第三章 本性論 : 五 統一思想から見た実存主義の人間観 : (二) ニーチェ

 ニーチェの人間観
 キルケゴールは、人間は神様の前に立つとき本来的自己になると言いましたが、ニーチェ(Friedrich Nietsched,1844-1900)はその反対に、神様への信仰から解放されるとき、人間は初めて本来的自己になると主張したのです。
 ニーチェは、当時のヨーロッパ社会における人間の水平化、矮小化を嘆き、その原因をキリスト教の人間観にあると見たのです。キリスト教は、生を否定して禁欲主義を説き、人間の価値を彼岸に置きました。また万人は神様の前に平等であると説きました。その結果、人間ははつらつとした生命力を失わせ、強い人間を引きずり下ろして、人間を平均化したと見たのです。
 そこでニーチェは「神様は死んだ」(God ist tot)と宣言し、キリスト教を攻撃したのです。キリスト教の道徳は、神様や霊魂という概念でもって生と肉体を抑圧し、生の現実を否定的に見ることによって、強い人間への道を閉ざし、弱者や苦しむ者に肩入れをしていると考え、彼はそのようなキリスト教の道徳を奴隷道徳と呼んだのです。そしてキリスト教的な愛の生活、精神的な生活を退けて、本能による生活、生命が欲求するままの生活を全面的に肯定したのです。

 生命とは、成長しようとする力であり、発展しようとする力です。彼は「およそ生あるものの見いだされるところに、わたしは力への意志をも見いだした。そして服従して仕えるものの意志のなかにも、わたしは主人であろうとする意志を見いだしたのだ」といって、人間のあらゆる行為の根底には、より強大になろうとする「権力への意志」(Wille zur Macht)が存在していると説いたのです。そして、キリスト教の奴隷道徳に代わるところの、権力の大きさを価値基準とする君主道徳(英雄道徳)を打ち立てたのです。彼は、善と悪の基準について次のように言っています。

 善とは何か? ……権力の感情を、権力への意志を、権力自身を人間において高めるすべてのもの。
 悪とは何か? ……弱さから由来するすべてのもの。
 幸福とは何か? ……権力が成長するということの、抵抗が超克されるといことの感情。
 ……
 弱者や出来そこないどもは徹底的に没落すべきである。これすなわち、私たちの人間愛の第一命題。そしてそのうえ彼らの徹底的没落に助力してやるべきである。なんらかの背徳にもまして有害なものは何か −−すべての出来そこないや弱者どもへの同情を実行すること −−キリスト教。

 君主道徳による理想的人間像が「超人」(Ubermensche)です。超人とは、人間の可能性を極限にまで実現した存在であり、権力の意志の体現者なのです。超人の可能性は、あらゆる生の苦痛に耐え、生を絶対的に肯定するところにあるのです。生を絶対的に肯定するとは「一切は行き、一切は帰る。存在の車輪は永遠にまわっている」という永劫回帰の思想、すなわち世界は目的もなく意味もない永遠の繰り返しであるという思想に耐えることなのです。それはいかなる運命にも耐えることを意味します。そしてそれは「必然なものを美としてみること」、「運命を愛すること」によって可能であるといい、「運命の愛」(amor fati)を説いたのです。

 統一思想から見たニーチェの人間観
 キリスト教の極度な来世意主義によって、人間は現実の生活を尊重することがえきなくなり弱体化したとニーチェは考えましたが、人間の本性を回復しようと苦悩したニーチェの真摯なる努力は、それなりに高く評価されるべきと思います。ニーチェの主張は、キリスト教に対する一つの讒訴であり、警告でした。すなわちキリスト教がその本来の精神から離れているとニーチェは考えたのです。ニーチェが見たキリスト教の神様は、高い所に座して、良いことをした者には死後の復活を約束し、悪いことをした者には罰を与えるというように、審判の神様であり、彼岸的な神様でした。しかしニーチェが非難したのはイエス様の教えそのものではなくて、イエス様の教えを悲願主義に変えてしまったパウロであったのです。
 統一思想から見れば、神様は現世を否定して高い所にだけいます彼岸的な神様ではありません。神様の創造目的は死後の世界における天国ではなく、地上天国の実現にあります。そして地上に天国が建設されるとき、地上で天国生活を体験した人々が、死後、天上天国を造るようになっているのです。イエス様の使命も本来は地上天国の実現であったのです。したがって、イエス様の教えをパウロが彼岸主義に変質させたというニーチェの主張には一理あるといえます。しかし、ユダヤ民族の不信仰によってイエス様が十字架にかかることにより、救いが霊的なものとなり、現世においては、人間は絶えず開くの主体であるサタンの侵入を受けざるをえなくなったのも事実です。だからパウロを非難するあまり、キリスト教そのものを否定し、神様の死まで宣言することは誤りなのです。

 次に、すべての生あるものには権力への意志があるというニーチェの主張について検討します。創世記に書かれているように、神様は人間に「すべてのものを治めよ」という祝福を与えられました。すなわち神様は人間に主管性を与えられたのです。したがって支配欲(主管欲)それ自体は神様より与えられた人間の本性の一つです。この支配(主管)の位置は、統一思想から見れば、人間の本性の一つである「主体格位」に相当するものです。しかるに主体格位のところで説明したように、本来の主管は愛による主管なのであって、力による主管ではありません。すなわち主管性を発揮する前提条件として、人間は神様の心情を中心として人格を完成し、家庭生活において愛の倫理を実践しなければならないのです。そのような基盤を無視して、ただ「権力への意志」だけを全面に出してしまったのです。そこにニーチェのまた一つの誤りがあったのです。
 ニーチェは、キリスト教の道徳は強者を否定する弱者の道徳であるといいましたが、決してそうではありません。人間が真の主管性を発揮するようになるために、キリスト教は真の愛を教えようとしたのです。そのために人間は、肉体の本能的欲望を通じて作用してくる悪の力と闘わなければならないのです。肉体の本能的欲望それ自体は悪ではありませんが、堕落人間は霊人体の心霊基準が未完成の状態にあるために、そのような人間が肉体の本能的欲望に従って生きると、悪(サタン)の力に支配されてしまうのです。霊人体の心霊基準が高まり、生心が肉心を主管するようになるとき、初めて肉体の営みは善なるものとなるのです。
 ところがニーチェは、精神、愛、理性を無視し、肉体、本能、生命を重視せよと主張したのです。すなわち人間の霊人体を無視してしまったのです。人間において霊人体を無視した場合、何が残るのでしょうか。動物的な肉身だけが残ります。すなわちニーチェは人間を動物の格位にまで引き下ろすという結果を招いたのでした。したがって、人間に強大になれということは、それは猛獣になれということでしかありません。それは神様が創造しようとされた真なる人間の姿ではありません。人間を本来の姿に導こうという彼の努力は高く評価されなければなりませんが、その方案が全く間違っていたのです。人間は「性相と形状の統一体」であり、性相が主体、形状が対象であるのに、ニーチェは人間の形状面のみを重視し、性相的な面を無視したのでした。しかしキリスト教信者たちが、イエス様が地上天国を実現しようとして来られたことを知らないで、ややもすると、地上の生活を軽視する傾向があることに対してニーチェが警告を発した点は、高く評価されてもいいと思います。