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第三章 本性論 : 三 格位的存在 : (一) 対象格位と主体 |
対象格位は、主体の主管を受ける立場であると同時に、主体に喜びを返すことにその意義があります。人間は、神様の喜びの対象として造られました。したがって、神様に対して対象格位にある人間の生活の第一次的な意義は、神様を喜ばせるところにあります。
そのように人間は、まず神様に対して対象の位置に立っているために、神様を代身する位置に対しても対象格位に立つようになります。神様を代身する位置とは、例えば次のようなものがあります。すなわち国民に対する大統領や国王、子女に対する父母、生徒に対する先生、部下に対する上司、そして個人に対する全体などです。言い換えれば人間が神様の対象であるように、国民は大統領や国王の対象であり、子供は父母の対象であり、生徒は先生の対象であり、部下は上司の対象であり、個人は全体の対象なのです。
人間はいろいろな主体と関連を結びながら生きていくのですが、対象格位にある人間は主体の主管を受ける立場にあるために、対象として主体に対する一定の心的態度が要求されます。それが対象意識です。まず神様に対する人間の対象意識は、神様に侍る心、すなわち侍奉心と忠誠心です。国家に対する国民の対象意識は、忠誠心です。子女の父母に対する対象意識は、孝誠心(孝行心)です。先生に対する生徒の対象意識は、尊敬心または服従心です。上司に対する部下の対象意識は、服従心です。全体に対する個人の対象意識は、奉仕の心です。そしておのおの主体に対する対象の共通した対象意識は、温柔と謙遜、そしてために生きようとする心です。
ところで堕落世界において、歴史上、多くの独裁者が現れて、大衆の対象意識を利用しながら、あたかも真成る主体であるかのように振る舞って、国民の尊敬や支持を受けてきました。例えば、ヒトラー、スターリン、毛沢東、チャウシェスクなどがその代表的な人物です。しかし、偽りの主体は、たとえ一時的に大衆から歓迎されたとしても、結局は大衆の支持を失わざるをえなくなるのです。それは、歴史が証明する事実です。
人間は、神様の子女として創造されたため、神様に侍り、忠誠を尽くし、神様を喜ばせようとする対象意識を、意識的、無意識的に心の奥深くにもっています。このような対象意識は、神様のみ旨のためなら生命までも捧げようとする心さえ誘発するものです。宗教人たちの殉教精神が、まさにその例です。偉大な指導者に従う者の中には、その指導者のためには生命までも喜んで捧げる場合がしばしばありますが、そのような例は、真の主体(神様の代身の立場)に対する対象意識が極端に現れた例なのです。ところが一般大衆には、誰が真の主体なのか分からない場合が多いです。そこで独裁者のような偽りの主体を真なる主体であると錯覚して、盲目的に従い、その結果、人類社会に害悪を及ぼすのを助長するというようなことがしばしばあったのです。したがって、真の主体を求めるということは難しいことではありますが、とても重要なことなのです。
対象意識は、価値の本質的な要素です。ところが今日の社会では、対象意識がほとんど麻痺し、主体の権威が無視され、ここに主体と対象の秩序が消え、その結果、社会は混乱状態に陥って倫理不在の状態になってしまったのです。したがって、社会倫理の確立のためには、まず確固とした対象意識を立てる意識改革が何よりも必要なのです。