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第四章 祝福家庭の伝統と生活礼節 : 六 子女を信仰的に育てる : 1.懐に抱いて天法を教えなければ |
皆さんは、皆さんの息子、娘に何を語るつもりですか。皆さんは公的な人生、それも模範的な公的な人生を生きることによって皆さんの息子、娘に見せてあげ、その伝統を受け継ぐことができるように教育しなければなりません。人は本来、自分の父母に教育されるようになっています。学校に行ってのみ教育を受けるのではありません。特に伝統を受け継ぐ教育は、学校では学ぶことができません。
子供はすべての価値を父母を通して探します。家庭で育っている子女は誰に似たのでしょうか。父母に似ました。その子女たちは誰についていくのでしょうか。父母についていくのです。このようになっているのです。
間違いがある時に子女を生むと、その間違いは遺伝します。
家法を準備しなければなりません。子供たちの教育基準など、家庭の規範をつくらなければなりません。しっかり育てられずに子供の追及を受けても何も言えません。
子女を教育するためには、父母がまず実践しなければなりません。父母が見本になってみ旨の前に忠誠を尽くさなければなりません。そうして父母が何を言っても、子女たちが一言半句も口答えせずに敬意できる立場に立たなければなりません。そうでなければ子女たちがついていかないというのです。
子女たちが、自分が知っているみ旨と原理を中心としてみる時、教会生活において父母が本部から指示している原則を等閑視してその指示に従う生活をしていないのに、子女たちだけに原理原則どおりの生活をしろと言えば、鼻で笑うというのです。
父母はどんなことをしても息子、娘が統一教会の正道を行くようにしなければなりません。それから自分自身も正道を行かなければなりません。自分がまず行ってから子供に教えなければならないのです。子供を教育するために、自分がまずそのようにしなければなりません。その次に子供を教育しなければならないのであって、自分はせずに教育しようとするのは天道に外れるのです。先生が皆さんに話すすべてのことは、先生がまず実践して勝利の基盤を築いたあとで教えているのです。信じられないなら祈祷してみてください。うそなのか、事実なのか、祈祷してみなさいというのです。
祈祷する時にも、私がこのようにするので私の子供もこうするようにしてほしいと祈祷しなければなりません。自分がまず標準になったのちにこそ子供をそのような位置に立てることができます。自分がまずそのような位置に立つと、神様はその子供も同じ方向に導いていくのです。ですから私たちが、私たちを中心としてその方向をもとがえすことができなければ、霊界に行って責任追及を受けるようになるのです。
子女たちを教育する時、お前たちもお母さん、お父さんのようにならなければならないと教育できなければなりません。
子供は父母の心情を学ぶのです。
自分の子供を教える時は「立派な人になれ」と言うだけでなく、「立派な人になるためには、このような道を経て何かになれ!」と言わなければなりません。父親は父親としての責任を果たし、兄は兄としての責任を果たさなければなりません。姉は姉としての責任を果たさなければなりません。別の言葉で言えば真の男性、真の女性の道を行く因縁を選んでいく方法を知って、法度に外れない皆さんになってこそ順理的な路程を経て、一つの国の民になることのできる道が生じるのではありませんか。
「お父さん」という言葉は、恐い言葉です。「真」でなければ子供に食べさせてあげることができません。子供に血の功績と善なるものを食べさせなければなりません。間違ったものを食べようとする時は涙を流しながら指導してあげなければならないし、福を祈ってあげなければならないのが父母です。ゆえに父母は子供の世話にならないのです。
これから皆さんは父母として子供を抱いて天法についていかなければなりません。皆さんの生活がどんなにつらく、どんなに困難にもまれて生きているとしても、子供には涙を見せてはいけません。絶対にいけません。
子供を教育するとき、どのようにしたらみ旨のとおりに使命を尽くす人として教育できるのかを考え、乳飲み子にお乳をあげるときもこのように考えながらあげなければなりません。
皆さんが「あの家門は良い家門だ」と言うことのできる基準になっているとしても、その家の子供たちは何にでも注意しなければなりません。立派な家門に育った息子たちは何にでも注意しなければならないというのです。一歩踏み出すにも注意しなければならず、一言話すにも注意しなければならず、行動をするにも注意しなければなりません。礼法が複雑なのです。威厳のある家柄には子供を教育することのできる資料がたくさんあります。目上の人に対する時、兄弟に対する時、父母に対する時、どのようにしろと、育っていく子供たちを集めて教えるのです。