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第三章 礼拝と教会生活礼節 : 七 伝道は愛を探す運動である : 1.伝道は第二の私をつくること |
伝道とは何ですか。道を教えてあげることです。神様に戻っていく道を教えてあげるので、それはどれほど偉大なことでしょうか。本性の人間を見て「お前はどこに行くのか」と問えば、「いやー! 世界を通し天の国に帰っていかなければ」と言うのです。その道を開拓してあげるのでどれだけ素晴らしいかというのです。迫害を受け、ひたすら何かを受け、何を受けても、いつも世界を通して天の国に帰っていくのです。
私が生命を捧げ悪を屈服させれば、神様の愛が私に来ます。これは公式的です。秤の分銅と同じです。片方が下がればもう一方は上がるようになっているのです。悪を多く取り除けば善が上がり、悪が多くなれば善が下がるのです。悪を取り除いただけ愛を受けるのです。ですから、誰よりも私を愛しなさいというのです。神様をもっと愛しなさいと言うのは、神様を愛するほど神様の愛をたくさん受けるというのです。すなわち、神様を愛したので神様の愛を受けるということなのです。
皆さんが、春を迎えるために伝道するのはなぜですか。伝道して何をしようとするのですか。夏の日を迎えようというのです。もっと良い日があり、枝を伸ばし葉を出して花が咲き実を結ぼうというのです。それでは統一教会ではどうですか。「ああ、私は3年の間伝道したのでもう家に帰ってじっとしていてもいいでしょう」。そうすればどうなりますか。それを実を結んだとしても、その実を証することができる生命の余力をもっていなければ、冬季の北風寒雪が押し寄せる時には干上がり、縮んでしまうのです。
伝道は第二の自分をつくるためのものです。
どんなに時代的な一日の生活であっても、伝道するその一日は永遠と関係を結ぶのです。そんな秩序の基礎の上に、私たちの一片一片の行動が全体、または永遠と関係を結び、それがなくならずに残るようになるというのです。
伝道すればうれしい。反面、伝道しなければうれしさがこみ上げてきません。先生もこれをしなければ苦しいので、するのです。伝道をすれば罵倒されてもうれしいのです。
神様が生きておられることを体験すれば、「伝道するな」と言っても伝道したくなります。伝道すると、新しいことをつくってくれるからです。十人がいるとして、彼らと真摯に対話すれば十人が新しい人になります。そうしてから教会に来て祈ってみなさいというのです。そのようになれば彼らが発展する時、必ず自分自身も発展するようになっているのです。私自身が高まるのです。
霊界に行けば誇れるのは伝道しかりません。霊界はお金を多く持っていたとしても何の誇りにもなりません。また世の中で権力をもっていたと誇ることもできません。生命をどれだけ生かすことができたか、これが誇りです。甲ならば甲、乙ならば乙、また氏族を超越し数多くの民族を新しい生命と関連させ、どれだけ生かしてあげたのか、それが財産です。財産はそれしかありません。
霊界にないものは恋しいものはありませんが、一番恋しいものがあるとすれば、それは真なる人です。ですから真なる人を育てるため骨を折ったその功臣は、天上世界で当然、栄光の息子、娘になることができます。ですから誇れるのは伝道しかないのです。
皆さんは伝道対象者を前にして、夜を明かし痛哭して祈祷したことがありますか。自分のお母さん、お父さんが死んだ以上に悲しんで、また愛する恋人が死んだ以上に悲しんで痛哭してみたのかというのです。していないのならば、してみなければなりません。夜を明かしながら痛哭しなければなりません。一つの生命を生かすことさえできたならば、何も惜しいことはないのです。お金や服や家が問題ではないのです。人を愛するのに狂わなければなりません。
皆さんが教会に来る時は自分の父母、妻子をみんな連れて来なさいというのです。兄、姉みんな連れてこなければなりません。皆さんがお母さん、お父さん、親類や遠い親戚まで伝道するために、どれだけ血の涙を流しましたか。一人の生命を引っ張ってくるために夜を明かし、精誠を込め、祈祷しながら身もだえしたのか、これが問題となるのです。皆さんは逆境の環境にあっても中心にならなければなりません。皆さんが中心になっていかなければならないということを知らなければなりません。
