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第一章 原相論 : 一 原相の内容 : (一) 神相 |
神相は神様の属性の形の側面をいいます。神様は人間の目には見えませんが、一定の形または形に成りえる可能性または規定性をもっています。それが神相です。神相には、性相と形状、陽性と陰性の二種類の二性性相と個別相がありますが、まず性相と形状について扱うことにします。
(1)性相と形状
神様は性相と形状の二性性相をその属性としてもっていますが、被造物の性相と形状と区別するために、神様の性相と形状を本性相と本形状ともいいます。神様と万物の関係は創造主と被造物の関係ですが、この関係を原因と結果の関係とも見ることができます。したがって、本性相は被造物の無形的、機能的な側面の根本原因であり、本形状は被造物の有形的、質料的な側面の根本原因です。
神様と人間との関係は父子の関係であり、相似の創造によって互いに似ているために、本性相は人間の心に相当し、本形状は人間の体に相当します。ところで、この両者は分離されている別々の属性ではなくて、互いに相対的および相補的な関係で中和(調和)をなして、一つに統一されています。『原理講論』に「神様は本性相と本形状の二性性相の中和的主体である」(P46)とあるのは、そのことを意味します。したがって正確にいえば、神相は本性相と本形状が中和をなした状態なのです。
本体論の観点から見るとき、このような神相観は唯心論でも唯物論でもなく、唯一論または統一論になります。なぜなら唯心論は本性相だけが宇宙の根本と見る立場に相当し、唯物論は本形状だけが宇宙の根本と見る立場に相当するからです。次に、性相と形状のそれぞれの内容について詳細に説明することにします。
1 性相
本性相と被造物
神様の性相は人間に例えると心に相当し(したがって性相は神様の心です)、それがすべての被造物の無形的、機能的な側面の根本原因となっています。すなわち人間の心、動物の本能、植物の生命、鉱物の物理化学作用性の根本原因になります。言い換えれば、神様の性相が次元を異にしながら、時間、空間の世界に展開したのが鉱物の物理化学作用性、植物の生命、動物の本能、人間の心なのです。創造が相似の創造であるためです。
したがってこれは、たとえ極めて低い次元であるとしても、鉱物のような無機物においても神様の性相が宿っていることを意味し、植物においては、神様の性相が生命の形態でより高い心的機能として現れ(最近、植物にも人間の心に反応する心的作用があることが実験を通じて知られています)、動物の段階においては、肉心(本能)の形態でさらに高い心的機能として現れることを意味します。最近の学者たちの研究によれば、動物にも人間の場合と同様に知情意の機能、すなわち意識があることが明らかにされています(ただし動物が人間と違うのは、動物には人間のような自我意識がないことです)。
本性相の内部構造
神様の性相はさらに内的性相と内的形状という二つの部分からなっています。内的性相は機能的部分すなわち主体的部分をいい、内的形状は対象的部分をいいます。次に神様の内的性相と内的形状を理解しやすくするために、人間の場合を例にして説明をします(人間の心は神様の心と似ているためです)。
内的性相
内的性相すなわち機能的部分とは知情意の機能をいいます。知的機能は認識の能力であって、感性、悟性、理性の機能をいいます。情的機能は情感性、すなわち喜怒哀楽などの感情を感じる能力をいいます。意的機能は意欲性、すなわち欲求や決心、決断する能力をいいます。このような機能は内的形状に能動的に作用するために、内的性相は内的形状に対して主体的部分となっています。知的機能における感性とは、五官に映るままに知る能力、直感的に認識する能力を意味し、悟性とは、論理的に原因や理由を問いながら知る能力であり、理性とは、普遍的真理を求める能力、または概念化の能力をいいます。
この三つの機能をニュートンが万有引力を発見する過程を例に説明すれば次のようになります。万有引力の発見に際して、ニュートンは初めにリンゴが落下する事実をそのまま認識し、次にリンゴが落下する原因を考えて大地とリンゴが引き合っていることを理解し、さらにその後、いろいろな実験や観察などの研究を通じて、地球とリンゴだけでなく、宇宙内の質量をもっているすべての物体が互いに引き合っていることを知るようになったのです。このとき、初めの段階の認識が感性的認識であり、第2段階の認識が悟性的認識であり、第3段階の認識が理性的認識すなわち普遍的認識になります。
内的形状
内的形状は本性相内の対象的部分をいいますが、それはいくつかの形の要素から成り立っています。そのうち、重要なものは観念、概念、原則、数理です。
1.観念
