第三章 本性論 : 一 神相的存在 : (一) 性相と形状の統一体

 人間が神様の性相と形状に似るということは、人間が心と体の二重体、すなわち性相と形状の統一体であることを意味します。
 人間の性相と形状には四つの種類があります。まず第一に、人間は宇宙を総合した実体相です。すなわち人間は性相と形状において、それぞれ動物、植物、鉱物の性相と形状の要素をみなもっているのです。第二に、人間は霊人体と肉身の二重的存在です。第三に、人間は心と体が統一を成している心身統一体です。そして、第四に、人間は生心と肉心の二重心の統一体として、二重心的存在なのです。
 ここで人間が本来の姿を失ったという観点から見るとき、第四の生心と肉心の二重心的存在というのが特に重要です。したがってここで扱う「性相と形状の統一体」は、まさに「生心と肉心の統一体」と同じ意味になります。ここで生心と肉心が両者共に心であるにもかかわらず、生心と肉心の関係を性相と形状の関係としたのは、生心は霊人体(性相)の心であり、肉心は肉身(形状)の心であって、生心と肉心の関係は霊人体と肉身の関係と同じであるためなのです。次に生心と肉心の機能について説明されています。

 生心の機能は真美善と愛の生活、すなわち価値生活を追求します。ここで愛は、生命の源泉であると同時に真美善の基礎でもあります。したがって、愛を中心とした真美善の生活が価値の生活なのです。人間の価値生活には自分自身が価値を追求して喜ぶという面もありますが、価値を実現して他人を喜ばせるというのがより本質的な面です。したがって価値生活とは「ために生きる」愛の生活、すなわち家庭のため、民族のため、国家のため、人類のために生きる愛の生活なのです。そして究極的には神様のために生きるということなのです。一方、衣食住と性の生活、つまり物質的な生活を追及するのが肉心の機能です。物質生活とは個人を中心とした生活です。
 生心と肉心は本来、主体と対象の関係にあります。霊人体が主体であり、肉身が対象であるためです。したがって肉心が生心に従うのが本来の姿なのです。生心と肉心が合性一体化したものが人間の心ですが、生心が主体、肉心が対象の関係にあるときの人間の心を本心といいます。肉心が生心に従うということは、価値を追求して実現する生活を第一義的に、物質を追及する生活を第二義的にするということです。言い換えれば、価値生活が目的であり、衣食住の生活はその目的を実現するための手段なのです。そればかりでなく、肉心が生心に従い、その機能をよく果たせば、霊人体と肉身は互いに共鳴するのです。この状態が人格を完成した状態、すなわち本然の人間の姿なのです。

 ところが人間が堕落したために、生心と肉心の本来の関係を維持することができなくなってしまったのです。そのために衣食住の生活が目的となってしまい、価値生活は衣食住のための手段となり、二次的なものとなってしまったのです。すなわち、人を愛することや真美善の行為が、富を得るとか地位を得るなどの目的のためになされるようになったのです。今日、日常的な人間生活において、価値生活が全くないのではありませんが、多くの場合、価値生活を自己中心的な物質生活のための手段としているのです。それは肉心が主体、生心が対象になったためです。
 このように生心と肉心の本来の関係が逆転してしまったのが人間の実態です。したがって人間の本来の姿を回復するためには、この逆転した関係を元に戻さなければなりません。それが人間が修道生活をしなければならない必然的理由なのです。そのため今日、すべての宗教において、まず自己の闘いに勝利せよと教えたのです。
 例えば孔子は「己れに克て礼に復る」(克己復礼)といい、イエス様は「自分の十字架を背負って私に従ってきなさい」とか、「人はパンだけで生きるものではなく、神様の口から出る一つ一つの言で生きる」と語られたのでした。そして自己との闘いに勝つために人々は断食、徹夜祈祷などの修道生活を行わなければならなかったのです。
 そのように肉心を生心に屈伏させながら、真美善の生活を優先し、衣食住の生活をあとにして生きていくのが生心と肉心の統一です。しかし人間は堕落したために、肉心が生心を抑え自己中心的な衣食住の生活を行うようになったのです。そしてそこから人間のすべての苦痛と不幸が生じたのです。
 本心は生心と肉心が授受作用をして合性一体化したものです。それが神様の性相内の内的四位基台に似た状態です。それゆえ本心の先次的な機能は、生心による愛の生活であり、真美善の価値を追求する生活です。したがって人間はまさに愛的人間(homo amans)なのです。価値の生活とは、真実の生活であり、芸術的生活であり、倫理・道徳的生活です。そして本心の後次的な機能は肉心による衣食住の生活、すなわち物質的生活を追求することです。