたのでした。なぜならば、価値から見るとき、人間一人の価値は宇宙全体の価値と同じだからです。すなわち人間は宇宙(天宙)を総合した実体相であり(『原理講論』P60,61)、小宇宙(同上P84)であり、また人間が完成することによって初めて宇宙創造も完成するからです。イエス様が「たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。または、人はどんな代価を払って、その命を買い戻すことができようか」(マタイ16/26)と言われたのも、そのような立場からです。したがってアダムとエバが自ら自身を完成させれば、価値的に見て、アダムとエバを宇宙を創造したのと同等な立場に立つことになるのです。
 創造は、創造者自身の責任のもとでなされます。神様が宇宙を創造されるのに神様自身の責任のもとでなされました。そしてアダムとエバが自身を完成させることは、創造主たるべきアダムとエバ自身の責任なのでした。そのような理由のために、神様はアダムとエバに責任分担を負わせたのでした。

 しかし神様は愛の神様であるがゆえに、100パーセントの責任をアダムとエバに負わせたのではありませんでした。人間の成長の大部分の責任は神様が負い、アダムとエバには5パーセントという非常に小さな責任を負わせて、その5パーセントの責任分担を果たしさえすれば、彼らが100パーセントの責任分担を果たしたものと見なそうとされたのでした。そのような神様の大きな恵みにもかかわらず、アダムとエバは責任分担を果たすことができずに堕落してしまったのです。そのために結局、神様の創造性を完全に受け継ぐことができなくなったのです。
 万一、人間が堕落しなかったとすれば、いかなる結果になったのでしょうか。人間が堕落しないで完成したならば、まず神様の心情、すなわち愛を通じて喜びを得ようとする情的な衝動をそのまま受け継いで、神様が愛の神様であるように人間は愛の人間になったでしょう。そして心情を中心とした神様の創造性を完全に受け継ぐようになったでしょう。
 これはすべての主管活動が、心情を土台とし、愛を中心とした活動になることを意味します。すでに述べられているように、政治、経済、産業、科学、芸術、宗教などは、物質を扱う限りにおいて、すべて主管活動ですが、そのような活動が神様から受け継いだ創造性(完全な創造性)に基づいた愛の主管活動に変わるようになるのです。

 本然の創造性と文化活動
 心情の衝動力を動機とする知情意の活動の成果の総和を文化(心情文化)といいますが、その知情意の活動がみな物質を扱うという点において共通であるために、文化活動は結局、創造性による主管活動であると見ることができます。
 ところで今日の世界を見るとき、世界の文化は急速に没落しつつあります。政治、経済、社会、科学、芸術、教育、言論、倫理、道徳、宗教など、すべての分野において方向感覚を喪失したまま、混乱の渦の中に陥っているのです。ここで何らかの画期的な方案が立てられない限り、この没落していく文化を救出することはほとんど絶望的である言わざるをえません。
 長い間、鉄のカーテンに閉ざされたまま強力な基盤を維持してきた共産主義独裁体制が、資本主義体制との対決において、開放を契機として崩れ始め、今日、資本主義方式の導入を急いでいる現実を見つめて、ある者は資本主義の経済体制と科学技術の優越性を誇るかもしれません。しかしそれは近視眼的な錯誤です。なぜなら資本主義経済の構造的矛盾による労使紛争、貧富の格差の増大とそれに伴う価値観の崩壊現象、社会的犯罪の氾濫、そして科学技術の尖端化に伴う犯罪技術の尖端化、産業の発達に伴う公害の増大などは、資本主義の固疾的な病弊であって、それらは遠からず、必ずや資本主義を衰退させる要因となることを知らないでいるためです。

 万物主管という観点から見るとき、今日の文化的危機の根本原因は、遠く人類歴史の始めまでさかのぼって探さなければなりません。それは人間始祖の堕落によって人間が神様の創造性だけでなく神様の心情と愛を完全に受け継ぐことができなかったことによって、自己中心的な存在となり、利己主義が広がるようになったことにあるのです。
 したがって今日の文化を危機から救う唯一の道は、自己中心主義、利己主義を清算し、すべての創造活動、主管活動を神様の愛を中心として展開することなのです。すなわち世界の各界各層のすべての指導者たちが神様の愛を中心として活動するようになるとき、今日の政治、経済、社会、教育、科学、宗教、思想、芸術、言論など、様々な文化領域の交錯した難問題が、根本的にそして統一的に解決され、ここに新しい真の平和な文化が花咲くようになるのでしょう。それは共産主義文化でもなく、資本主義文化でもない新しい形態の文化であり、それがまさに心情文化、愛の文化であり、中和文化なのです。このように神様の創造性に関する理論も現実問題解決の基準となっていることを知ることができます。以上で原相の内容に関する説明が終えられています。