観念は性相の中にある被造物一つ一つの具体的な表象、すなわち映像をいいます。人間は経験を通して客観世界の事物の一つ一つの具体的な姿を心の中に映像としてもつようになりますが、その映像がまさに観念なのです。人間の場合は経験を通じて観念を得るようになりますが、神様は絶対者であられるために本来から無数の観念をもっておられたと見るのです。
2.概念
概念は抽象的な映像、すなわち一群の観念に共通的に含まれた要素を映像化したものをいいます。例えば、犬、鶏、牛、馬、豚などの観念において、共通の要素は「感覚をもって運動する性質」になりますが、これを映像化させれば「動物」という抽象的な形を得るようになるのです。それが概念なのです。概念には種概念と類概念があります。
3.原則
原則は被造世界の自然法則および規範法則(価値法則)の根本原因となる法則であって、数多くの自然法則と規範法則は、この原則がそれぞれ自然現象と人間生活を通じて現れる表現形態なのです。あたかも植物において、一粒の種が発芽して幹と枝が伸び、数多くの葉が繁るように、一つの原則から数多くの法則(自然法則、と規範法則)が現れるようになったと見るのです。
4.数理
数理とは数的原理という意味であって、自然界の数的現象の究極的原因をいいます。すなわち内的形状の中には数的現象の根源となる無数の数、計算法などが観念として含まれているのであり、それが数理なのです。ピタゴラスが「万物の根本は数である」というときの数の概念、また量子力学の大成に貢献したイギリスの物理学者のディラックが「神様は高度の数学者であり、宇宙を構成する時、極めて高度な数学を使用した」というときの数の概念は、すべて内的形状の数理に該当するということができるのです。
内的形状の原理的および聖書的根拠
次は以上の内的形状に関する理論が、統一原理および聖書のどこにその根拠があるのかを明らかにします。
1.内的形状
「内性は目に見ることはできませんが、必ずある種のかたちをもっているので、それに似て、外形も目に見える何らかのかたちとして現れるのです。そこで前者を性相といい、後者を形状と名づけます」(『原理講論』P44)。これは目に見える形より前に、性相の中に、すでに形があることを意味するものであり、その性相の中の形がまさに内的形状なのです。
2.観念と概念
「神様は自分のかたちに人を創造されました。すなわち、神様のかたちに創造し、男と女とに創造されました」(創世記1/27)。神様は六日間で万物を創造されましたが、一日の創造を終えるときに「そのようになった」(創世記1/7,9,11)、「見て良しとされた」(創世記1/4,10,12,18,21,25)と言われましたが、これは心の中にもっていた観念や概念のとおりに、被造物が造られたことを意味します。
3.原則(原理)
「(神様は)原理によって被造世界を創造され、その原則に従って摂理を行い給う」(『原理講論』P132)、「神様は原理の主管主としていまし給い」(同上P79)、「神様は原理によって創造された人間を、愛で主管しなければならない」(同上P113)などに見られるように、神様は原則(原理)を立てたのち、人間と万物を創造されたのです。
4.数理
「被造世界は神様の本性相と本形状とが数理的な原則によって、実体的に展開されたものです」(『原理講論』P77)、「神様は数理性をもっておられる」(同上P77)、「神様は数理的にも存在し給う方です」(同上P444)などに見られるように、神様は被造世界を数理的に創造されたのです。このように内的形状を成している形の要素は、みな統一原理(『原理講論』)と聖書にその根拠があることが分かると思います。
以上は神様の本性相内の機能的部分(内的性相)と対象的部分(内的形状)を人間の心に例えながら説明したものです。本性相をこのように詳細に扱うのは、現実問題の解決のためなのです。例えば内的性相である知情意の機能が心情を中心として作用するとき、愛を基礎とした真美善の価値観が成立するようになります。知情意に対する価値が真美善です。そして内的形状は知情意の対象的部分であると同時に、本形状とともに、被造物の有形的部分の根本的原因になっています。この事実から、現実生活においては、衣食住の物質的生活よりも真美善の価値の生活を優先しなければならないという論理が導かれるのです。
2.形状(本形状)
次は神様の形状(本形状)について説明します。
本形状と被造物
神様の形状(本形状)を人間に例えれば体に相当するものであり、それはすべての被造物の有形的な要素(側面)の根本原因になります。すなわち人間の体、動物の体、植物の細胞・組織、鉱物の原子・分子などの究極的原因なのです。言い換えれば、神様の本形状が次元を異にしながら、時間・空間の世界に展開されたものが鉱物の原子・分子であり、植物の細胞・組織であり、動物の体であり、人間の体なのです。これもまた相似の創造によるものです。
