御言の図書館のサイトです。御言をはじめ様々な書籍を閲覧できるようにしてあります。
第三章 礼拝と教会生活礼節 : 九 食口間の法度と礼節 : 3.誰がアベルで誰がカインなのか |
統一教会員の中で「私が先に入ってきたのでアベルで、あとから入って来た人はカインなので、私に侍りなさい!」と言う、このような気違いたちがいます。アベルとはどのような人ですか。神様の御意どおりにする人がアベルです。より公的な人がアベルです。カインとは何ですか。サタン側です。サタンは、自分を考えるところから出発したのです。アベルは、自分を考えず神様を考えるところから始めたのです。これを知らなければいけません。
先に入ったといっても我欲を張る人はカインです。自分の思いが先に立つ人はカインです。先生はこのような原則で人に対します。どんなに古い食口でも、その心が自分のためにするようになる時は見向きもしません。今は仕方なくそのままにしていますが、時が来れば荷物をまとめさせて追い出すのです。先に来たからといってアベルではありません。私的な基準が先になることはカインです。自分より公的な問題、天をもっと考えることがアベルです。
ここの統一教会員同士、兄弟を決める上で、先に来た人はアベルの立場であると同時にカインであり、あとから来た人はカインの立場であると同時にアベルです。
原理的な立場ではアベルが中心です。この中心の中には神様が入っていらっしゃらなければいけません。ところで皆さんはアベルになりましたか。アベルになるには従順に従わなければいけません。神様に従順に従って一体にならなければいけません。神様と一体になるには神様が「しなさい」と言うとおりに、すべてしなければいけません。神様が「しなさい」と言うことをすべてできなければアベルになれません。99までしたとしても、1つができなければアベルになれないというのです。
統一教会員の中でどんな人がカインですか。頭を突き出し、あごで人を使う人たちがカインです。それではアベルはどういう人ですか。責任を果たそうとする者がアベルです。本来は先に入ってきた人がカインなのに、先に入ってきた者がアベルの位置で威張り散らします。それは自縄自縛になるのです。そんな人がどんなにいろいろなことをしても、原理原則どおりにしなければ先生が使ってあげないのです。
アベルはどんな存在で、カインはどんな存在ですか。原理で見て端的に言えば、カインは自分の心配事があれば、その心配を他の人に覆いかぶせようとする人です。アベルは自分に心配事があっても、他人の心配事まで引き受けようとする人です。その差です。
どんな人がアベルで、どんな人がカインかと言えば、侵害される人がアベルで、危害を加える人がカインです。例えば、父母の前に二人の息子がいて、上の息子は年を取っていて下の息子は年が若いとしましょう。ところがその父母の相談相手とかすべての面において、父母に代わることができる息子は長男だけだとしても、下の息子が何も失敗せず間違いも起こしていないのに、この長男が下の息子に手を出せば、父母は上の息子の側に立つのではなく下の息子の側に立つのです。これが今日、社会で適用される善悪の批判基準だということを知らないでいるのです。危害を加えた者がカインになるのです。
教会のために熱心に働いて精誠を捧げる人を見て、「あの人は他の人と違ってあれは何だ」と悪口を言えば、既に彼はカインになるのです。皆さんがそれを知らなければなりません。カイン・アベルはそのように分けられるのです。罪がない立場で批判される人、被害を受ける人は必ずアベルになるのです。批判する人、危害を加える人はカインになるのです。
話をしたとしても、他人に利益を与える言葉を言う人はアベルになるのです。害を及ぼすような話をする人はカインになるのです。私が他人に利益を及ぼすというのは利益を与えることですが、自分の利益のために何かをするというのは害を与えるのと同じです。ですから他人の利益になるようにするのは公的な立場です。自分の利益のための立場は私的な立場です。このような意味で、公と私を中心としてカインとアベル、善と悪が分かれるのです。これを皆さんは知らなければなりません。
より公的な存在がアベルです。統一教会の教会員の中には、先に入ったのでアベルだと考える人がいますが、先に入っても公的な立場に立てなければカインです。間違いなくカインです。カインも自分が先に生まれましたが、アベルがより公的な立場になれなかったのでアベルに従わなければならなかったのです。統一教会員の中でも先に入って来たと傲慢に「私が先に入って来たのでアベルだ」と言っている人がいるかもしれません。しかし、あとで入って来た人より公的な立場に立てなければカインです。アベル的な存在はより公的な立場に立った人です。
先生が一生涯をすべて捧げて自分の利益より公的な利益のために犠牲になり、そのような材料ならば材料、量ならば量を多く投入したことを隠しているので、皆さんが自然に敬うようになるのです。それが原理です。それが天運なのです。
アベルの完成は、個人的アベルの完成、家庭的アベルの完成、氏族的または民族、国家、世界的アベルの完成の基準を引き継いでいかなければ、世界天国復帰というのは不可能なのです。それを知っている私たちは、夜昼やって来るその日その日にこの原則を適用させ、この原則の発展を連結させるために休みなく走ることができなければなりません。そのような人を「天の人」と言うことができるのではありませんか。分かりましたか。