第二章 存在論 : 一 個性真理体 : (一) 性相と形状

 すべての被造物は、何よりもまず原相に似た属性として性相と形状の二側面をもっています。性相は機能、性質など見えない無形的な側面であり、形状は質料、置く像、形態などの有形的な側面です。
 まず鉱物においては、性相は物理化学的作用性であり、形状は原子や分子によって構成された物質の構造、形態などです。
 植物には、植物特有の性相と形状があります。植物の性相は生命であり、形状は細胞および細胞によって構成される組織、構造、すなわち植物の形体です。生命は形体の中に潜在する意識であり、目的性と方向性をもっています。そして生命の機能は、植物の形体を制御しつつ成長させていく能力、すなわち自律性です。植物はこのような植物特有の性相と形状をもちながら、同時に鉱物次元の性相的要素と形状的要素を含んでいます。つまり植物は、鉱物質をその中に含んでいるのです。
 動物においては、植物よりもさらに次元の高い動物に特有な性相と形状があります。動物の性相は本能といいます。そして動物の形状とは、感覚器官や神経を含む構造や形態などです。動物もやはり鉱物質をもっているのであって、鉱物次元の性相と形状を含んでいます。さらに植物次元の性相と形状も含んでいます。動物の細胞や組織は、みなこの植物次元で作用しているのです。
 人間は、霊人体と肉身からなる二重的存在です。したがって人間は、動物よりさらに次元の高い、特有の性相と形状もっています。人間に特有な性相とは、霊人体の心である生心であり、特有な形状とは霊人体の体である霊体です。そして人間の肉身においては、性相は肉心であり形状は肉体です。
 人間の肉体の中には鉱物質が含まれています。したがって人間は、鉱物次元の性相と形状をもっています。また人間は、細胞や組織からできており、植物次元の性相と形状をもっています。また動物と同じように、人間は感覚器官や神経を含んだ構造と形態をもっており、動物次元の性相、すなわち本能的な心を肉心といいます。こうして人間の心は本能としての肉心と、霊人体の心である生心から構成されているのです。ここで肉心の機能は衣食住や性の生活を追及し、生心の機能は真美善と愛の価値を追及します。生心と肉心が合性一体化したものが、まさに人間の本然の心(本心)なのです。

 ここで人間の霊人体について説明されています。肉身は万物と同じ要素からできており、一定の期間中にだけ生存します。一方、霊人体は肉身と変わりない姿をしていますが、肉眼では見ることのできない霊的要素からできていて永遠に生存します。肉身が死ぬとき、あたかも古くなった衣類を脱ぎ捨てるように、霊人体は肉身を脱ぎ捨てて、霊界において永遠に生きるのです。霊人体も性相と形状の二性性相になっていますが、霊人体の性相が生心であり、形状が霊体です。霊人体の感性は肉身生活の中で、肉身との相対関係において発達します。
 すなわち霊人体の感性は肉身を土台として成長するのです。したがって人間が地上で神様の愛を実践して他界すれば、霊人体は充満した愛の中で永遠に喜びの生活を営むようになります。逆に地上で悪なる生活を営むならば、死後、悪なる霊界にとどまるようになり、苦しみの生活を送るようになるのです。
 人間は鉱物、植物、動物の性相と形状をみなもっています。そしてその上に、さらに次元の高い性相と形状、すなわち霊人体の性相と形状をもっています。そのように人間は万物の総合実体相または小宇宙であるといいまうs。以上説明したことにより、鉱物、植物、動物、人間と存在者の格位が高まるにつれて、性相と形状の内容が階層的に増大していくことが分かります。これを「存在者における性相と形状の階層構造」といいます。