このように被造物の有形的要素の根本原因が神様の形状なのですが、この被造物の有形的要素の根本原因には二つの側面があります。一つは素材(質料)的要素であり、もう一つは無限の形態を取ることのできる可能性(無限応形性)です(万物の形態自体の根本原因は内的形状にあります)。
ここで「無限な形態を取ることのできる可能性」(無限応形性)を水の場合を例に取って比喩的に説明します。水自体は他の万物と違って一定の形態がありません。しかし容器によっていろいろな形態を現します。三角形の容器では三角形として、四角形の容器では四角形として、円形の容器では円形として現れます。このように水が無形なのは、実はいかなる容器の形態にも応ずる無限な応形性をもっているからなのです。すなわち水が無形なのは実は無限形であるためなのです。同様に、神様の本形状も、それ自体は一定の形態がありませんが、いかなる形態の映像にも応じることのできる応形性、すなわち無限応形性をもっているのです。このように被造物の有形的要素の根本原因には素材的要素と無限応形性の二つがありますが、この二つがまさに神様の形状の内容なのです。
人間の創作活動は、心が構想した型に一致するように可視的な素材(彫刻の場合、石膏または大理石)を変形させる作業であると見ることができます。言い換えれば、創作とは、構想の型に素材を一致させる作業であるということができるのです。神様の創造の場合もこれと同じなのです。すなわち、本性相内の内的形状の型または鋳型に無限応形性をもった素材的要素を与えて、一定の具体的な形態を備えさせる作業を創造ということができるのです。
本形状と科学
被造物の有形的側面の根本原因である素材的要素とは、要するに科学の対象である物質の根本原因なのですが、素材的要素と科学はいかなる関係にあるのでしょうか。
今日の科学は、物質の根本原因は素粒子の前段階としてのエネルギー(物理的エネルギー)であり、そのエネルギーは粒子性と波動性を帯びていると見ています。しかし科学は結果の世界、現象の世界だけを研究の対象としているために、それは究極的な第一原因ではありえないのです。本原相論は、その究極的原因をまさに本形状であると見るのです。したがって本形状とは、科学的に表現すればエネルギーの前段階であって、それは「前段階エネルギー」(Prior-stage Energy)、または簡単に「前エネルギー」(Pre-Energy)ということができるでしょう。
本形状と力
神様の創造において、本形状である前エネルギーから授受作用によって、二つの力(エネルギー)が発生すると私達は見ています。その一つは「形成エネルギー」(Forming Energy)であり、他の一つは「作用エネルギー」(Acting Energy)です。
形成エネルギーは直ちに粒子化して物質的素材となり、万物を形成するのですが、作用エネルギーは、万物に作用して、万物相互間に授け受ける力(例:求心力と遠心力)を引き起こします。その力を統一思想では原力(Prime Force)と呼びます。そして原力が万物を通じて作用力として現れるとき、その作用力を万有原力(Universal Prime Force)と呼ぶのです。
本形状から授受作用によって形成エネルギーおよび作用エネルギーが発生するとき、愛の根源である心情が授受作用の土台となるために、発生する二つのエネルギーは単純な物理的なエネルギーではなく、物理的エネルギーと愛の力との複合物になるのです。したがって原力にも万有原力にも、愛の力が含まれているのです。(文先生は1975年5月の「希望の日晩餐会」での講演以後、しばしば「万有原力にも愛の力が作用する」と語っておられました。)
性相と形状の異同性
次は、性相と形状が本質的に同質的なのか異質的なのかという、性相と形状の異同性について調べてみることにします。先に述べた「性相と形状の二性性相論」は、一般哲学上の本体論から見るとき、いかなる立場になるのでしょうか。すなわち「性相と形状の二性性相論」は、一元論なのか二元論なのか、唯物論なのか唯心論(観念論)なのか。
ここで一元論とは、宇宙の始元が物質であると主張する一元論的唯物論か、宇宙の始元が精神であると主張する一元論的唯心論(観念論)をいいます。マルクスの唯物論は前者に属し、ヘーゲルの観念論は後者に属します。そして二元論とは物質と精神がそれぞれ別個のものでありながら宇宙生成の根源になっていると見る立場です。思惟(精神)と延長(物質)の二つの実体を認めるデカルトの物心二元論がその例です。
それでは統一思想の「性相と形状の二性性相論」は一元論なのでしょうか、二元論なのでしょうか。すなわち原相の性相と形状は本来、同質的なものなのだろうか、異質的なものなのだろうか。ここでもしそれらが全く異質的なものだとすれば、神様は二元論的存在となってしまいます。
