第三章 本性論 : 五 統一思想から見た実存主義の人間観 : (四) ハイデッガー

 ハイデッガーの人間観
 ハイデッガー(Martin Heidegger,1889-1976)は人間を「現存在」(Dasein)と規定しましたが、近代の哲学のように、人間を世界に向かって立っている自我とは見なさなかったのです。現存在は、現在そこにいる個々の人間の存在(Sein)のことをいいます。すなわち現存在は、世界の中にあって、他の存在者と関係を結び、関心をもって自分の周りに気を配り、他人に気を使いながら、生活しているのです。ハイデッガーは現存在のこのような根本的なあり方を「世界内存在」(in-der-Welt-Sein)としてとらえました。世界の中にあるということは、人間はどこから来て、どこへ行くのかも知らないまま、さいころのように世の中に投げ出されているということを意味します。人間はこの地上に生まれようとして生まれたのではなく、あとで気づいてみると、この世に投げ出されていたことを悟るようになったというのです。この状態を被投性(Geworfenheit)または事実性(Faktizitat)といいます。
 人間は通常、日常生活において、周囲の意見や事情に自分を合わせていく間に、自己の主体性を喪失していきます。これが本来の自己を喪失した、いわゆる「ひと」(Das Man)の立場なのです。「ひと」は日常生活の中で、おしゃべりにふけり、好奇心のとりこにない、曖昧さのうちに安住しています。これを現在の頽落(Verfallen)といいます。

 理由もなく世界の中に投げ出されている現存在は不安(Angst)の中にありますが、その不安の由来を突き詰めると、結局、死への不安に至ります。しかし人間は、不安の中で漠然と未来を待つのではなく、「死への存在」(Sein zum Tode)であることを積極的に受け止めて、真剣に未来に向かって決意して生きるとき、本来の自己に向かうことができるのです。そのようにして、人間は未来に向かって自ら自己を投げかける、すなわち自己の未来をかけるのであり、これを投企(Entwurf)といいます。そして、このような現存在の性質を実存性(Existenz)といいます。
 そのとき、何を基準として自己を投げかけるのでしょうか。良心の叫び声(Ruf)であるというのです。良心の叫び声とは、頽落せる自己から本来の自己に帰ることを求める内なる呼び声です。ハイデッガーは良心の叫び声について、次のように言っています。「この呼び声は疑いもなく、世界のうちでわたしとともにあるところの他人からくるものではない。良心の呼び声は、わたしのうちから、しかもわたしを超えたところから現れるのである」。
 ハイデッガーはまた、現存在の存在の意味を時間性(Zeitlichkeit)において把握しています。現存在のあり方は、投げかけるという面から見れば「自己に先だってある」のであり、投げ出されているとういう面から見れば「すでになかにある」のであり、関心をもって環境に気を配り、他人に気を使っているという面から見れば、存在者の「かたわらにある」のです。これらの三つの契機を時間性に照らしてみると、それぞれ未来(Zukunft)、既存(過去)(Gewesenheit)、現在(Gegenwart)に相当するのです。
 人間は世界から離れて孤立した自己に向かうのではありません。過去を引き受けながら、現在の頽落から自己を救済するために、未来の可能性に向かって、良心の叫び声に耳を傾けながら進んでゆくのです。これがハイデッガーの時間性から見た人間観です。

 統一思想から見たハイデッガーの人間観
 ハイデッガーは、人間は世界内存在であり、本来の自己を喪失した「ひと」であり、その特性は不安であるといいます。しかし、なぜ人間は本来の自己を喪失したのでしょうか、また本来の自己はどのようなものかが、明らかにされていないのです。本来の自己に向かって、自らを投げるというのですが、その目標とすべき人間像が不明であれば、間違いなく本来の自己に向かっているのか確かめようがないのです。彼は良心の叫び声が人間に本来の自己に帰るように導いているといいます。しかし、これは問題の解決とはいえません。人間は良心に従って生きなければならないということは常識に属することであり、その常識的なことを、哲学的に表現したにすぎないからです。神様を認めない世界では、結局、ニーチェのように本能的な生命に従って生きるか、ハイデッガーのように良心に従って生きるか、そのいずれかを取るしかないのです。
 統一思想から見るとき、良心に従って生きるだけでは不十分です。人間は本心に従って生きなければなりません。良心は各自が善であると考えるものを指向しているため、人によって良心の基準も異なるのです。したがって良心に従って生きるとき、本来の自己に向かっているかどうかの保証はないのです。神様を基準とする本心に従って生きるとき、人間は初めて本来の人間に向かってゆけるのです。
 ハイデッガーは、人間は漠然と未来を待つのではなく、真剣に未来に向かって決意するとき、不安から救われるといっています。しかし、本来の自己の姿が明らかになっていないのに、どうして不安から救われることができるのでしょうか。統一思想から見れば、不安の原因は神様の愛から離れたことにあります。したがって、人間は神様に立ち返り、神様の心情を体恤して、心情的存在となるとき、初めて不安から解放され、平安と喜びにあふれるようになるのです。

 彼は、死をも決意された死として受け入れるとき、死への不安が乗り越えられるといいます。しかし、それでもって死への不安を解決したとはいえません。統一思想から見れば、人間は霊人体と肉身の統一体、すなわち性相と形状の統一体であり、肉身を土台にして霊人体が成熟するようになっています。人間が地上の肉身生活を通じて創造目的を完成すれば、成熟した霊人体は肉身の死後、霊界で永遠に生きます。したがって、人間は「死への存在」ではなく「永生への存在」なのです。それゆえ肉身の死は昆虫の脱皮に相当する現象にすぎません。死の不安は、死の意義に対する無知からくるものであり、また自己の未完成を、意識的にせよ、無意識的にせよ、感じとるところからくるものです。
 ハイデッガーはさらに、人間(現存在)は時間性をもつといいます。すなわち人間は過去を引き受けて、現在の頽落から離れ、未来に向かって投企しなければならないといいますが、その理由が明らかにされていません。統一原理によれば、人間はアダムとエバの堕落以来、血統的に原罪を受け継いだだけではなく、先祖の犯した遺伝罪や、人類や民族が共通に責任を持たなければならない連帯罪を背負っています。したがって人間は、そのような罪を清算するための条件(蕩減条件)を立てながら、本来の自己と本来の世界を復帰する課業を使命として与えられているのです。
 この課業は人間一代において成就されるものではありません。子孫代々バトンを継承しながら成されるものです。すなわち、人間は過去の先祖たちが果たしえないで残してきた蕩減条件を引き受けながら、現在の私においても清算し、さらに未来の子孫に対して復帰の基盤を引き継がせるのです。これが統一思想から見た、人間が時間性をもつことの真の意味です。