 ここで留意すべきことは、神様の宇宙創造において、鉱物、植物、動物、人間の順序で創造するとき、新しい次元の特有な性相と形状を前段階の被造物に加えながら創造を継続し、最後に最高の次元の人間の性相と形状を造ったのではないということです。神様は創造に際して、心の中にまず性相と形状の統一体である人間を構想されました。その人間の性相と形状から、次々に一定の要素を捨象し、次元を低めながら、動物、植物、鉱物を構想されたのです。しかし時間と空間内における実際の創造は、その逆の方向に、鉱物から始まって、植物、動物、人間の順序で行われたのです。これを結果的に見るとき、人間の性相と形状は、鉱物、植物、動物のそれぞれの特有な性相と形状が積み重なってきたように見えるのです。人間の性相と形状が階層的構造を成しているということは、次のような重要な事実を暗示しています。
 第一に、人間の性相は階層性をもちながら、同時に連続性をもっているということです。すなわち人間の心は生心によって肉心をコントロールすることができるのです。また人間の心は、生命とも連なっています。通常、心は自律神経をコントロールすることはできませんが、訓練によってそれが可能となることが知られています。例えばヨガの行者は、瞑想によって心臓の鼓動を自由に変化させたり、時には止めることさえできるのです。そして心は、体内の鉱物質の性相とも通じているのです。
 人間の心はまた、体内的にだけでなく対外的にも、他の動物や植物の性相とも通じ合っています。例えば人間の念力によって、物理的手段を用いることなく、動物や植物はもちろん鉱物にまでその影響を及ぼすことができるということも、明らかにされています。動物、植物、鉱物が人間の心に反応するということも知られています。植物の場合、アメリカの嘘発見器の検査官であるクレーブ・バクスターが確認した「バクスター効果」がその一つの例です。そして、鉱物や素粒子も自体内に思考力をもっているのではないかという推測までなされているのです。

 第二に、人間の性相と形状の階層的構造は、生命の問題に関して重要な事実を示唆しています。今日まで、無神論者と有神論者は神様の実在に関して絶えず論争を続けてきました。その度ごとに、有神論者たちは「神様なしに生命が造られることはありません。神様だけが生命を造ることができます」と言って無神論者を制圧してきたのです。いくら自然科学が発達しても、生命の起源に関する限り、自然科学は合理的な論証を提示することはできなかったのです。そして長い間、生命の起源の問題は有神論が成立し得る唯一のよろどころだったのです。ところが今日、その唯一の拠点が無神論によって破壊されているのです。科学者が生命を造りうる段階に至ったと主張するようになったためです。
 では、果たして科学者は生命を造ることができるのでしょうか。今日の生物学者によれば、細胞の染色体に含まれるDNA(デオキシリボ核酸)は、アデニン、グアニン、シトシン、チミンという四種類の塩基を含んでいますが、この四種類の塩基の配列が生命の設計図というべき遺伝情報になっています。この遺伝情報に基づいて生物の構造や機能が決定されているのです。結局、DNAによって生命体が造られているという結論になるのです。そして今日、科学者がDNAを合成しうるという段階にまで至ったのです。したがって唯物論者たちは、生命現象を説明するのに神様の存在は全く必要ないと主張するのです。結局、神様はもとより存在しないというのです。
 ところで科学者がDNAを合成するということは、果たして生命を造ることを意味するのでしょうか。統一思想から見れば、科学者がいくらDNAを合成したとしても、それは生命体の形状面を造ったにすぎません。生命のより根本的な要素は生命体の性相です。したがって科学者が造りえるのは、生命それ自体ではなく、生命を担うところの担荷体にすぎないのです。人間においても、形状である肉身は性相である霊人体を担っているのであって、肉身は父母に由来するのですが、霊人体は神様に由来するのです。同様に、DNAが科学者に由来しうるとしても(すなわち科学者がDNAを造ったとしても)、生命それ自体は神様に由来するのです。
 ラジオと音声について考えてみます。ラジオは放送局から来る電波を捕えて音波に変化させる装置にすぎません。したがって科学者がラジオを造ったとしても、科学者が音声を造ったわけではありません。音声は放送局から電波に乗ってくるものだからです。それと同じように、たとえ科学者がDNAを造ったとしても、それは生命を宿す装置を造ったにすぎないのであって、生命そのものを造ったとはいえないのです。
 宇宙は生命が充満している生命の場なのですが、それは神様の性相に由来するものです。そこで生命を捕える装置さえあれば、生命がそこに現れるのです。その装置にあたるのがDNAという特殊な分子なのです。「性相と形状の階層的構造」から、このような結論が導かれるのです。