この問題を理解するためには、本性相と本形状は異質的な二つの要素なのか、あるいは同質的な要素の二つの表現態なのかを調べてみればいいことになります。結論から言えば、本性相と本形状は同質的な要素の二つの表現態なのです。
これはあたかも水蒸気と水が、水(H20)の二つの表現態であるのと同じなのです。水において、水分子の引力と斥力が釣り合っていますが、熱を加えて斥力が優勢になれば気化して水蒸気となり、気温が氷点下に下がって、引力が優勢になれば氷となります。水蒸気や氷はいずれも水の表現態、すなわち水分子の引力と斥力の相互関係の表現様式にすぎないのです。したがって両者は全く異質的なものではありません。
同様に、神様の性相と形状も、神様の絶対属性すなわち同質的要素の二つの表現態なのです。絶対属性とは、エネルギー的な心、あるいは心的なエネルギーのことです。つまりエネルギーと心は全く別のものではなくて、本来は一つになっているのです。この絶対属性が創造において分かれたのが、神様の心としての性相と、神様の体としての形状なのです。
性相は心的要素から成っていますが、そこにはエネルギー的要素も備わっています。ただ心的要素がエネルギー的要素より多いだけなのです。また形状はエネルギー的要素から成っていますが、そこには心的要素も備わっていて、エネルギー的要素が心的要素より多いだけなのです。このように性相と形状は全く異質的なものではありません。両者はいずれも、共通に心的要素とエネルギー的要素をもっているのです。
被造世界において、性相と形状は精神と物質として、互いに異質的なものして現れますが、そこにも共通の要素があるのです。例えば心にもエネルギーがありますが、そのことを示す例として次のようなものがあります。カエルなどから採取した、神経についている骨格筋(神経筋標本)において、神経に電気的刺激を与えると筋肉は収縮します。一方私達は、心によって手や足の筋肉を動かしています。つまり心が神経を刺激して筋肉を動かしているのです。これは、心にも物質的なエネルギー(電気エネルギー)と同様のエネルギーがあることを意味しています。催眠術で他人の体を動かすことができるということも、心にエネルギーがあることを示しています。
一方、エネルギー自体にも性相的要素が宿っているといえるのです。最近の科学によれば、物質的真空状態において、エネルギーが震動して素粒子が形成されるのですが、そのときエネルギーの震動は連続的ではなくて、段階的なのです。ちょうど音楽において音階があるように、エネルギーが段階的に震動し、その結果、段階的に規格の異なる素粒子が現れるというのです。これは、あたかも音階が人間の心によって定められたように、エネルギーの背後にも性相があって、震動の段階を定めていると見ざるをえないのです。
このように性相の中にも形状的要素があり、形状の中にも性相的要素があるのです。したがって、原相において性相と形状は一つに統一されているのです。本質的に同一な絶対属性から性相と形状の差異が生じ、創造を通じてその属性が被造世界に現れるとき、異質な二つの要素となるのです。これを比喩的に表現すれば、一つの点から二つの方向に二つの直線が引けるのと同じなのです。そのとき、一つの直線は性相(精神)に対応し、他の直線は形状(物質)に対応するのです。
聖書には、被造物を通じて神様の性質を知ることができると記録されています(ローマ1/20)。被造物を見れば、心と体、本能と肉身、生命と細胞・組織などの両面性があります。ですから、絶対原因者である神様の属性にも両面性があると帰納的に見ることができるのです。これを「神様の二性性相」と呼びます。しかしすでに述べてきたように、神様において二性性相は、実は一つに統一されているのです。この事実を『原理講論』では、「神様は本性相と本形状の二性性相の中和的主体である」と表現しています。このような観点を本体論から見るとき、「統一論」となるのです。そして神様の絶対属性それ自体を表現するとき、「唯一論」となるのです。
アリストテレス(Aristoteles, 384-322 B.C.)によれば、実体は形相(eidos)と質料(byte)から成っています。形相とは実体をしてまさにそのようにせしめている本質をいい、質料は実体を成している素材をいいます。西洋哲学の基本的な概念となったアリストテレスの形相と質料は統一思想の性相と形状に相当します。しかしそこには、次のような点で根本的な差異があります。
