第一章 神様に対して侍る礼法 : 三 真の御父母様が神様に仕える法 : 2.孝子の道

 先生はおなかがすいて疲れて倒れる恨があったとしても、どうすれば神様が心配するその道を私が先立って行くか、背負うことのできる十字架の道があるならばどのようにその道を行くかということを考えました。しかし皆さんは、このような道を行こうと準備してはいけません。今日皆さんは、侍ることによって救われるということを知りながらもずうずうしく眺めています。そんな心でとどまってはいけません。

 先生が何をされるか分からなければ眠れないで、夜中にでも飛んできて尋ねていくことのできる、そんな生活をしなければなりません。それで侍ることによって救われると言いました。先生は神様に対して、いつもそのように生きています。瞬時も気を抜けません。

 皆さんは侍義時代、すなわち侍る生活において正確な中心をもっていかなければなりません。神様に侍るには法度があります。その法度に背く時には、神様はとても怒られる方です。子供を愛する父母が子供の言葉の一言に胸に釘を打たれたり抜かれたりするのと同じように、神様も人間を愛していらっしゃるがゆえに怒りが多い方です。ややもすると間違えて神様から怒りを買うことになります。ですから先生も、いつも先生なりに神様を喜ばせてあげようとします。服をきれいに着た人を見れば気分がとてもいいです。それで先生もそうしなければと思い、洋服を着て出てきました。そうでなければジャンパーを着て出てきたことでしょう。

 皆さんも皆さんを思ってくれる人を訪ねていくでしょう。神様も同じです。その神様を占領できる道は誰よりも神様を思い、神様のために奉仕しようとするその人を中心として神様は訪ねてくるのです。

 先生は神様の前に綿入りのズボンがびしょぬれになるほど祈祷したことが何回あったか知れず、ナイフを持ちおなかにあてて誓ったことが何回あったか知れず、死の峠を越えながら心に堅く決意したことが何千万回あったか分かりません。

 人間において神様を愛するのが第一の戒めですが、愛するのに死ぬほど愛すべきですか、一時的に愛すべきですか。皆さんは神様を死ぬほど愛したいですか、死ぬほど愛したくないですか。雷に打たれて死ぬとしても愛さなければいけません。神様を死ぬほど愛さなければならないというのです。死ぬほど愛さなければならないなら、死ぬ前まではできないことがないというのです。

 皆さんは目が崩れ鼻がふさがるほど泣きながら慕わなければなりません。人が泣きすぎると胸が痛くなります。それほど激烈に慕わなければなりません。「お父様!」と呼ぶのに死刑場に引かれていく息子の立場で父を呼ぶ人もいるでしょう。遠い他国に旅立つ息子の立場で哀絶に父を呼ぶ人もいるのではないでしょうか。それゆえ、神様、お父様を呼ぶ時、そのような基準以上にならなければなりません。

 白頭山の頂上に登ってそこで岩を砕き、畑を耕し、じゃがいもを植え、そのじゃがいもを神様に奉養できますか。それをしなければなりません。その時は牛がいなくて愛する妻を牛の代わりにして畑を耕したなら雷に打たれるでしょうか。打たれないでしょうか。妻を牛の代わりにして畑を耕すという時、神様が、「おい、やめなさい」と言えばやりますか。あなたの心を尽くし、思いを尽くし、精誠を尽くしなさいと言いました。やりますか。しなければなりません。

 皆さんは現在どこにいますか。昼も夜もいつも、どこに行っても先生と共に歩調を合わせて生きていますか。今まで先生はこの頭をもって生きてきたのではありません。神様と共に神様が行く方向に歩調を合わせながらすべて、生命をすべて投入して生きてきたのです。

