第五章 教育論 : 五 統一教育論から見た従来の教育観 :

 それでは従来の教育論を統一思想の立場から評価してみます。
 プラトンは善のイデアを認識した哲学者を理想的人間像として、そのような哲学者が国家を統治すれば、理想国家が実現されると考えたのです。しかしギリシャ時代において、国家を統治しうるような哲学者は現れず、また善のイデアは国家(ポリス)において実現されなかったのです。善のイデアの思想が漠然としていたからです。神様が宇宙と人間を創造された目的が明らかにされない限り、善の基準を定めることはできず、したがってその理想を実現することはできないのです。
 中世のキリスト教は神様を愛し、隣人を愛する人間となるように教育するとしてましたが、その愛とはアガペー的な愛であって、十字架上のイエス様の犠牲の愛でした。しかしなぜ神様の愛はそのような犠牲の愛でなければならないのか、そしていったい、人間はなぜ愛さなければならないのかが、明らかにされていなかったのです。したがってそのようなキリスト教の教育観では、人間性に目覚めた近代人を確信をもって導くことは難しかったのです。
 ルネサンス時代の教育は抑圧されてきた人間性を解放した点においては高く評価されますが、十六世紀の中ごろからは、古典を学習することに限られ、教育は形式化していったのです。また人間中心に偏ったために、被教育者は次第に宗教的な道徳性を失っていったのです。

 コメニウスは人間の内在する素質(自然)を引き出すことが教育の役割であるといいましたが、その内在する素質とはいかなるものなのかというのが、明確ではなかったのです。また真なる知識を得れば、それがそのまま徳と信仰につながるという汎知主義には問題があります。統一思想から見れば、真の知識教育は心情教育と規範教育を基盤として初めて成立するからです。しかしコメニウスの主張した三つの教育は統一教育論の心情教育、規範教育、主管教育に通じるものであるといえます。
 ルソーも人間を自然のままに成長させることを主張しましたが、ルソーのいう人間の「自然」も曖昧だったのです。人間の性質を無条件に善と規定したところも問題でした。神様の心情(愛)を中心とした心情教育と規範教育を施さなければ、いかに自然のままに育てるといっても、本来の人間の姿に成長させることは不可能なのです。
 カントは道徳教育に重点を置きましたが、その道徳教育には確固たる基盤がありませんでした。道徳の基盤となるべき神様は要請されるだけの存在にすぎず、実在しているのかどうかというのが曖昧だったためなのです。またカントにおいては個人的規範としての道徳のみが問題にされていますが、それだけでは不十分なのです。人間相互の規範としての倫理も重要だからです。

 ペスタロッチは知識教育、道徳・宗教教育、技術教育の三つが愛によって統一されなくてはならないと主張しましたが、これは統一思想のいう心情教育を基盤とした規範教育、主管教育の考え方と似ています(ペスタロッチの知識教育と技術教育は統一思想の主管教育に相当し、道徳・宗教教育は規範教育に相当します)。また全人格的教育という考え方も、家庭が教育の基盤であるという考え方も、統一教育論と一致しています。しかし、教育の目的が三大祝福の完成にあるということが明確にされていませんでした。また道徳・宗教教育の根拠となる神様に関する理解が十分ではなかったのです。そのために、ペスタロッチの教育理念も確固たるものとなりえなかったのです。
 ペスタロッチの教育論を継承したフレーベルに対しても、同様なことがいえます。フレーベルは理想的人間像を「神性をもつ人間」としましたが、これは神様に似るように人間を成長せしめることが教育の本質であるとする統一教育論の立場と全く一致しています。
 ヘルバルトは観念(表象)とその相互関係が、感情や意志などのあらゆる精神活動を起こす根源であると考えて、思想圏を陶冶することによって道徳的品性が実現されると主張しました。しかし統一思想から見るとき、思想の陶冶によって道徳性が実現されるのではありません。心情(愛)を中心として、善の価値を追求し、規範を守ることによって、道徳性が実現されるのです。

 デューイは教育に目的を認めず、ただ成長と進歩を強調しました。しかし目的が明確に設定されないまま、成長や進歩を主張しても、人間の本性の疎外や社会問題は解決されません。実際、科学文明の発達とともに、今日、デューイの教育法が実施されたアメリカで社会では、多くの社会的な病弊が生まれてきたのです。デューイの目指した実践的な技術教育は、心情教育と規範教育の裏づけがない限り、健全な人間と社会を形成することはできないのです。
 マルクス・レーニン主義のいう「ブルジョアジーの階級的支配」としての資本主義教育や、「プロレタリアートの独裁の道具」としての共産主義教育は、階級闘争という面から社会を見つめた教育観にすぎません。唯物弁証法や唯物史観が間違っている以上、この理論の上に立てられた共産主義の教育観も間違っているのです。また、マルクス・レーニン主義は「全面的に発達した人間」を目指すと主張しましたが、それは知情意の機能が均衡的に発達した人格をいうのではなくて、いかなる労働でもなしうるように、労働者の労働の能力を全面的に発達せしめることを意味していました。また労働と結びついた総合技術教育を主張しましたが、労働に重点を置いた教育であるために、総合技術教育は単なる労働技能の教育になってしまったのです。また集団主義教育は個性の尊厳性と人間の自由を抑圧する結果をもたらしました。
 終わりに、民主主義教育は個人の価値と尊厳を基本としたものですが、個人の権利を尊重するあまり個人主義、利己主義の風潮を生みました。また人道主義に基づいて人間性を主張しているので価値観が相対的になってしまったのです。その結果、社会の混乱が不可避となったのです。神様の絶対愛に基づいた心情教育と規範教育がなされるとき、初めて個人の価値と尊厳性が確固たるものとなり、社会の調和と秩序が保たれるのです。