アリストテレスによれば、形相と質料を究極にまでさかのぼると純粋形相(第一形相)と第一質料に達します。ここで純粋形相が神様であるのですが、それは質料のない純粋な活動であり、思惟それ自体であるとされているのです。すなわちアリストテレスにおいて、神様は純粋な思惟、または思惟の思惟(ノエンシス・ノエセオース)なのです。ところで、第一質料は神様から完全に独立していました。したがって、アリストテレスの本体論は二元論なのです。また第一質料を神様から独立したものと見ている点で、その本体論は、神様をすべての存在の創造主と見るキリスト教の神観とも異なっていました。
トマス・アクイナス(T.Aquinas, 1225-1274)はアリストテレスに従って、同様に純粋形相または思惟の思惟を神様と見ました。また彼はアウグスティヌス(A.Augustinus, 354-430)と同様に、神様は無から世界を創造したと主張したのです。神様は質料を含む一切の創造主であり、神様には質料的要素がないために、「無からの創造」(creatio ex nihilo)を主張せざるをえなかったのです。しかし無から物質が生じるという教義は、宇宙がエネルギーによって造られていると見る現代科学の立場からは受け入れがたい主張なのです。
デカルト(R.Descartes, 1596-1650)は、神様と精神と物体(物質)を三つの実体と見たのです。究極的には神様が唯一なる実体なのですが、被造世界における精神と物体は神様に依存しながらも相互に完全に独立している実体であるとして二元論を主張したのです。その結果、精神と物体はいかにして相互作用をするのか、説明が困難になりました。デカルトの二元論を受け継いだゲーリンクス(A.Geulincx, 1624-1669)は、互いに独立した異質的な精神と身体の間に、いかにして相互作用が可能なのかという問題を解決するために、神様が両者の間を媒介すると説明したのです。つまり精神や身体の一方において起きる運動を契機として、神様が他方において、それに対応する運動を起こすというのであり、これを機会原因論(occasionalism)と呼びます。しかしこれは方便的な説明にすぎないのであり、今日では誰も目をくれないのです。すなわち精神と物質を完全に異質的な存在と見たデカルトの観点に問題があったのです。
このように西洋思想がとらえた形相と質料、または精神と物質の概念には、説明の困難な問題があったのです。このような難点を解決したのが統一思想の性相と形状の概念、すなわち「本性相と本形状は同一なる本質的要素の二つの表現態である」という理論なのです。以上で、神相の「性相と形状」に関する説明を終えます。次は、もう一つの神相である「陽性と陰性」に関して説明します。
(2)陽性と陰性
陽性と陰性も二性性相です
陽性と陰性も神様の二性性相です。しかし、同じく二性性相である性相と形状とは次元が違っています。性相と形状は神様の直接的な属性ですが、陽性と陰性は神様の間接的な属性であり、直接的には性相と形状の属性なのです。すなわち、陽性と陰性は、性相の属性であると同時に形状の属性でもあるのです。言い換えれば、神様の性相も陽性と陰性を属性としてもっており、神様の形状も陽性と陰性を属性としてもっているのです。
陽性と陰性の二性性相は、性相と形状の二性性相と同様に中和をなしています。『原理講論』に「神様は陽性と陰性の二性性相の中和的主体であられる」とあるのは、このことを意味しているのです。この中和の概念も、性相と形状の中和と同様に、調和、統一を意味し、創造が構想される以前には一なる状態にあったのです。この一なる状態が創造において陽的属性と陰的属性に分化したと見るのです。その意味で東洋哲学の易学において「大極生両儀」(大極から陰陽が生まれた)というのは正しい言葉なのです。
ところで、陽性と陰性の概念は易学の陽と陰の概念と似ていますが、必ずしも一致するものではありません。東洋的な概念としては、陽は光、明るさを意味し、陰は蔭、暗さを意味します。この基本的な概念が拡大適用され、いろいろな意味に使われています。すなわち、陽は太陽、山、天、昼、硬い、熱い、高いなどの意味に、陰は月、谷、地、夜、軟らかい、冷たい、低いなどの意味に使われています。
しかし統一思想から見るとき、陽性と陰性は性相と形状の属性であるために、被造世界において、性相と形状は個体または実体を構成していますが、陽性と陰性は実体の属性として現れているだけなのです。例えば太陽(個体)は性相と形状の統一体であって、太陽の光の「明るさ」が陽であるのです。同様に月それ自体は性相と形状から成る個体(実体)であって、月の反射光の明るさの「淡さ」が陰なのです。
ここで統一思想の実体の概念について説明しておきます。統一思想の実体は、もちろん統一原理の実体の概念に由来するものです。統一原理には「実体基台」、「実体献祭」、「実体聖殿」、「実体世界」、「実体相」、「実体対象」、「実体路程」など、実体と関連した用語が多く使われていますが、そこで実体とは、被造物、個体、肉身をもった人間、物質的存在などの意味をもつ用語です。
