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第六章 倫理論 : 三 秩序と平等 : |
今日までの秩序と平等
近代以後、民主主義は中世以来の身分制度とその身分制度に伴った特権を廃止し、法の前での平等と政治参加における平等、すなわち普通選挙制度を実現したのでした。しかし、法の前での平等が実現されても経済的な平等は実現されず、階級間の貧富の差はさらに開いてゆきました。この貧富の差が解消されない限り、法の前での平等は名目上の平等であるだけで、実質的な平等にはなれないのです。そこでマルクスは、経済的な平等を実現しようとして、私有財産の廃止による無階級社会の共産主義を唱えたのです。しかしロシア革命後、七十余年間、共産主義を実践してみた結果、新たな特権階級の出現によって、新たな形態の貧富の格差が生まれたのでした。このように人間は、歴史が始まってから今日まで平等を求めてきたのですが、いまだに真の平等は実現されていないのです。
民主主義世界において、平等といえば権利の平等を意味するのであり、権利の平等が民主主義の基本原理の一つになっているのは周知の事実です。ところで、このような意味の平等の概念は、一般的に秩序の概念と相反する関係にあるように思われています。すなわち平等を強調すれば秩序が無視されがちであり、秩序の確立を強調すれば平等が無視されやすいのです。これが、今日までの秩序と平等に関する一般的な見解でした。
ここに、秩序と平等という問題が提起されています。すべての人間が権利に完全に平等であるとするならば、治める者と治められる者という差を認めないということになり、社会は無政府の無秩序状態となってしまいます。また一方で、秩序を重んじれば平等がそこなわれることになります。そこで人間が本心から求めている真の平等とは何かということ、そして秩序と平等の問題をいかに解決すべきかということを考えてみなければならないのです。
原理的な秩序と平等
統一思想から見るとき、原理的な平等とは愛の平等であり、人格の平等です。なぜならば人間が真に求める平等とは、父なる神様の愛のもとでの子女の平等であるからなのです。それは太陽の光が万物を等しく照らすように、神様の愛が万民に等しく与えられる平等なのです。したがって原理的な平等とは、主体である神様によって与えられる平等であって、対象である人間が気ままに得ようとする平等ではありません。
神様の愛は、家庭において秩序を通じて分性的に現れます。したがって愛の平等は、秩序を通じた平等なのです。秩序を通じた愛の平等とは、愛の充満度の平等です。すなわち、すべての個人の位置と個性に合うように、愛が充満するときに与えられる平等が愛の平等なのです。愛の充満とは、満足であり、喜びであり、感謝です。したがって原理的な平等は、、満足の平等であり、喜びの平等であり、感謝の平等なのです。
このような神様の愛の充満は、人間の完全な対象意識−神様に侍る心、神様に感謝する心−をもつとき、初めて感じるようになります。対象意識をもたない限り、いかに神様の愛が大きくても充足感を感じることはできず、不満を持つようになるのです。
ところで、先に述べられた「権利の平等」における権利とは、ロックの自然権(生命、自由、財産を守るための権利)をはじめとして、フランス革命の「人権宣言」(1789年)、米国の「独立宣言」(1776年)、国連総会において採択された「世界人権宣言」(1948年)などに見られるように、自然権をいうのですが、ここでは職位上の権利と平等の問題を考えてみることにします。職位には必ず職責と義務が与えられると同時に、それぞれの職位にふさわしい権利が与えられるために、当然のことながら職位上の権利は平等ではありません。しかし本然の世界においては、このような職位上の権利の差異にもかかわらず、そこに差異を超越した平等の側面があるなずなのです。それがまさに愛の平等、人格の平等、満足の平等なのです。
ここで、男女の平等に関して考えてみます。有史以来、女性は男性に比べて、地位、権利、機会などの面において、常に劣っていたばかりではなく、男性の支配を受けてきたのです。今日、女性たちがそのことを意識的に自覚し、男性と同等の権利を要求し始めたのですが、女性解放運動という名の下で、この運動が始まったのはフランス革命の時からです。民主主義の基本理念は自然権(生命、自由、財産に対する権利)の平等であるために、民主主義の革命とともに、女性の自然権の平等に対する主張は、極めて合理的なもののように思われたのです。
この運動はその後、様々な社会運動と表裏一体となって、うまずたゆまず展開されてきたのですが、第二次世界大戦後からは、女性解放運動の要求が、全面的に自由国家の法律に反映されるようになりました。その主なものは地位の平等、権利の平等、機会の平等でした。このような女性の平等への要求を法律によって保障したのは共産主義国家も同じでした。
そして1960年後半から女性解放問題が新たな高まりを見せたのです。男女の平等は法律上において保障されるだけで、実際には部分的に実施されただけであり、多くの領域においては、依然として男女の不平等関係が続けられていたからです。
ところが法律的に男女の平等が保障された結果、男女が権利において同等であるという考え方が広がり、夫婦間の不和が日常茶飯事になったのです。その結果、様々な悲劇と家庭の破綻が頻繁に起こるようになったのです。その理由は何なのでしょうか。
それは権利に関する限り、基本的に完全な男女平等はありえないからなのです。そして権利とは、使命を遂行するための要件であるためなのです。生理的に男女は使命が異なっています。男性における筋肉の発達、臀部が締まっていること、広がった肩などは、男性の使命が対外的に力強い活動にあることを示しているのであり、女性における、か弱い筋肉、臀部や乳房の発達、狭い肩などは、女性の使命が家庭における出産と養育にあることを示しています。このような生理的条件を無視し、権利の平等を主張することは、男女の使命の同一性を主張することと同じになるので、ありえないことなのです。男性が女性の出産と哺乳の役割をすることができないように、女性も男性の役割である力のいる仕事をすることはできないのです。それはあたかも、「鵜のまねをする鳥は水におぼれる」という、例えと同じなのです。
それでは、男女間(夫婦)に平等は成立しえないのでしょうか。そうではありません。男女(夫婦)の間にも平等は必要なのですが、それは権利の平等ではなく、愛の平等であり、人格の平等であり、喜びの平等なのです。夫婦が神様の愛を授け受けるとき、差別感や不平等感は消えて、同位圏に立っていることを自覚すると同時に、十分なる喜びを感じるようになるのです。
ここで、地位の平等について述べられています。女性は、男性と同様に社会的地位を享受できるということなのです。女性として学校の校長にもなれるし、会社の社長にもなることができるのです。しかし、これは男女の同等権のためではありません。学校や会社は家庭の拡大型であるために、家庭において、母が父を代身して家長の仕事をすることができるのと同様に、会社においても、女性が会社の母として社長にもなれるし、女性が学校の母として校長になることもできるのです。
特に世界平和の実現のためには、むしろ女性が先頭に立つことが望ましいのです。なぜならば、家庭における平和の主役は母であるからです。言い換えれば、真の世界平和を実現するためには、強く攻撃的なことに適した男性よりも、体質的に平和なことに適した女性たちが先頭に立つことが必要ですらあるのです。以上、男女平等について、原理的な見解を明らかにしました。