第二章 真の御父母様に対して侍る礼法 : 一 真の御父母様は祝福家庭の中心 : 2.真の父母にどれほど侍ってみましたか

 堕落した人間が神様の前に出ていくための方法は時代によって違いました。すなわち、旧約時代には祭物を捧げることによって、新約時代には神様の息子であるイエス様を信じることによって、成約時代には「真の父母」に侍ることによって神様の前に出ていくことができるのです。

 エデンの園でアダムとエバは堕落し、その堕落圏内で生きたので直接的な侍る生活をしたことがありません。侍る内容をもったことがない人たちは、天国に入る資格がないというのです。しかし皆さんは、堕落の血統を受けて生活したとしても、蕩減復帰するために、地上で実体をもって、アダムとエバが侍ることのできなかった神様に侍り、真の父母に侍って生きていくのです。そういう条件が天国に入ることのできる資格になるというのです。それで天国の市民権を得るようになるのです。

 私は愛すべき万物の父母の前に孝子になれず、私を生んでくれた父母の前に孝子になれず、霊界と神様の前に孝子になれませんでしたが、先生を中心として「真の父母」に侍ることによって、孝子の資格を代わりに受けることができます。ですから皆さんは執念をもってついていかなければなりません。

 「真の父母」に遠く接する時は国の王であり、近く接する時は父母です。そのようになっているのです。

 皆さんは先生のためにどれほど祈祷し、どれほど会いたいと思いましたか。本当に会いたく、本当に祈祷し、本当に思慕したならば、この体を見ることだけが問題ではありません。

 御飯を食べる時も「お父様、お先にお召し上がりください」と言わなければなりません。

 皆さんがお父様に侍ることができるその時、その時間が来ればどうしますか。どのように孝行するか、そしてどんな姿で父母様に侍るかを考えなければなりません。

 祈祷室を設けて、先生の写真を掛け、千回、万回敬拝しなさいというのです。昔再臨主に侍るために準備した許浩●(ホヒョウビン)氏の団体では毎日三千回敬拝をしました。皆さんも一度やってみてください。縫い物も布目も一つずつ一つずつ手で縫いました。ミシンでやれば不敬だというのです。そのように精誠を尽くしても不足なのです。

 皆さんが鏡を見ながらこの目がどれほど父母様に会いたくて涙を流し、この口が父母様の解怨成就をどれほど叫び、この手がどれほど父母様の地で血を流して仕事をし、自分の体が砕けるほど父母様が願う土台の上で働いてきたでしょうか。「それができなかったのが恨です」と言える心を感じながらその道を求めていくのが幸福な道であり、その道で天と共に因縁を結ぶのが幸福な人です。そのような人は誰も支配することができません。その人を動かすことができるのは父母だけであり、その人を感動させられる人も父母だけであり、その人を幸福にできる人も父母だけです。そしてその父母を幸福にできる人はその息子以外にいません。父母の希望は父母にあるのではなく、息子にあるのです。

 皆さんが考える、神様に対する侍る生活とはどのようなものですか。神様を一体と考え、父母様を一体と考え、生活すべてのものが一体となって私が生きるならば、「このすべてのものは神様のものであると同時に『真の父母』のものであり、『真の父母』のものは『真の父母』の国のものであり、『真の父母』の国のものになれば私のものだ」。このような観念をもたなければなりません。この宇宙も「真の父母」のものであり、この家も「真の父母」のものであり、国も「真の父母」のものなので、私は「真の父母」の息子だからすべてのものは私のものだという結論が出るのです。

 先生に差し上げようと家でよもぎもちを作り、そのもちが汚れないようにと密封したまま本部まで来て、御覧くださいと言わんばかりに開けてみると、もちが腐って青かびが生えていたこともありました。もちに青かびが生えてうじがわいてもいいというのです。そのもちは食べられなくても億千万金に該当するのです。そうであるほど情が移るのです。

 愛は愚鈍で間抜けなものです。そうではありませんか。本当に愛するなら横で誰が見ていても関係ないというのです。誰かが見ていることを意識する愛は、限界圏内の愛です。誰が見ていようが見ていまいが意識しない、そのような境地の愛がどれほど愚直で愚鈍なのかというのです。ある時は、山奥で掘って採ったききょうを先生の前に持ってきて涙を流すのです。そのようなことは霊界に行けば、彼を解放させることのできるいい材料になるのです。

 皆さんは先生が苦労した話をすれば、それが自分に遭ったことのように感じられ、胸が痛く、悲しく、涙が出るし、悔しく、憤慨する、このように同感できなければなりません。皆さんを同感させるための材料が先生の苦労です。

 先生を知ったと言ってはいけません。先生は原理しか知りません。原理原則に立脚した人だけを知っています。

 先生が約3カ月間だけ毎日のように皆さんの家に行けばどうしますか。「ああ、うんざりだ」と言いながら嫌がるでしょう。そうではないと言う人、手を挙げてください。先生はあれこれと話すことが本当に多いのです。そのようなことをみな知っている先生はあきれてものが言えないではないでしょうか。ですから「あきれてものが言えない」とう言葉が出てくるのです。このように皆さんは自分の威信も知らず、身の振り方も知らずにいるのです。ですからこのようなことを教育しなければならないのです。

 先生が生きている時は先生の歴史を書きませんが、先生が死んだのちには先生の歴史を書くことでしょう。ですから原理に公認されないことをしたならば大変なことになるのです。なぜこのように生きたのかということを裏づける原理的内容があるかどうかが問題です。もしもこれができていなければ今まで成されたことをすべて失うことになるでしょう。ですから責任者は難しい(大変だ)というのです。