第三章 礼拝と教会生活礼節 : 十 他人との人間関係 : 1.人にむやみに対するな

 人にむやみに対するなというのです。それで1970年まで本部では、「通りすがりのおなかをすかせた人は誰でも食べていきなさい」と言っていたのです。おなかをすかせた人に御飯をあげるのは人間の道理です。もらった御飯でも分けて食べるのが道理です。米櫃にお米を入れておいて、「通りすがりのおなかをすかせた人が御飯をもらって食べる」と言ってけなせば、その家は長く続きません。

 かわいそうな人を見れば、助けてあげるために、すべての物をあげたくなる時もありました。与えたい心、助けてあげたい心をもって欲するようになる時は、神様も褒めたたえます。自分だけ食べて生きようとするのではなく、全体を良くするために、現在は苦しいけれども未来を良くするために欲心をもつのは良いことなのです。

 ただ飯をたくさん食べさせてはいけません。ただ飯を食べさせると同時に、公的な心を多く働かせなければならないのです。それが福を受ける道です。ただ飯をたくさん食べさせると同時に公的な心を多く働かせた人、そのような人は誰も嫌いません。

 人を無視してはいけないのです。「一寸の虫にも五分の魂」と言うでしょう。それは必ずそうだというのです。死ぬ時、恨みを抱く、その恨みを買う人は先が長くないのです。

 人に対することを面倒くさがってはいけません。義務的な過程では復活の役事が起こりません。おもしろさがなければなりません。時が過ぎるのも知らずに夜を明かし、天国がここしかないというところからのみ、天国に行くことができる価値が発見されるのです。そうではありませんか。木も完全に密着されてこそ接ぎ木できるのではないかというのです。

 先生は、私たちが食べられなくても訪ねてきた人に良くしてあげようとします。彼らが百ほどの基準の道を修めれば、その基準以下で対しては私たちがふさがってしまうのです。審判されるのです。そのような時は倍以上、三倍、五倍、十倍以上してあげるのです。そのようにしてあげたとしても滅ぶことはないのです。そうすれば天が感服するというのです。「こいつ、天より優れている!」と言うのです。

 じっと見てみると、良い家は犬が糞をしてもその家の庭の隅に行ってします。ところが主人が「こらっ、この犬め! この町の犬はなぜみんなうちの庭の中に来て糞をするのか」。このように不平を言う人は福を追い出すのです。「さあ、来てやりなさい、さあおいで」そのようでなければならないのです。

 闘うなと言うのではありません。二人ともよくなる時は闘うのです。一人が滅ぶ時には闘ってはいけません。闘うとしても、自分の味方をつくり教育するために闘わなければならないのであって、怨讐になるために闘ってはいけないのです。

 与える時は、父母の心をもってあげなければなりません。自分の欲望と野心をもってあげてはいけないのです。父がそのようにされたので皆さんもそのようにしなければなりません。

 人を愛するのに惜しむな。何を投入したのか記憶するな。もっとあげたい……。ですから皆さんが良い食べ物があったとき、隠して一人で食べる人ならば、くたばって死んでしまう者だというのです。食べ物があればそれを食べないでとっておき、私が食べられなくても与えたい、一人では食べられないと食口を思う、そのようにできる人にならなければなりません。そのような父母の心をもった者とならなければならないのです。

 与えるには、どのようにして与えなければならないのでしょうか。食べ残した物を与えてはいけません。残り物をあげれば、食べ終わっても気分が悪く唾を吐くのです。おもちをあげるとしても、5つあれば5つの中であれこれ取ったり置いたりして選んであげる時は、かえってあげないよりも気分が悪いというのです。他人にあげるのに、5つあれば半分くらいそのまま取って相手にあげれば、有り難いと思うでしょうが、あれこれ取ってからあげれば世話になった人は、世話になったあとで批評するのです。ですから相手にあげるには、神様と共に父母の心で与えなさいというのです。