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第三章 礼拝と教会生活礼節 : 十 他人との人間関係 : 2.他人との人間関係 |
今日、人間たちは人に対してとても無関心です。横的関係において、横的な因縁を中心として互いに尊重することが少ないのです。老若男女を問わず、人に対してみな面倒に思っています。人が面倒に思うようになれば道義の道を行く人になることができません。
神様と一致した人になって万物世界、またはこの世界に、神様の愛に代わって一人で、全体に対して情緒的な基準で横的関係を広げ結んでいくのが、信仰者たちがしなければならない生活だと見るのです。生活でこれが結ばれなければなりません。生活でこれを成さなければならないのです。そうするには、皆さんがそのような神様の心情に代わって対人関係を結ばなければならないのです。
人と人が会うところは……。ビリヤードをすれば玉同士が当たってあちこちに転がるでしょう。これがおもしろさです。おもしろさ。人と人の出会いもそのような作用をするのです。それがぶつかれば引っ張って一つになり押し出す、そんな気分になるのです。皆さんがサッカーボールをけっても、そのボールが上がったり落ちたり、変化が多いほうがいいでしょう? 同じなのです。
私たちが五感を通して感じる、感覚の一切を統合して、この命、または愛とどのくらいの関係を結んで生きるのかによって、人間としてどれくらいの価値をもっているのかという問題が左右されるのです。ですから私たちは、私たち自身が生命力と加重された愛の心をもって対人関係を結んで社会生活をしてきたのか、という問題を考えざるを得ないのです。もしそのような立場に立っていることができなければ、停止するか、そうでなければ後退するということを知らなければなりません。
神様が復帰摂理をしてこられるのに、私たちの大韓民国だけを必要とするのではありません。世界人類をすべて必要とされるのです。ですから人に対する深い関心をもって出てこられるのです。これは今まで神様の摂理の中で一番重要な目標でした。私たちがその目標を成すために集められたとすれば、神様と同じような立場で関心をもって対することを知らなければなりません。
すべての人に対する時、欲心をもって対してはいけません。
善なる人になるためには、悪を他人のことと考えるのではなく、自分の痛みとして感じ、夜を明かして彼らのために涙で祈ってあげ、彼らの罪を贖罪するために祭祀を捧げる心をもって暮らさなければなりません。そのような人は、悪なる人の本性の中心存在にならざるを得ないのです。
良い人は少年も愛し、青年も愛し、壮年も愛し、お年寄りも愛することができなければなりません。また、自然に対して人が主体的な立場に立ったならば、その主体的な人は春も好きになり、夏も好きになり、秋も好きになり、冬も好きになるのです。
愛することにおいて、最も愛し尊敬し敬わなければならない人はお年寄りです。若者には会うだけでもいいですが、活動するにも不自由で力も不足し第三者のお世話にならなければならない老人たちには、もっと愛さなければならないし、同情もしなければならないのです。ところが、そのような風潮をこの世の中では見いだせないのです。
人を愛するといって、若者だけを愛してはいけないのです。愛するのは、お年寄りから幼い子まで、すべての人を愛さなければなりません。最近の青年たちを見れば、お年寄りを相手にしないようにしますが、それではいけないのです。お年寄りも愛さなければならないし、若者も愛さなければならないのです。
人を愛さなければなりません。人を愛し、人を恋しがることにおいてどんな団体よりも強くなければなりません。これが人間のみ旨ではなく、神様のみ旨を中心とした集まりだとするならば、必ず全世界に愛の実として残ることでしょう。木々が山を覆うように生い茂る時には、どれが松でどれが柾なのか見分けるのが難しいです。しかし秋になり、冬になれば分かります。冬になって、枝と幹だけの木々の中に緑の木が見えたならば、それは希望を呼び起こすのです。それは新しい因縁が結ばれることを象徴するというのです。
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」(マタイ22/37)これが一番目の戒めであり、二番目は「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(同22/39)というのです。一番目の戒めは神様を愛し、二番目の戒めは人類を愛することです。隣町ではありません。人類を愛せよというのです。人類とは、兄弟であり隣人なのです。
驕慢は怨讐です。驕慢と固執はサタンの本職です。サタンの要素です。それで私たちは驕慢の代わりに謙遜、固執の代わりに和合をしなければなりません。和而有親です。この人にもよくしてあげて、あの人にもよくしてあげる人にならなければなりません。そのようになってこそすべてのことに通じるようになるのです。あの人この人、二人が一つにならなければ大きいものが出てこないのです。和合しなければそのようになるのです。サタンの本質はねたみと嫉妬のようなものもありますが、驕慢と固執は私たちには許すことができないものです。