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第七章 芸術論 : 十 社会主義リアリズム批判 : (四) 統一思想から見た共産主義芸術論の誤り |
社会主義リアリズムの誤りの原因とは何なのでしょうか。
第一の原因は、芸術を「作家の個性を生かしながら前他のため(創作)、また自身のためにする(鑑賞)、美と喜びの創造活動」と見ないで、党の方針に順応しながら、人民を教育する御用手段としての芸術と見たところにあります。芸術家は作品の中に、個性を最大に発揮するようにしなくてはなりません。そうすることによって、神様を喜ばせ、人類を喜ばせるからです。ところが社会主義リアリズムでは、個性を奪い、作品を画一化させたのです。したがって、そこには真なる芸術作品が生まれるすべがなかったのです。
第二の原因は、神様を否定することによって、芸術活動の根本基準を喪失したところにあります。そして党の方針に従って、勝手な基準を立て、芸術家や作家たちをそれに合うように強要したということです。
第三の原因は、美と愛は表裏の関係にあるので、芸術と倫理も表裏の関係でなければならないのに、それを知らないところにあります。そして共産主義社会は愛の倫理を否定するために、芸術は愛のない芸術、または共産党の人民支配の道具としての芸術に転落してしまったのです。
第四の原因は、芸術は決して上部構造でないにもかかわらず、社会主義リアリズムは芸術を上部構造と見たところにあります。そのために芸術は経済体系(土台)の侍女に転落してしまいました。しかし芸術は、経済体系によって規定されているわけではありません。マルクス自身「経済学批判」の最後の部分にある「序説」において、次のように告白しています。
けれども困難は、ギリシャの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点で規範としての、到達できない規範としての意義をもっているということを理解する点にある。
唯物史観によれば、ギリシャの上部構造の一部である芸術や文学は今では(マルクス当時)、跡形もなく消え去るべきであり、人々はそれに何の興味も感じないはずなのです。しかしギリシャの芸術やイリアス(Ilias)、オデッセイア(Odyssia)のような叙事詩が、今日の人々にも喜びを与えるのみならず、生活の規範にまでなっているという事実を唯物史観では説明できないために、マルクスは困難を感じると吐露しているのです。これはまさしくマルクス自身が「土台と上部構造」の理論の誤謬を自証したことにほかなりません。
人間には真美善の価値を追求しようとする欲望(基本的欲望)があります。それはいかに堕落した人間であっても、誰でも、いつの時代でも、普遍的にもっているものです。したがって作品の中に真美善の価値が表れているならば、それはいつでも万人の心をとらえるのです。ギリシャの芸術が今日まで人々に楽しみを与えてきたということは、そこに大なり小なり人間が願う永遠なる真美善の価値が含まれていることを意味しているのです。
最後に、ほぼ同時代に、同じくソ連社会の腐敗を共に告発しながら、作風において全く異なった二人の作家、ゴーリキーとトルストイについて考えてみます。
ゴーリキーは暴力によって資本主義社会を打倒しようとする共産主義に同調し、芸術家の使命は革命を鼓舞することにあると主張する共産主義芸術家でした。そして彼は革命運動を美化する作品を表したのでした。ゴーリキーの作品である「母」は、社会主義リアリズム文学の代表作として知られています。それは一人の労働者の無学な母親が、革命運動で投獄されたひとり息子の身を案ずる一心から、何度も息子を説得しようとしたが、かえって息子に説得されて社会の矛盾性を自覚し、ついに革命運動の積極的な参加者となる姿を描いたものでした。
他方、トルストイは社会悪を告発しながら、その解決の道は愛による真の人間性の回復にあると説いたのです。トルストイの代表作の一つが「復活」です。陪審員として法廷に出た一人の貴族の青年が、自分の若き時の一瞬の過ちにより誘惑した下女が罪を犯して裁判を受けている事実を知ります。彼は良心の呵責に悩んだ末に、悔い改めて、彼女を救おうと決意します。そしてついに女性は更正し、青年も新しい人生へ出発するという内容でした。
ゴーリキーが選んだのは外的な社会革命の道であり、トルストイが選んだのは内的な精神革命の道でした。いずれが正しい道であったのでしょうか。ゴーリキーの選んだ暴力革命への道は、その後の社会主義社会の実体が示しているように、人間性の抑圧と官僚主義の腐敗という結果をもたらしたのでありました。他方、トルストイの選んだ道は、社会全体を救うということでは成功できなかった点がありましたが、人間性の回復という点では真なる方向の道でした。
統一思想は、人間と社会が共に本然の姿に変革される真なる道を追求します。それは神様を正確に理解することによって可能になるのです。すなわち人間と世界を創造された神様の属性を正確に知ることによって、本来の人間の姿、本来の社会の姿を知ることができるのであり、その方向に向かって人間と社会を変革していけばよいのです。すでに述べられているように、統一思想の主張する新しい芸術は、神様の心情(愛)を中心として理想主義と現実主義が統一された統一主義芸術です。それは本来の人間と社会という理想に向かって現実を変革していこうとするものなのです。