第五章 教育論 : 一 「統一教育論」の原理的根拠 : (一) 神様への相似性と三大祝福

 神様はご自身のかたちに人間を創造されました(創世記1/27)。そして創造が終わると神様は人間に「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生きものとを治めよ」(創世記1/28)という祝福(三大祝福)を与えられました。それが教育の根拠となります。すなわち教育とは、神様に似るように子女を愛育せしめることであり、子女が神様に似るように導く努力なのです。神様に似るとは、神相と神性に似ることをいいます。人間は生まれながらにして、神相(性相と形状、陽性と陰性、個別相)をもっていますが、それは極めて未熟な状態にあるのであり、成長しながら次第に神様の神相に似てゆくのです。神性の場合にはなおさらそうです。それで神様に似るとは、神相においては、神様の性相と形状、陽性と陰性、個別相に、神性においては、神様の心情、理法、創造性に似るようになることを意味します。
 神様が人間に与えた祝福において「生めよ」(be fruitful)とは個体の人格を完成せよという意味であり、「ふえよ、地に満ちよ」とは、夫婦になって子孫を繁殖しなさいという意味であり、「地を従わせよ……すべての生きものを治めよ」とは、万物を主管せよという意味です。この三大祝福を成就することによって、人間は神様の神相とともに、神様の神性つまり心情、理法、創造性を受け継いで、完全性、繁殖性、主管性において神様に似るようになるのです。次に完全性、繁殖性、主管性に関して具体的に説明されています。この三大祝福において教育の理念が立てられるためです。

 完全性
 イエス様は「あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者となりなさい」(マタイ5/48)と言われました。これは神様の完全性に似なさいということです。完全性とは性相と形状の統一のことをいいます。神様において性相と形状は主体と対象の関係において、心情を中心として円満な授受作用を行い、合性一体化をなしています。この状態が完全性なのです。
 したがって神様の完全性に似るということは、人間においても、心情を中心として性相と形状が一つになることを意味します。存在論で述べられているように、人間と性相と形状には四つの類型がありますが、ここではそのうちの生心と肉心のことをいいます。生心と肉心が一つになるためには、生心が主体、肉心が対象にならなければなりません。すなわち生心が肉心を主管しなければならないのです。生心は真美善の価値を追求し、肉心は衣食住および性を追求します。したがって生心と肉心が一つになるとは、真美善の生活を第一次的に、衣食住の生活を第二次的に追求することを意味するのです。
 生心と肉心の授受作用の中心は心情であり、愛です。結局、愛を基盤とした真美善の生活を中心にして、衣食住の生活が営まれならければならないのです。それがすなわち神様の完全性に似ることなのです。人間は幼い時には、真美善の価値はよく分かりませんが、成長するにつれて、次第に心情が発達して、愛を中心とした生活を真なる生活、美なる生活、善なる生活をするようになります。そうして次第に神様の完全性に似てゆくようになるのです。
 ところで人間は霊人体と肉身の二重的存在ですので、人間の成長には霊人体の成長と肉身の成長があります。人間に与えられた「生育せよ」という第一祝福は、肉身の成長の意味もありますが、主として霊人体の成長すなわち心霊基準の向上を意味しているのです。しかし霊人体も肉身を土台にして、すなわち肉身との授受作用によって成長するのです。そのようにして成長すれば神様の完全性を相続させるということなのです。したがってこれは第一の予約祝福なのです。

 繁殖性
 次は神様の繁殖性に似るということ、すなわち人間が子女繁殖の段階にまで成長するということです。それは神様が陽性と陰性の調和体であるように、その陽性と陰性の調和に似ることなのです。人間における陽性と陰性の調和とは夫婦の調和をいいます。神様の属性である性相と形状の授受作用(統一)と、陽性と陰性の調和によって人間が創造されたのですが、それは神様の繁殖性によるものなのです。それで人間も心と体の統一と陽性と陰性の調和によって、子女を繁殖するのです。
 神様に繁殖性に似なさいというのは、神様にように陽性と陰性が円満な授受作用をなすことのできる能力を備えなさいということを意味します。それは一人の男性と一人の女性が結婚して子女を繁殖する資格を備えるように成長しなさいという意味です。すなわち男性は男性としての資格を完全に備え、女性は女性としての資格を完全に備えなさいということなのです。言い換えれば、夫としての道理、妻としての道理を果たすことができる段階にまで成長しなさいということなのです。そしてそのような資格を備えるようになったならば、結婚して子女を繁殖しなさいということなのです。したがってこれは第二の予約祝福です。

 主管性
 さらに人間は神様の主管性に似なければなりません。主管性に似るということは、神様の創造性に似るということなのです。神様の創造性とは、心情(愛)を中心として対象(新生体)をつくる能力をいいます。神様はその創造性をもって人間および万物を創造し、主管されようとしたのです。本来、人間はそのような神様の創造性を与えられているのです。したがって人間は、心情を中心として万物を主管するようになっているのです。すなわち人間は成長すればそのような能力を備えるようになるのであり、それが第三の予約祝福です。
 すべての産業活動も万物主観です。例えば農民は田畑を耕すが、それは人間の土地に対する主管です。労働者は工場で機械を用いて原料を製品にしますが、それは機械や原料に対する主管です。また漁業は海や魚に対する主管であり、林業は山や木に対する主管です。
 万物を主管するということは、万物に対して創造性を発揮することです。創造性を四位基台の側面から見れば、内的四位基台と外敵四位基台を形成する能力をいいます。したがって農業においては、農民はアイデアに基づいて創意的に、さらに多くの収穫をあげようと努力するのです。商業においてもアイデアと創意がなければ成功できません。要するに農業、鉱業、工業、商業、林業、漁業などは、みな人間の創造性発揮の対象であり、万物主管の営みなのです。科学や芸術も万物主管の範疇に入ります。さらに社会を主管すること、すなわち政治も万物主管の中に入ります。
 ところが、人間は堕落によって神様の創造性を受け継ぐことができなかったのです。神様の創造性は心情を中心とした創造性ですが、堕落のために、心情を中心としないで、利己心を中心とした創造性になってしまったのです。そのために人間は、そのような自己中心的な創造性でもって、社会や自然に被害を及ぼすことが多かったのです。戦争の武器の生産だとか、公害の増大などが、その例です。したがって教師は新しい教育論の立場から、学生たちが心情を中心とした創造性を発揮するように、すなわち神様の主管性に似るように導かなくてはならないのです。