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第三章 礼拝と教会生活礼節 : 六 神様は公的な祈祷を受けられる : 1.あいさつをするにも方法があるのではないか |
信仰者はより大きなことのために公的な祈祷をしなければなりません。
先生は興南の監獄で三年近い歳月を過ごしましたが、その中で何人かの食口たちのために祈祷を、御飯を食べる時から寝る時までしなかったことはありません。たとえ離れていった人であっても、彼のためにずっと祈ってあげました。それで、霊的に先生を探して物悲しく涙を流しながら報告をするのです。肉身(体)が弱くて仕方なく先生から離れるようになったとあいさつをしましたが、去るようになった悲惨な情景に同情せざるを得ません。そのようにして離れていっても、その人のために祈祷してあげないといけないのです。なぜでしょうか。その人が責任を全うできないで行ったために、継承者が出てくるまで祈祷してあげないといけないのです。そのような精誠の土台さえ残っていれば、どんなに食口が落ちていったとしても、神様が必ずみ言にかなう人を送ってくださいます。
私が拷問を受けて血を吐いて倒れたとしても、「天よ、この血を見て私のために涙を流さないでください。これは恥ずかしい血となるのであり、嘆きにぬれた怨恨の涙になるので、ここに天が同情することを願いはいたしません」と言うのです。ですから、監獄にはいるようになっても祈祷はしないのです。心情世界にあっては、そのようにしなければならないのです。
この世でもあいさつをするのに、その方法があるではないか。祈りにおいても研究してやりなさい。
神霊な世界に入って祈祷するようになれば、まず神様のために祈ります。そしてイエス様のために祈ることができれば、歴史的な心情を知ります。その次に、天地創造以後今までキリスト教系の素晴らしいみ旨に代わって闘ってきた数多くの人たちに代わって祈ってあげなければなりません。堕落以後アダム・エバから今まで数多くの預言者たちが歩んできましたが、「彼らにつのった恨を解怨する祭物になるようにしてください」と祈りました。これがすべて終わったのちに、愛する息子、娘のために祈り、その次に、自分のために祈るのです。天法がそのようになっているのです。
涙を流し、骨髄が溶けてしまうような深刻な境地に入り、一対一で勝敗を決めようというのです。私が涙を浮かべる時神様も涙を浮かべ、神様が涙を浮かべる時私が涙を浮かべるそのような立場で、従順に従う心で神様とやりとりできる境地に入らなければなりません。どんなことでも、そのようにしなければなりません。そうするために祈らなければなりません。根がないといけません。その根が祈祷です。
精誠を尽くすにおいて、「絶対信じます」という位置へ入らなければなりません。「神様を絶対信じます」。み旨ならばみ旨に対して「絶対信じます」という位置に入らなければなりません。そのような位置にのみ、神様が協助されるのです。祈祷していても、祈りが成されるか成されないかと疑ってはいけません。「父よ! 私だけが残りました。私でなければこの国がなくなり、この世界がなくなるでしょうが、父よ、あなたが六千年間苦労してこられたこの一つの境地に、この境界線に一人残りました。あなたが成就させるみ旨の近くにいる者が、私しかいないではありませんか。国にはこのような存在が重要ですが、私はまだ準備が十分ではありません。しかし、そのような者に命令され私がそのようにできる条件、そのようにできる基盤を備えて、全体のこの民族に代わってやります。これが復帰摂理ではありませんか」と言えなければなりません。祈祷は、目的の完成のためにも必要なのです。
祈る時、一番最初に国のために祈らなければなりません。その次は世界のために祈り、次には神様の解放のために祈らなければなりません。神様が平安な位置にいらっしゃると思いますか。自分がしなければならないことが何であるかも知らずに、世の中の運勢がどのように動いているかも知らないで「おお、主よ。私を天国に送ってくださいませ」と言っています。
責任者として、本質的な原理的軌道をどのように行かなければならないかということを知らなければなりません。それで祈祷をしなければならないのです。祈祷です。神様と私の関係、神様がどれだけ愛しておられるか……。また、食口のために精誠を尽くさなければなりません。私が食口と共にどれだけの関係を結んだか、これが丸くなるように……。そのために祈祷しなければなりません。
自分の利益のために宗教を信じる人たちは、福を受ければ神様を捨てます。福を受けるのが目的だからです。少し豊かに生活するようになると落ちていくのです。皆さんは、神様が願われることが何なのかを探してさしあげるという観点で祈祷しなければなりません。そして世界に福を賜るようにと祈祷しなければなりません。
師匠を師匠としてつくるためには、皆さんが責任を全うしなければなりません。父の前に祈祷をするにも、「父よ、あなたの息子、娘が来ました。あなたが会いたがっていた息子、娘が来ました」と堂々と言うことができる環境をつくっておいて祈祷しなければならないのです。
誰が見ていようが見ていまいが、私がすべきことは私がしなければなりません。私たちが神様と約束を守らなければならないのです。夜でも昼でも全体のために祈らなければ、それは生きた祈祷とならないのです。それで自分の願う祈りが変わり、題目が変わりながら発展するのです。今、時がどのような時なのか知らなければなりません。そのような裏面の生活を、祈祷を通して身につけなければならないことを知らなければなりません。
先生も自然を愛し、一人でいる時間を趣味としています。物静かな夜がとても好きです。しかしそんな話はしません。先生にそのようなものがないでしょうか。皆さんに見えないだけです。そんな生活の豊富な底辺基盤を磨くことができるのも、祈祷以外にはないということを知らなければなりません。
福は他のところにあるのではありません。自分の心情的姿勢によって福が来るのです。皆さん、祈って精誠を尽くすのはなぜですか。精誠を尽くして「アーメン」と言って出てきて、泣いている赤ん坊がいればお尻を足でけって突く、このようならばその家はどうやっても駄目なのです。美しい祈り、懇切に願う祈りをしたならば、懇切な心と美しい心で環境を処理して、祈祷する基準の相対的な立場で、その結実を結ぶことができる姿勢を備えなければなりません。今日、既成教会の人たちは、賛美歌を歌い、礼拝に行けば天国に行くと言います。とんでもありません! 教会に行ってきて、けんかをし拳をふるい、ありとあらゆることをして天国に行けるというのですか。