 先生は一日一日の生活において、重要な問題は必ず神様に祈って解決します。いいかげんにはしないというのです。

 この道を行くためには愚鈍でなければなりません。忠臣たちは、ある意味で間抜けな人たちです。少しは愚鈍に見えます。熊のような性格があるというのです。自分の腕が切られても「ああ、ここがあまり切れていない。もっと切りなさい」という愚鈍な面がなければなりません。熊や猪は、銃に撃たれて足手まといになる部分があれば、その部分をかみ切って逃げます。死はあとで考え、いったん足手まといになるものを切ってしまいます。そのような愚鈍な何かがなければなりません。忠臣烈士は愚鈍でなければなりません。少しは愚かでなければならないというのです。

 神様を解放しようというのです。真なる神様の権威を中心として、理想郷で人類始祖と共に無限の幸福を褒めたたえつつ生きることのできる侍る生活の中で、侍られながら過ごされるべき神様がこのように悲惨になったという事実を知ったので、その神様を私たちの手で解放しようというのです。これは驚くべき提案です。そのような内容が宗教界から出てきたという事実は、神様において極めてうれしい知らせです。福音中の福音です。このように見る時、仏教を立てられた方も神様であり、儒教を立てられた方も神様であり、イスラム教を立てられたの方も神様であり、キリスト教も立てられた方も神様なので、すべての宗教が両手を挙げて歓迎しなければなりません。

 先生は今までみ旨のために苦労してきたし、今も寝ても覚めてもその道を歩んでいます。先生の近くで侍ったことのない人は先生のことをよく知りません。先生は寝ていても目が覚めさえすればうつ伏せになって祈祷します。なぜそのような生活をしているのでしょうか。この夜にも世界に散らばっている愛する子女たちが私を頼り、神様のために祈祷しているからです。私が精誠を一緒にできなくてもそれに劣らず拍子を合わせてあげなければならないのではないでしょうか。先生が寝る時は分からないので神様も許してくださるのです。その時間には、子供が疲れて寝たら父が見守るのと同じように神様が代わりに祈祷してくださるのです。

 レバレンド・ムーンはどんな人ですか。一つの才能しかない人です。愚鈍にひたすらまっすぐにのみ行く人だというのです。ああ、口をちょっとつぐんで適当に回っていけばいいのに、どうしてよく悪口を言われるような作用をしたりするのでしょうか。それは多くの人々の反対を受けてこそ一つの峠を越えていくからです。しかし皆さんは帰ることを考えているでしょう。それではなぜこの世のすべてのものを切ってしまって行かなければならないのでしょうか。お母さん、お父さんの愛に引かれればまっすぐに行くことができないからです。神様は今まで正しい道を求めてこられたので、正しくまっすぐに行かなければならないというのです。

 皆さんは、み旨の道を歩んできながらどれほど深刻でしたか。先生は一生の間そのような道を歩んできたのです。妻子も知りません。神のみぞ知るです。孤独単身、寂しい男が行く道を誰も知らない中、神様が協助して驚くべき実績をもって、今日この社会に問題を提示し、また疲弊していくこの民主主義の思想圏内に新しい波及を提示する問題の人物になりました。このようになったのは私が立派だからではなく、神様が共にされたからです。

 神様がそのように寂しい方であり、神様がそのように孤独な方なので、私が死ぬ日までそのみ旨とその願いを一つでも解いてあげ、その分野の一つの土台でも拡大させて神様のために生きられる人を集めるのが使命だと思ってきたのです。悪口を言われても、むち打たれても復讐せず、愛によって耐えてきたのは、神様の子供として生まれたからで、その方のみ旨を立てるべき責任があるからです。ですからこの伝統をどのように立てるかを考えながらよろよろになって、あるいは腰を曲げ腹ばいになりながらこれだけは残さねばならないと言って、闘ってきたのです。

 人間は自分が立ったと自慢してはいけません。自分が立てておいたとしても倒れるというのです。しかし人間が立ててくれなくても天が立ててくれれば必ずできるというのです。

 「真の父母」がしているのは何ですか。すべてのことを勝利して、神様の心の深いところまで訪ね入り、恨を解怨し、その勝利圏を地上に成すことです。そのような「真の父母」が出現したということを皆さんは感謝しなければなりません。