第三章 礼拝と教会生活礼節 : 九 食口間の法度と礼節 : 1.食口は天情で結ばれた因縁

 統一教会員たちを、私たちは食口と言います。食口というのは兄弟の因縁をもたなければならないし、父母の心情を同じくして生まれなければなりません。そうしてこそ食口となれるのです。同じ父母をもち、同じ兄弟の因縁をもたなければなりません。父母の生活と習慣と伝統を、ただそのまま相続しなければなりません。そうして天が喜ぶことができる家庭形態をもたなければなりません。そうしてこそ食口となるのです。

 今日、私たちは手と手を取り合って集まりました。老若男女を問わず、見知らぬ他人同士が集まりました。私たちには血が通じています。私たちには天情が通じています。出発が聖なるものだったので、結果も聖なるものでなければならないのではありませんか。

 私たちがもって生まれた因縁は、立体的な因縁だということを知らなければなりません。今まで歴史上にあったある思想を基調として出てきたものではありません。神の心情と神の創造理想を基調として、本性の人格を標準にして始まった因縁なのです。これはすべての因縁の核心なので、絶対視しなければなりません。

 私たちは違う因縁によって集まった者たちです。ですから兄弟ではない者たちが集まりました。兄弟ではない者たちが集まって、肉身の兄弟たちを主管しなければなりません。それが違うのです。兄弟ではない者たちが自分の肉身の兄弟を主管しなければなりません。そうでなければ皆さんの家は皆さんと因縁がないのです。事実それは自分が直接できないのです。ですから私たちは、兄弟にもっとよくしてあげなければなりません。

 食口に対する時には、その人を傷つけないように注意して、また信仰生活の助けにならない言葉を言ってはいけません。

 食口がある困難があったり、ある環境にぶつかって苦難に遭う時、お互いに自分のことのような心情で、同情する心をもたなければいけません。

 先生は、食口を非難し、食口を謀害する(注:謀略で人を害する)のを見ると我慢できない人です。世界を愛したい心があれば、その愛をどこからしなければならないでしょうか。私たちの間からしなければいけないというのです。東西南北から別れて一つの因縁に従って集まった私たちが、お互いに愛し合おうということです。顔を見なければ生きられないのです。会わなければ駄目だと言うのです。このような因縁で連結されているので、統一教会はそれでも、この悪なる世の中とは違う何かをもっていると自負しているのです。これを忘れてしまっては私たちは何にもなりません。

 私たちは素晴らしい人たちです。世界がうらやましがり、天と地がうらやましがり、霊界のすべての聖人と賢哲たちがうらやましがる堂々とした生涯を歩んでいる、天が捨てることのできない、天が称賛するだけでなく訪ねて愛そうとすることのできる、そのような背景と内容をもって生きる素晴らしい男たちです。

 善なる先祖をもった後孫がここにいれば、先祖たちが積極的に協助するというのです。そのような立場に皆さんが立っているのです。 このような立場にいる皆さんがよく素晴らしく闘い、行く先々で百戦百勝の戦績を立てる時、霊界では永遠に喜ぶのです。このような皆さんになれば雑神(注:正体の分からない様々の鬼神)が出てきても驚いてひっくり返るでしょう。そのようになっています。ですからこのような先祖たちは皆さんに、王様に仕えるように侍るでしょう。皆さんはこのように感じなければなりません。

 六千年の結実体が落果のように熟さずに落ちてもいいでしょうか。ただ風が吹くのではと心配しながら「ああー、私が落ちそうだ。もうちょっとだけ吹けば落ちてしまうでしょうから、先生、揺らさないでじっとしていさせてください」と言っていいでしょうか。ここにはこのような輩もいるでしょう。反面、「先生が斧で強く襲いかかり、枝を思いのままに揺らしても引き裂かれるまでは絶対に落ちません」という群もあるでしょう。皆さんはどのような輩に属しますか。風が吹くかと心配する輩ですか。揺らしても落ちない輩ですか。

 皆さんがここに来た目的とは何ですか。それはある環境的な問題を解決するために来たのではなく、人間の根本問題を解明し、絶対者から認定を受け、確定を受け、その絶対者の前に立つことができるようになるために来たのです。

 統一教会では争いがあってはいけません。ここは、お互いに愛し合うために集まった所です。愛を受けようとするのではなく、愛を与えるために集まった所です。それでは、愛する方法はどこで学びますか。先生から学ぶのです。先生と会って、先生を愛したい気持ちが生じなければいけません。そしてお互いに会いたいし、与えたい愛を、兄弟たちに与えなければいけません。そうすれば神様は、その何倍も返してくださるというのです。親は、兄弟がお互いに愛し合うことを喜ぶからです。