ところで、人間を含めたすべての被造物は、性相と形状の合性体(統一体)になっています。言い換えれば、被造物において性相と形状はそれぞれ個体(実体)の構成部分にもなっているのです。そして、性相や形状それ自体もまた実体としての性格をもっているのです。あたかも自動車も製作物(実体)であり、自動車の構成部品である部品(例:タイヤ、トランスミッションなど)も製作物であるのと同じです。したがって統一思想においては、人間の性相と形状は実体の概念に含まれるのです。
原相において、陽性と陰性をそれぞれ本陽性と本陰性ともいいます(『原理講論』P46)。原相の「本性相と本形状」および「本陽性と本陰性」に似ているのが人間の「性相と形状」と「陽性と陰性」です。すでに述べてきたように、被造世界では性相と形状は共に実体の性格をもっており、陽性と陰性は実体としての性相と形状(またはその合性体である個体)の属性となっています。
原相における性相と形状および陽性と陰性の関係を正確に知るためには、人間における実体としての性相と形状、そしてその属性としての陽性と陰性の関係を調べてればいいのです。
性相(心)の知情意の機能にもそれぞれ属性としての陽性と陰性があります。例えば知的機能には明晰、判明などの陽的な面と、模糊、混同などの陰的な面があり、情的機能には愉快、喜びなどの陽的な面と不快、悲しみなどの陰的な面があります。意的機能にも積極的、創造的などの陽的な面と、消極的、保守的などの陰的な面があります。そして形状(肉身)においても陽的な面(隆起部、突出部)と陰的な面(陥没部、孔穴部)があるのは言うまでもありません。
ここで明らかにしておきたいのは、ここに示したのは人間の場合にのみいえることなのです。神様は心情を中心とした原因的存在であって、創造前の神様の性相と形状において、属てのみ存在しているだけでした。そして創造が始まれば、その可能性としての陽性と陰性が表面化され、知情意の機能に調和のある変化を起こし、形状にも調和的な変化をもたらすのです。
陽性・陰性と男子・女子との関係
ここで問題となるのは、陽性・陰性と男子・女子との関係です。東洋では古来から、男子を陽、女子を陰と表現する場合が多くありました。しかし統一思想では男子を「陽性実体」、女子を「陰性実体」といいます。表面的に見ると東洋の男女観と統一思想の男女観は同じように見えますが、実際は同じではありません。
統一思想から見るとき、男子は陽性を帯びた「性相と形状の統一体」であり、女子は陰性を帯びた「性相と形状の統一体」なのです。したがって男子を「陽性実体」、女子を「陰性実体」と表現するのです(『原理講論』P48)。
ここで特に指摘することは、男子を「陽性実体」というときの陽性と、女子を「陰性実体」というときの陰性が性相・形状の属性としての陽性・陰性とは必ずしも一致しないということなのです。すなわち、性相においても形状においても、陽性と陰性の特製は男女間で異なっているのです。そのことを具体的に説明すれば、次のようになります。
まず、形状における陽性と陰性の男女間での差異を説明します。形状すなわち体において、男女は共に、陽性である隆起部、突出部や、陰性である陥没部、孔穴部をもっていますが、男女間でそれらに差異があるのです。男子は突出部(陽性)がもう一つあり、女子は孔穴部(陰性)がもう一つあるのです。また身長においても、臀部の大きさにおいても、男女間で差異があります。したがって形状に陽性と陰性の男女間での差異は量的差異なのです。すなわち、男子は陽性が量的により多く、女子は陰性が量的により多いのです。
それでは性相においてはどうでしょうか。性相における陽性と陰性の男女間での差異は、量的差異ではなく質的差異なのです(量的にはむしろ男女間で差異はありません)。例えば性相の知において、男女は共に明晰さ(陽)をもっていますが、その明晰さの質が男女間で異なるのです。男子の明晰さは包括的な場合が多く、女子の明晰さは縮小指向的な場合が多いのです。才知においても同様です。また性相の悲しみ(陰)において、過度な場合、男子の悲しみは悲痛に変わりやすく、女子の悲しみは悲哀に変わりやすいのです。性相の意における積極性(陽)の場合、男子の積極性は相手に硬い感触を与えやすいが、女子の積極性は相手に軟らかい感触を与えやすいのです。男女間のこのような差異が質的差異なのです。
このように性相において、陽性にも陰性にも男女間で差異があるのです。これを声楽に例えると、高音には男子(テノール)と女子(ソプラノ)の差異があり、低音にも男子(バス)と女子(アルト)の差異があるのと同じなのです。
