第一章 神様に対して侍る礼法 : 三 真の御父母様が神様に仕える法 : 1.至誠感天

 心を尽くし、思いを尽くして、精誠を尽くせという言葉は何を意味しているのでしょうか。それは生命を捧げなさいということです。それ以上、何がありますか。心を尽くせというのは生命を差し出しなさいという言葉です。至誠なら感天という言葉があるでしょう。至誠の限界点、私の心の果てがどこでしょうか。生命を懸けて精誠を尽くせというのです。首を差し出し、死ぬ覚悟で精誠を尽くす人は、神様が知らないと言えないのです。

 生命を差し出すにも無理やりするのではなく、狂うように喜んで差し出せというのです。どうせ生命を差し出すのに泣きながら差し出すことを神様は願われるでしょうか。でなければ喜んで狂うほど、死んでもいいと踊りながら差し出すのを好まれるでしょうか。どちらでしょうか。

 先生が床に伏して祈祷する時は涙が乾きませんでした。ここ(膝)にたこができました。「精誠を尽くした塔は倒れない」という言葉があるではないですか。神様のために精誠を尽くさなければなりません。神様が慕わしくて狂うほど胸が張り裂けそうな境地にまで入らなければなりません。神様がおられるところが地上ならば一日に千回行ったり来たりしたい気持ちがありますが、そのような地上ではないので、仕方なく先生を送ったのです。 そのような何かがあるので、皆さんが先生を愛さずにはいられないようになっているのです。どうしてわけもなくそんなに情が移りますか。涙を流し祈祷する時、真冬に綿入りのズボンを涙でびしょぬれにしたことがありました。どれほど気が遠くなりそうだったか考えてみてください。ナイフを立てておいて談判祈祷したのは、一度や二度ではありませんでした。

 皆さん、ここにダイヤモンド鉱があるとしましょう。自分だけが知っている、そんなところがあればどうなるでしょうか。それのために自分の家庭も売らなければならない場合が起こるでしょう。妻を売って多くの家庭を救うならば罪ではありません。自分の子供を売って国の多くの息子、娘を救うならば、それも罪ではありません。しかし自分の欲心のために売ってはいけません。 その鉱山が、国と民族を生かすことのできる道であり、世界万邦の人間たちが生きることのできる道だという時は、自分の妻と子供を売ったとしても歴史の罪になるのではありません。国を生かすために、世界を生かすために、妻や子供を売るのはいけないことのようですが、かえって世界が褒めたたえることのできる宝の根源が宿ることができるのです。

 御飯を食べても水を飲んでも、座っても立っても、誰に対しても、父母の前に、天の前にすべての心情を見せることができれば満点です。知識や学識があるからできるのではありません。神様の前に「私、誰々博士です」と言って生きますか。それは必要ありません。ですから神様の愛を私がどのように導くことができますか。ただ一つの道は「至誠なら感天」、これ以外にありません。

 先生の一生のモットーは「神様の代弁人」でした。今日、皆さんは天的な代弁人になってくれることをお願いします。そして神様の代弁者になり、神様の代わりの存在になり、さらには神様の代死者になってくれることを願います。

 とてつもない歴史的終末時代に、誰も信任できない孤独なところにおられる神様の前に私たちが信任の対象になれるならば、それ以上願うことがありますか。死んでもいいというのです。私の肉身が水となって流れていったとしても何の恨があるでしょうか。粉となり飛んでいったとしても何の恨があるかというのです。この世には、豚のように死んでいく無価値な人生がいくらでもあるのです。死んだ者は犬もくわないのです。

 不平を言ってはいけません。不満を抱いてはいけません。自分を考えてはいけません。神様を思いながら「私が不平を言えば神様がどんなに痛いだろうか。その方の事情を私が知り、その方の伝統を相続することのできる一瞬が私の前に訪れたらそれを引き継いで、その方についていきながらその方を慰労しようという心をもつのです。そうしながら涙を流すその場に天が共におられるのです。間違いありません。神様のために泣き、御父母様のために泣かなければなりません。これが統一教会の祭壇であり、統一教会の侍る生活だということを皆さんは知らなければなりません。

 神様の愛と共に生きると言いましたが、さて皆さんの生活目標はどうでなければならないでしょうか。愛の心情をもって侍る生活をしなければなりません。そのような心でハンカチに向かって敬礼しても偶像崇拝ではありません。愛の心情をもって頭を下げるのに何がそれを支配できるでしょうか。自分の栄光を超越して心情で敬礼するならば、サタンがこれ以上そうするなと言うのです。天宙の心情を通じていくなら偶像がないのです。