第三章 礼拝と教会生活礼節 : 八 蕩減と奉仕と献身的な生活 : 2.奉仕と献身

 真の愛の道は、どのように鍛錬することができるのでしょうか。献身、奉仕、そして犠牲を通して鍛錬することができます。これは再創造コースだということを意味するのです。再創造コースでは、皆さんは犠牲を払わなければなりませんが、そのような蕩減の道が奉仕の道となるのです。犠牲の道を通らなければなりません。私たちが蕩減の道を通ってこそ神側に立つことができます。これは明らかな事実です。ですから皆さんは蕩減の道を通過しなければなりません。

 どちら側が主体で、どちら側が対象でしょうか。誰がついていかなければならない立場にあり、誰が引っ張っていかなければならない立場にあるのでしょうか。神様はこれをはっきり知っていらっしゃるのです。神様は知っていらっしゃるのです。神側になるのです。この世の中を見下ろすと、いつも二人がけんかしているので、「どちらが私の側になるか」と言えば、既によく知っていらっしゃる神様は「うん、ははは……」とおっしゃるのです。「私の側になる人は、いつも犠牲になり献身し奉仕する立場に立つ人だ。その方に立っている側が正義のために闘う側で、私はその群を選択するだろう」とおっしゃるのです。いつも中心は、犠牲になり奉仕するのです。

 統一教会は「ため」に行く道を取りなさい、「ため」に生きなさい、「ため」に生まれたという天理を教えるのです。

 天国に行く公式は簡単です。天と地を愛したという条件さえあればいいのです。このために苦労しなければなりません。まだ、本当にこれを成した人は一人もいません。

 善なる道を行く人たちは、いつも犠牲になるようになっています。それで私たちは犠牲になれと教えるのです。「他人のためになりなさい」というのは利益を得ることではありません。犠牲です。自己投入です。投入するにも、極まで達することができるその基準まで投入しなさいというのです。生命までも捧げなさいというのです。

 統一教会の主流思想とは何ですか。「ため」に生きるということです。神様が「ため」に存在するのと同じように、私たちも「ため」に存在する日には民族が反対しても世界のために生きることができると知ったために、統一教会はこのようにしてきたのです。

 お客を多くもてなして外部の人に多くの世話をしてあげた人がいる所には、サタンは越えて来ることができません。皆さんはこのことを知らなければなりません。

 皆さんを犠牲にし、皆さんに苦労をさせてこの愛に貢献できる貢献者をつくるのは、世界を代表した愛の結実をもたらすことに貢献することによって、神様の愛を受けることができ、人類の愛を受けることのできる人をつくるためです。その運動を今しているということを知らなければなりません。神様の愛を受ける人をつくり、人類の愛を受ける人をつくるのが統一教会の目的です。

 世界はより大きな摂理のために、蕩減の目的に向かっていくのです。神様が喜ばれると考える時、自分の一族が餓死するのを見て胸を痛め、心に傷を負うよりもそれ以上にそれを知り、神様を受け入れなければならないでしょう。そのような一日においてどんな十字架の道が来てもその十字架上で祈祷し、誰よりも苦労の道を行こうと決意しなければなりません。投入し投入して、忘れなければならないのです。

 世界のために自分を犠牲にしようという人は、乞食のような姿であっても恥ずかしくないのです。統一教会の群は安物のパンを食べても、麦パンを食べても、水を飲みながらも「ああ、けさの冷やしたお茶は、ごちそうよりおいしいな!」と言って、舌鼓を打ちながら「感謝します」と言えば、天下が泣くのです。天下のためにそのような立場に立てば主体がいないので、天下が自分よりもっと低いものとなってくっつくのです。

 昔は牛を引いて「どうどう、こっちだこっちだ」と言って畑を耕す時、気分が悪いことが多いではないですか。牛のお尻をたたきながら「この牛め、お前どうしてこうなんだ。私が精誠の限りを尽くしてこの一時のために使おうと育てたのに、何で言うことを聞かないんだ」と言いながら、むちで容赦なくひっぱたきますか。 そうするよりも「おお、冬の間休んでいたお前にあいさつもしないで、春になったので引っ張り出し、よく食べさせもしないで仕事をさせてごめんよ」という思いで、牛よりももっと忍耐心をもっていたらどうでしょう。そうすれば天が見る時、かえってその人を近く感じられるのです。賢く、ずばずばと臨時処置がよくできるよりも、純情をもって福を待たなければなりません。そのように、福なる心をもって生活してこそ福が訪れるようになっているというのです。

 歴史始まって以来、神様のみ旨に従った数多くの宗教者は自分自らを否定する修行をしました。「犠牲になり、奉仕しなさい!」。しかし、なぜそうなのかを今まで知らなかったのです。それは本然の世界が「ため」に生きる本郷だからです。ですからその世界に行くためには、そこに行ける訓練と準備をしなければなりません。したがって高等宗教であればあるほど犠牲と奉仕を強要したのは、歴史時代に、神様が歴史過程を通じて摂理してこられたからです。それが歴史的な事実であることを、ここで公認することができます。神様がおられるということを公認することができるというのです。

 信仰生活をする上で皆さんの心の中に、爆発的で刺激的な力をもってみ旨の世界に向かって行こうという余力がありますか。そのような心があれば、神様が皆さんと共にいらっしゃるという証拠です。反面、そのような力がないならば、神様が皆さんと分離している証拠です。

 人類を愛する心がわきあがり、人類と共に自分の生命を分かちたい心が絶えないということは天に属していることを証すものですが、自体を中心とした愛と自体の価値を誇る生命力として終わるならば、自分から既に神様は離別しているという事実を知らなければなりません。そのような人の行く道の先は天ではありません。そのような人は自己を中心とした限界点に到達するでしょう。

 皆さんは神様とサタンの作戦法を知らないでいます。打たれて奪ってくる道はアベルが行く道です。サタンは先に打つので勝ったように見えますが、あとになると自分がもっている自分の善なるものまでプラスして返さなければならなくなるのです。悪の側だということは、相手を打って占領したとしても栄えるのではなく、悪なるものの中にある善なるものまで奪われるのです。言い換えれば、神様はもちをついて渡しておき、それを返してもらう時にはもちにきなこがついてくるのと同じような役事をされるのです。一時は悪が栄え、善を打つ立場に立ちますが、だからと言って天が滅びるのではありません。

 一瞬一瞬、必死の決意をする皆さんにならなければなりません。神様が今まで求めてこられたこの一時を無意味に失う人になってはいけません。これは千年の歴史とも替えられない価値をもったものなので、これを逃せば大変なことになります。この世をみな失って、探し出したものをすべて手放すとしても、これだけは絶対に手放さないと決意する皆さんにならなければなりません。私の生命がなくなってもこれだけは残して行くのだと、もう一度固く誓いながら、精誠の限りを尽くして前進しなければなりません。