このように陽性と陰性は男女間において量的または質的差異を表すのですが、男子の陽性と陰性をまとめて男性的、女子の陽性と陰性をまとめて女性的であると表現するのです。したがってここに「男性的な陽性」と「女性的な陽性」という概念が成立するのです。
ここにおいて、次のような疑問が生じるかもしれません。すなわち形状においては男女間の差異が量的差異であるので、、男子を陽性実体、女子を陰性実体と見るのは理解できるのですが、性相において、男女の差異が質的差異だけで、量的には男女は全く同じ陽陰をもっているのに、なぜ男子を陽性実体、女子を陰性実体というのか、という疑問です。
それは男女間の陽陰の差異が量的であれ質的であれ、その差異の関係は主体と対象の関係であるとうことから解決されるのです。後述するように、主体と対象の関係は積極的と消極的、能動的と受動的、外向性と内向性の関係になります。ここに性相(知情意)の陽陰の男女間の差異においても、男性の陽と女性の陽の関係、および男性の陰と女性の陰の関係は、すべて主体と対象の関係になっているのです。
すなわち、知的機能の陽において、男性の明晰の包括性と女性の明晰の縮小指向性が主体と対象の関係であり、情的機能の陰において、男性の悲痛と女性の悲哀の関係も主体と対象の関係なのです。また意的機能の陽において、男性の積極的の硬性と女性の積極的の軟性の関係も主体と対象の関係なのです。これは男女間の陽陰の質的差異は量的差異の場合と同様なのであって、男性と女性の関係が陽と陰の関係であることを意味するのです。以上で男性を陽性実体、女性は陰性実体と呼ぶ理由を明らかにしました。
これまでのお話で陽性・陰性は性相・形状の属性であることが明らかにされたと思います。ところで、このことがなぜ重要なのかといえば、それがまた現実問題の解決の基準となるためなのです。ここで現実問題とは、男女間の問題、すなわち性道徳の退廃、夫婦間の不和、家庭破壊などの問題をいいます。
陽性・陰性が性相・形状の属性であるということは、性相・形状と陽性・陰性の関係が実体と属性との関係になっていることを意味します。実体と属性において先次的に重要なのは実体です。属性がよりどころとする根拠が実体であるためです。実体がなくては属性は無意味なのです。そのように性相・形状は陽性・陰性が「よりどころとする根拠」としての実体であり、性相・形状がなければ陽性・陰性は無意味なものになってしまうのです。
人間において、性相・形状の問題とは、現実的には性相・形状の統一をいうのであって、それは心と体の統一、生心と肉心の統一、すなわち人格の完成を意味します。そして人間において、陽性と陰性の問題は現実的には男性と女性の結合を意味するのです。ここで「人格の完成」と「男女間の結合」の関係が問題となりますが、「陽性・陰性が性相・形状の属性である」という命題に従うならば、男女は結婚する前に人格を完成しなければならないという論理が成立するのです。
統一原理の三大祝福(個性完成、家庭完成、主管性完成)において、個性完成(人格完成)が家庭完成(夫婦の結合)より前に置かれた根拠は、まさにこの「陽性・陰性は性相・形状の属性である」という命題にあったのです。『大学』の八条目の中の「修身、斉家、治国、平天下」において、修身を斉家より前に置いたのも『大学』の著者が無意識のうちにこの命題を感知したためであると見なければならないのです。
今日、男女関係に関連した社会問題(性道徳の退廃、家庭の不和、離婚、家庭破壊など)が続出していますが、これらはすべて家庭完成の前に個性感性が成されてなかったこと、すなわち斉家の前に修身が成されなかったことに由来しているのです。
言い換えれば、今日、最も難しい現実問題の一つである男女問題は、男女共に家庭完成の前に(結婚前に)人格を完成することによって、つまり斉家する前に修身することによって、初めて解決することができるのです。このように「陽性・陰性が性相・形状の属性である」という命題は、現実問題の解決のまた一つの基準となっているのです。
(3)個別相
個別相とは何か
これまで述べてきた性相・形状および陽性・陰性は神様の二性性相であって、この二種の相対的属性は、あまねく被造世界に展開されて、普遍的にすべての固体の中に現れています。聖書に「神様の見えない性質、すなわち神様の永遠の力と神性(および神相)とは、天地創造このかた被造物において知られていて、明らかに認められるからである」(ローマ1/20)と記録されているのは、この事実を言っているのです。このように万物はみな普遍的に性相・形状および陽性・陰性をもっています。したがって神様の性相・形状および陽性・陰性を「普遍相」といいます。
一方で、万物は独特な性質ももっています。鉱物、植物、動物にいろいろな種類があるのもそのためです。天体も、恒星であれ惑星であれ、みな特性をもっています。特に人間の場合、個人ごとに独特の性質をもっているのです。すなわち、体格、体質、容貌、性格、気質など、個人ごとに異なっているのです。
