第五章 教育論 : 一 「統一教育論」の原理的根拠 : (二) 人間の成長過程

 人間は神様に似るように造られましたが、生まれるとすぐに神様に似るわけではありません。神様に似るようになるためには、一定の成長期間がなければなりません。被造世界は時間・空間の世界であるためです。それで人間は蘇生、長成、完成の三段階を経過して成長して、初めて神様に似るようになるのです。すなわち完全性、繁殖性、主管性において神様に似るようになるのです。したがって成長とは神様に似てゆく過程ですが、それは神様の人格的な側面と神様の陽陰の調和の側面、おっして神様の創造性に似てゆく過程のことをいうのです。
 神様が人間に与えた三大祝福とは、人間が成長したとき、神様の完全性、繁殖性、主管性を相続するという意味の祝福なのです。ですので三大祝福は三大予約祝福なのです。ところが人間始祖の堕落によって、人間に与えられた三大祝福は成就されなかったのです。この三大祝福は創世記に書かれているように「……せよ」という命令形式の祝福です。たとえ人間が堕落したとしても、神様の命令が取り消されたのではなく、命令(祝福)それ自体は今日まで有効なのです。これは天意が人間の潜在意識を通じて、三大命令すなわち三大祝福を成就するように働きかけてきたことを意味します。それで人間は、無意識のうちにも、三大祝福を実現する方向に努力してきたのです。すなわち堕落社会にあっても、人間はみな我知らず、そのような天意に従って、たとえ不十分であるとしても、人格的に成長し、良い相手を見つけて家庭を築き、自然を支配し、社会を改善しようと努力してきたのです。人間に成長欲、結婚欲、支配欲、改善欲などがあるのはそのためでもあります。そうであるとしても、そのような欲望は今日まで完全には達成されなかったのです。それは人間始祖の堕落のためでした。

 このように本然の世界では、人間は三大祝福を完成するために成長してゆかなければならないのです。人間以外の万物も成長しますが、万物の場合、原理自体の自律性と主管性によって成長するようになっています。生命の赴くままに任せておけば、自然に成長するのです。ところが人間の場合、肉身は万物と同様に原理自体の自立性と主管性によって成長しますが、霊人体の成長はそうではないのです。霊人体は責任分担を全うすることによって成長するようになっているのです。人間に責任分担が課せられているのはそのためです。責任分担によって成長するとは、人間が自らの責任と努力によって人格を向上させていくことを意味します。したがって人間は自由意志によって規範(原理)を守りながら、神様の心情を体恤するように努力しなければならないのです。
 人類始祖であるアダムとエバは、神様の戒めを守りながら成長して、神様の心情を体恤したあと、夫婦となり、神様の真の愛を実現しなければなりませんでした。そしてアダムとエバは全人類を代表した最初の人類の先祖とならなくてはなりませんでしたので、彼らには自己の責任分担のみならず、後孫の責任分担の大部分までも担わされていたのです。ですので、神様は、アダムとエバの責任分担には絶対干渉されなかったのです。

 アダムとエバが神様のみ言を守りながら、自らの力でそのような厳しい責任分担を全うしていたならば、その子孫たちはいたって少ない責任分担だけで、すなわち父母の教えに従順に従うだけで完成できるようになっていたのです。そのような内容のためにアダムとエバの場合は、誰かの助けを受けることなく、純粋に自分たちの責任だけで三大祝福を完成しなければならなかったのです。ここでアダムとエバが完成したのちに、子女が父母の教えに従順に従うということは、父母の教え、すなわち父母の教育を受けなければならないことを意味するのです。
 ここに父母の子女に対する教育の必要性が生じます。子女が果たすべき責任分担のために父母による教育が必要なのです。ここに教育の理念が立てられるのです。すなわち、父母が子女を教えて三大祝福を完成できるように導くというのが教育の理念になるのです。したがって教育の本来の場は父母が常に住んでいる家庭でなくてはならないのです。しかし文化の発達とともに、情報量や教育内容が増大するようになり、現実的には不可能なので、教育の場は必然的に家庭から教育を専門にする学校へ移るしかありませんでした。その代わり、学校では先生は父母の代わりに教育するのです。したがって教師は父母の心情で、父母の代身として学生を教えなければなりません。それが本来の教育のあり方なのです。