伝道するには人々の心理を研究しなければなりません。表情や歩き方だけ見ても、その人が喜んでいるのか嫌がっているのかが分からなければなりません。その人の感情を公式的に鑑定できなければならないのです。
伝道に出掛ける時、「お金がなくて出掛けられない」と言わないでください。イエス様がお金を持って出ていきましたか。神様が復帰摂理をお金でもってしましたか。生命でもってしたのです。血でもってしたのです。それでキリスト教の歴史は、血で蕩減する歴史なのです。血でもって、生命でもってしたのです。お金でしたのではありません。皆さんがそういう心でもって出掛ければ、天が役事をされると私は信じます。
伝道に出掛ける時は、お金を持って出掛けてはなりません。心情をもって行かなければなりません。
皆さんが伝道をしようと出掛ける時、ただそのまま出ていってはいけません。どのくらい精誠を尽くして出掛けるのかということが問題です。ある人を伝道するのに一週間や1カ月、または一年、二年、三年はかかるだろうと思えば、その期間精誠を尽くさなければなりません。雨が降っても雪が降っても、御飯を食べ、寝て起きて、行ったり来たり、または休んだり、ある行動をしたり、一切の心でもって人の前に完全にすべてを与えなさいというのです。完全に与えれば完全に返ってくるのです。これが原理です。
神様を愛するのにどれだけの精誠を通して愛し、人間を愛することにおいてどれだけ精誠を通し愛したのかが問題なのです。これが霊界に行ってからの人格になるのです。栄光の基盤になるのです。
伝道するために夜を明かしましたか。先生は夜を何度も明かしました。あの世で尋ねられることでしょう。伝道するために幾度夜を明かしたのかを。皆さんは、すべての力を尽くして伝道しなければなりません。
投網で魚を捕る時、錘が少しでも前に出れば一匹でも多く捕まえることができます。私たちはこのような錘のような立場で、サタン圏にいる人たちを少しでも天の側に引っ張ってきたい心で動かなければなりません。
他の人を伝道できるぐらいまで育てないといけません。このようになれば、皆さんは伝道した人を一人も失うことはないのです。
精誠を尽くして、どれだけ天が協助するのかを見てみなさい。地で自分の親戚と知り合いを伝道しなければ、あの世に行って彼らの讒訴を免れることができないのです。
伝道するのも、商売をするのと同じようにしなさい。効果的にしろというのです。昔は伝道に行くとか、どこに行くにも何の準備もなく行きましたが、今は準備して行きなさい。精誠を尽くして行きなさい。昔と変わらなければなりません。
皆さんは「生きた人間」の哲学を探究しなければなりません。いつも私がどのようにすればあの人を先生に、または皆さんに導いて来ることができるのかを考えなさい。その人たちが、皆さんに引かれてくることができるようにしなさい。このようにするためのただ一つの方法があるのですが、先生はその方法を知っています。それは他の人に仕える精神です。人間には自分自身に利益になるものがあるときは、いつでもそちら側に行こうとする本性があります。
人を捜すためには、春の季節のような、夏の季節のような、秋の季節のような、冬の季節のような地方に行って、涙と血と汗を流そうと考えなければなりません。「私が春の季節の人、夏の季節の人、秋の季節の人、冬の季節の人、春夏秋冬の人を愛していく。冬の季節の人、あのソ連の人までも愛していこう」と言わなければなりません。そうしてこそ自分の相対を愛することができるのです。それが復帰の過程なのです。
精誠を込めて与えたのに「彼が言うことを聞かない」と、寂しく思ったり、悲しく思ったりしてはいけません。「天理の原則がそうなのだ」と考える人は福を受けることでしょう。そのような人は、絶対に寂しくなったり、悲しくなったりはしません。時が近づいているので春風が吹くのです。しかし、精誠を込めて与えたのに、それを受けない人には秋風が吹くことでしょう。それは、自分の時が近づいていることを知らせているのです。