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第三章 本性論 : 三 格位的存在 : (二) 主体格位と対象 |
主体格位は、対象を主管する位置です。本来、人間は成長して完成すれば、万物に対して主体の位置、すなわち万物を主管する位置に立つようになります。ところで、ここでいう主体格位は、人間対人間の関係における主体の位置のことをいいます。すでに述べられているように、人間生活において主体の例には次のようなものがあります。家庭において父母は子女に対して主体です。学校では先生は生徒に対して主体です。会社では上司は部下に対して主体です。国家では政府は国民に対して主体です。また全体は個人に対して主体です。主体が対象を主管するに際して、一定の心的態度が要求されますが、それが主体意識です。
第一に、主体は対象に対して絶えず関心をもたなくてはなりません。今日、人間の疎外が社会的に深刻な問題として提起されていますが、それは主体の位置にいる人たちが、末端の対象に関心をもたないというところに起因しているのです。対象に関心をもたないということは、主体が対象に責任をもたないことを意味します。そうすれば対象は主体に不信を抱き、主体に従わなくなるのです。したがって主体には、主管する対象に忘却地帯があってはならないのです。
第二に、主体は対象を愛さなくてはなりません。一般的には、上司が部下に命令したり、対象を支配するということが、主体意識のように考えられやすいのですが、本当はそうではありません。真の主管とは対象を能動的に愛するということです。愛は幸福と理想、喜びと生命の源泉であるために、主体が対象を愛するとき、対象は主体に忠誠を尽くし、服従するようになります。したがって、神様が対象である人間を愛されるように、主体は対象を愛さなくてはならないのです。
第三に、主体は適切な権威をもたなくてはなりません。主体が愛をもって部下を主管(統率)するとき、一定の権威なしに同情ばかりしたら、部下には、頼もしい上司というイメージが薄れると同時に、緊張感がなくなり、働こうとする意欲が低下します。したがって主体は適切な権威をもちながら対象を愛することが必要なのです。愛には、春のように温かい愛もありますが、冬の冷たさのような厳格な愛も必要なのです。このような権威を備えた厳格な愛は、対象の主体に対する信頼度と所属感を高め、上司への服従心と仕事に対する意欲を高めるのです。ここに「権威を備えた厳格な哀」とは、「愛を内包した権威」でもあります。
このように、主体には一定の権威が必要ではありますが、過度の権威意識はかえって良くないのです。そのような権威には愛は宿ることはできないからです。過度に強く権威が働くと、部下は萎縮して創造性を発揮できなくなります。上司が部下をしかっても、部下が有り難さを感じて、その叱責に従順になるような権威が真の権威であり、それがまさに愛を内包した権威なのです。
神様においてもそうです。神様は愛の神様でありますが、同時に権威の神様でもあられるのです。例えば神様は、アブラハムが鳩と羊と雌牛の献祭に失敗したとき、アブラハムに息子イサクを生けにえとして捧げるように命令されました。そしてアブラハムがその命令に従順に従ってイサクを捧げようとしたとき、神様は「あなたが神様を恐れる者であることをわたしは今知った」(創世記22/12)といわれたのです。これは「今まで、あなたは私が恐ろしい権威の神様であることを知らないでいたので、それを悟らせるために、あなたの子供をいけにえとして捧げるようにしたのだ」という意味が含まれているのです。そのように神様は、人間が神様を愛の神様と安易に考えたり、みだらに対することを決して願われないのであり、かえって恐ろしく思うことを願われる場合があるのです。神様は権威の神様であられるからです。
最後に、万物に対する人間の主体格位について説明されています。すでに述べられているように、愛は心情を基盤としているために、人間が完成して神様の心情を相続すれば、心情を基盤として神様の創造性を発揮し、万物を主管するようになるのです。すなわち神様の愛をもって万物を主管するようになるのです。そのとき、人間は真の意味で、万物に対する主体格位に立つようになるのです。
ところでマルクス主義は、生産手段を国有化し、計画経済を行うようになれば、「人間は自然に対する真の意識的な主人になる」と言いました。計画経済を実施することによって、人間は万物主管の主体格位に立つようになると見たのです。愛によってではなく、経済の改革によって人間が万物主管の格位に立つようになるというのです。しかし過去の数十年間、ソ連や中国において、経済政策が失敗し、生産性の停滞などによって経済が破綻したのは、共産主義が万物主管に完全に失敗したということなのです。それは、マルクス主義の物質主義的人間観の限界を現すものであり、物質主義的な人間は万物に対して真の主体格位に立てない事実を示しているのです。