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第四章 祝福家庭の伝統と生活礼節 : 十三 祝福家庭の生涯儀礼 : 3.昇華、昇華式 |
今日人間が死んでいくということが何かを知らなかったのです。それは悲しみではありません。次元の低い世界から次元の高い世界に愛の橋を通して移動することだというのです。ですから統一教会は死を昇華します。次元高く昇華するというのです。それは愛でのみ可能です。愛でのみ。
堕落しなかったら人が死ぬことは幸福です。それで統一教会は死を悲しみとして迎える教会になってはいけないと教えるのです。ですから昇華式というのです。
統一教会では死んでお葬式をすることを昇華式といいます。死んだ人にすがって泣くのを見ると、死んだ霊が嘆息するというのです。「このように無知で、私の行く道を綱で引っ張って行けないようにするのだ」と言うのです。そのようなことを知っているので統一教会では昇華式というのです。天に向かって聖なる飛翔をするというのです。愛の力を持って押しあげなければなりません。引っ張るのではなくて押してあげなければなりません。
昇華式という言葉は興進君の時から出てきたでしょう。愛勝日というものの、その愛勝とは何でしょうか。死亡に勝つことです。他の人だったら母親も身もだえし、はいつくばりながら痛哭することですが、母親が涙を流してはいけないのです。三日以内にこの式をしてあげなければなりません。死亡に勝つのだと宣布してあげなければなりません。ですから統一教会では昇華式が行われるのです。死亡を越えて喜びに向かって行くのです。昇華式を経ていく人たちは霊界のすべての峠をひゅうっと越えていくのです。もちろんそうできない者たちは途中で留まりますが……。それを知らなければなりません。昇華式とは興進君から始まったのです。
興進君が蕩減して死亡の塀を、死の塀を壊してしまったのです。それで昇華式と言うのです。死は失望や落胆ではありません。落ちるのではなく跳躍することです。昇華するということです。統一教会の教会員たちは死に対して恐怖をもってはいけません。死はこのような自然の循環の法度によってくるのです。もっと良い世界に移してあげるための手続きなのです。
自分の息子である興進が亡くなっても涙を流しませんでした。霊界に行くことは悲しいことではありません。解放のラッパの音とともに天国の旗を掲げ、足取りも堂々と百戦百勝して天下の錦を飾った旗を掲げて故郷に帰り、民族と人類の歓声をあびて、堂々と入ることのできる環故郷をするのです。悲しいことではありません。統一教会では泣きません。それをなんだかんだと言いますか。昇華式だというのです。
私の義理の母になる方も亡くなりましたが、統一教会は葬式とはいいません。何と言いますか。昇華式。昇華されるのです。横的なこの世で生きて縦的な世界の活動舞台に、無限な世界に行くのです。サタン世界では泣きわめくと悪霊が来ますが、そういう立場は悪霊が訪ねてくることができません。
では、統一教会では葬式を何というのですか。昇華式とは何ですか。変化して一段階上がるというのです。今回おばあさんが亡くなった時も私は泣きませんでした。彼女の行く道を選んであげるのに忙しかったのです。孝子と言うならそれ以上の孝子がどこにいますか。
統一教会は死んだのちの葬式もそのようにはしません。昇華式です。どこに行くと思って生きますか。この世に恐いものがどこにありますか。天下に恐いものがどこにありますか。罪悪の世界、混乱した世界において自主的な中心の形態をもって、天地の度数に合わせて神様の愛圏内の垂直の立場に入るようになりません。なぜ垂直の立場に入るのでしょうか。その立場には影がありません。すべてのものが完成です。その次に、これが回るようになるので、回る環境全体が垂直化されます。男性を中心として女性が一つになれば、その男性と女性を中心としてその環境は全部幸福圏になるのです。