第五章 教育論 : 三 被教育者の理想像 :

 歴史始まって以来、今日まで多くの学者たちいによって、いろいろな教育論が発表されてきました。また、それぞれの教育の理念に応じて養成される人間像というものがありました。統一教育論においても、やはり教育によって養成される人間の理想像があります。統一教育論における被教育者の理想像とは、第一に人格者、第二に善民、第三に天才です。それぞれ心情教育、規範教育、主管教育に対応した理想像です。したがって教育を理想的人間像という面から見れば、心情教育は人格者教育、規範教育は善民教育、主管教育は天才教育ということができます。

 人格者教育
 人格者とは心情教育によって形成される人間像です。したがって人格者教育とは、被教育者をして神様の心情を体恤し、日常生活において神様の愛を実践するように指導し、人格者として育てるための教育です。心情は愛の源泉であり、人格の核心です。心情(愛)が乏しければ、いくら知識をたくさんもっていても、いくら体力があっても、いくら強大な権力があっても、人格者とはなりえないのです。世俗的概念では、人格者とは一定の徳性と知識と健康を備えた人間をいうのですが、統一思想において、人格者とは神様の心情を体恤し、愛を実践する人をいうのです。
 それでは理想的な人格者の姿は、果たしていかなるものなのでしょうか。それは心情(愛)を基盤として、知情意の機能が均衡的に発達した全人的品格を完成した人間をいいます。人格者は何よりも神様の心情を体恤しながら生きるために、万人と万物に対していつも真の愛を実践しようと努力します。神様に対しては忠孝の真心で神様の悲しみと苦痛を慰めてあげようとするのであり、神様の怨讐に対しては公的な敵愾心すなわち公憤心をもちながらも、神様の真の愛を受け継いで涙ながらに怨讐を許すのです。普段は温柔、謙遜の徳と温情にあふれる姿勢をもって、縦的、横的価値観を実践します。法道と愛の実践者であるので、他人に対しては最も優しく、自分に対しては最も厳しいのです。対人関係においては、愛と法道の統一を生活化します。法道のない愛は子供を惰弱にし、愛のない法道は拘束感だけを与えるからです。これが心情教育に寄って形成される人格者の姿です。一言で表現すれば、人格者とは万人と万物に対して神様の真の愛を実践する人です。

 善民教育
 善民とは性品が善なる国民であるという意味であって、規範教育において形成される人間の理想像です。規範教育は普通、学校で行われますが、その基盤は家庭にあります。家庭は宇宙秩序の縮小体であり、社会、国家、世界は家庭の秩序体系を拡大したものとなっています。したがって、家庭において規範教育をよく受けた人は、社会、国家、世界における規範生活をよく行うことができるのです。そのような人は、善なる家庭人でありながら、善なる社会人であり、善なる国家人であり、善なる世界人となるのです。すなわち、規範教育を通じて善なる家庭人となれば、社会、国家、世界など、どこにおいても、その時、その時の規範にふさわしい行動をするようになるのです。
 なお地上において善民として生活すれば、霊界に行っても同様に善ある霊界人となります。地上においても霊界においても、善ある生活をする善民を善なる天宙人といいます。家庭、社会、国家、世界、天宙における善民の生活がすなわち天国における生活なのです。

 天才教育
 主管教育によって形成される人間の理想像が天才です。天才とは創造性の豊かな人をいいますが、人間は本来みな天才なのです。なぜならば人間はおよそ、神様の創造性を与えられた創造的存在だからなのです。「天才」という言葉そのものが「天が与えた才能」という意味であり、神様の創造性を受け継いだことを意味するのです。つまり人間は生まれた時から、可能性として神様の創造性を与えられているのです。したがって先天的に欠陥を持って生まれた人を除けば、すべての人間は、与えられた創造性を100%発揮すれば、天才となるのです。しかし創造性をそのごとくに発揮するためには教育が必要です。その教育が主管教育なのです。
 これまでに述べてきたように、主管教育は心情教育と規範教育を基盤として並行して行われます。すなわち主管教育は均衡教育の一環として行われなければならないのです。そうするとき、初めて真の創造性が現れるのです。心情教育や規範教育が不十分であるか、全く行われないなら、創造性は十分に発揮されません。例えば音楽的な創造性をもった子供がいて、ピアノ習っているとします。ところが父母がいつも不和であって、、子供にッ冷たくあたったり、虐待したりすることが多い場合には、その子は心情的に傷を受けながら学校に通うことになります。そうすると、ピアノを弾いても、手が思うように動かないのです。感情が不安な状態でピアノ弾くからなのです。そういう子供は、どんなに立派な音楽家としての創造性を可能性としてもっていても、不和な家庭環境のために、その創造性の発揮が妨げられているのです。
 人間には個性が与えられているので、創造性にも特性があります。ある人には音楽的な創造性が、ある人には数学的な創造性が、ある人には政治的な創造性が、またある人には事業的な創造性が与えられているのです。そして各人が自分に与えられた創造性を十分に発揮すれば、音楽の天才となり、数学の天才になり、政治の天才になり、企業経営の天才になるのです。すなわち各人は個性にかなった特有の天才になり得るのです。
 しかし人間は堕落した環境に住んでいるために、神様から授かった創造性を十分に発揮できなくなり、天才になりにくい状況になってしまったのです。現実は数万人に一人が天才になりえる程度であって、大部分の人間はみな凡才にとどまるしかないのです。これが、堕落した社会における主管教育の一つの側面です。
 さらに天才教育において、霊界の協助を受けるようになります。ことに神様を中心とした家庭を基盤として均衡教育を行えば、善霊たちが霊的に協助するために、子供の天才的素質はすみやかに発揮されるようになるのです。