第一章 神様に対して侍る礼法 : 二 侍る心構えと態度 : 2.法度に背けば怒られる

 侍義というのは生活化天国を言います。それで侍義をもって出てきました。復帰歴史は何かと言えば、神様の創造理想を再現するのです。

 神様に侍るには法度があります。その法度に背く時には神様は怒られるのです。

 皆さんは生活の中で法度を守ることができなければなりません。天が要求する天国の法度を守り、また天国の法度を守ることができると同時に、天国生活をすることができなければなりません。そして天国生活をすることができると同時に、天国の愛によって一つにならなければなりません。

 神様が喜ばれ、悲しまれることをいつも鑑別しながら生きる人は、悪い人になろうとしてもなれないし、天の法度に背こうとしても背くことができません。そのような男は、いくら美人が誘惑しても堕落しません。そこに同化されないというのです。

 今日、家庭を脱皮する不幸な青年男女が多い原因は、どこにあるのでしょうか。天倫の法度に一致した愛が喪失されたからです。それで家庭を中心に、神様にその家庭にお座りになっていただくことのできる天地父母が顕現しなければならないのです。

 天理は順序を正しく守るところで成立します。ですから主体と対象の関係では天は絶対的な主体の立場に立たなければなりません。その主体を無視する人は対象になれません。絶対的な主体の前に絶対的な対象になろうとするので絶対的に一つです。ですから見て、聞いて、感じるすべてのことは、家庭に入り愛することまでも全部対象と主体の立場に立って、天のためにするのです。一切がそうなのです。そのような家庭は滅びません。

 最後に残るものとは何でしょうか。神様プラス人間、神人、神人の生の道、神人生活観です。人生観も同じように神人人生観、神人世界観、それが漠然と神様に対し人が知ることのできる程度のところではなく、人が永遠に落ちようにも落ち得ないところです。なぜですか。神様と人は本来落ちることができないところから落ちたので、落ちることができなかったところより以上のところに到達しなければなりません。そのような立場で神人が一つになった生活的な舞台、世界的な舞台を要求して出ていかなければなりません。

 勝利的な主管権を立てるために、神様と共に生きなければなりません。ですから皆さんは絶対的な信念をもって侍る生活を中心として、立体的な立場で生活していってこそ勝利的基台を成すことができるのです。復帰の道がそのようになっています。

 主体のための対象の立場には、不平があり得ません。不平は妄動であり破綻です。ですから信仰の道は不平を許さないのです。感謝のみでなければなりません。皆さんはそれを知らなければなりません。天はいつも主体としておられるので主体と共に相関した運命をもって、それを離脱する生活の法度、生活の形態はあり得ません。