万物と人間のこのような個別的な特性の原因の所在は、神様の本性相の内部の内的形状にあります。このような個別的な特性の原因を「個別相」といいます。言い換えれば、神様の属性の中にある個別相が被造物の個体または種類ごとに現れたものを被造物の個別相といいます。そして人間においては個人ごとに特性が異なるために、人間の個別相を「個人別個別相」といい、万物においては種類によって特性が異なるために、万物の個別相を「種類別個別相」といいます。すなわち人間においては個別相は個人ごとの特性をいいますが、万物(動物、植物、鉱物)の個別相は、一定の種類の特性すなわち種差(特に最下位の種差)をいいます。それは、人間は喜びの対象および神様の子女として造られているものに対して、万物は人間の喜びの対象として造られているからなのです。
個別相と普遍相
ここで被造物の普遍相と個別相との関係を明らかにします。個別相は個体の特性であるとしても、普遍相と別個の特性ではなくて、普遍相それ自体が個別化されたものなのです。例えば人間の顔(容貌が)それぞれ違うのは、顔という形状(普遍相)が個別化されたものであり、人間の個性がそれぞれ異なるのは、性格、気質(普遍相)が個別化され、特殊化されたものなのです。このように人間において個別相とは、個人ごとに普遍相が個別化されたものであり、その他の被造物においては、種類ごとに普遍相が個別化されたものなのです。
被造物において、このように普遍相の個別化が個別相であるのは、神様の内的形状の中にある被造物に対する個別化の要因すなわち個別相が、神様の性相・形状および陽性・陰性を個別化させる要因として作用しているからなのです。ここで神様の普遍相を「原普遍相」といい、神様の内的形状の中にある個別相を「原個別相」とも呼びます。したがって被造物の普遍相と個別相は、原普遍相と原個別相にそれぞれ対応しているのです。
個別相と突然変異
次に個別相と遺伝子の関係について述べてゆきます。進化論から見るとき、一般的に生物の種差としての個別相の出現は、突然変異による新形質の出現と見ることができます。そして人間の個性としての個別相の出現は、父のDNAと母のDNAの多様な混合または組み合わせによる遺伝として見ることができます。
しかし統一思想では、進化論は創造過程の現象的な把握にすぎないと見るために、生物における突然変異による新形質の出現は、実は突然変異の方式を取った新しい個別相の創造なのであり、人間のおける父母のDNAの混合による新形質の出現も、実はDNAの遺伝情報の混合の方式を通じた人間の新個別相の創造と見るのです。より正確にいえば、生物や人間の新しい個別相の創造とは、神様の内的形状にある一定の原個別相を、これに対応する被造物に新個別相として付与することである、と見るのです。
個別相と環境
個別相をもった個体が成長するためには、環境との間に不断の授受の関係を結ばなければなりません。すなわち個別相をもった個体は、環境との授受作用によって変化しながら成長し、発展します。これは授受作用の結果によって必ず合成体または新生体(変化体)が形成されるという授受法の原則によるのです。
したがって個体の特性(個別相)は原則的に先次的なものなのですが、その個別相の一部が環境要因によって変化するので、あたかもその特性が後天的に形成されたかのように感じられる場合があるのです。同一の環境要因によって現れる特性にも、個人ごとに差異があるのが見られますが、これは環境に順応する方式(授受作用の方式)にも個人差があるからなのです。その個人差も個別相に基因する個人差なのです。このように個別相の一部が変形されて後天的に形成された特性のように現れたものを「個別変相」といいます。
人間個性の尊貴性
およそ被造物の特徴は、神様の属性の個別相に由来するものであって、みな尊いものなのですが、特に人間の個性はいっそう尊厳なものであり、神聖であり、貴重なものなのです。人間は万物に対する主管主であると同時に、霊人体と肉身から成る二重体であって、肉身の死後にも霊人体が永生するためです。すなわち人間は地上においても天上においても、その個性を通じて愛を実践しながら創造理想を実現するようになっているために、人間の本然の個性はそれほど尊貴なものであり、神聖なものなのです。人道主義も人間の個性の尊貴性を主張していますが、個人の特性の神来性が認められない限り、そのような主張によっては、人間を動物視する唯物論的人間観を克服するのは難しいのです。そのような意味で個別相に関する理論も、なぜ人間の個性が尊重されなければならないかという、また一つの現実的問題の解決の基準になるものなのです。
以上で神相に関する説明を終わり、次は神性について説明してゆきます。