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第一章 神様に対して侍る礼法 : 二 侍る心構えと態度 : 1.侍ることによって生活の天国化を成す |
神様は妄想的で観念的な神様ではありません。抽象的な神様ではありません。生活的な主体性をもって、いつも私たちが生きている生活の主人として共におられるのです。侍られるだけではありません。共同的愛を中心として共同的な生活をしている神様です。夢のような話です。
神様を心の中に侍り、私たち人間が体の立場で完全に一つになることのできる起源をつくらずしては、この悪魔の世界を清算する道がありません。このような観点から見る時、侍る時代、侍義の救援時代だと見るのです。侍ることによって救われるのです。神様はあの空中に掛け離れている神様ではありません。私たちの生活圏内の主体者としての神様に侍らなければなりません。
皆さんは神様がいらっしゃることを一日に何回自覚しますか。二十四時間の中で何回神様がおられることを感じますか。「侍ることによって救いを受ける」と言う人たちが、二十四時間の中で一、二時間ぐらい侍っていていいでしょうか。空気よりも切迫して必要なのが神様です。水よりも切迫して必要なのが神様です。御飯よりももっと貴いのが神様です。ところで皆さんはそのように感じられますか。
これから皆さんが侍る生活をしなければなりません。今までの信仰生活は信仰によって救いを受けましたが、これからは侍ることによって救いを受けます。本来堕落しなかったならば、神様に侍ることによって私たちの行くべき道を歩むことができたのです。侍るには皆さんの生活と心で共に侍らなければなりません。
侍る生活をしなければなりません。願いの天国は迎えましたが、侍り実践しながら生活できる天国は迎えられませんでした。すなわち、生活的な主体の神様を知りませんでした。
私たちがこのように習い、聞き、侍る生活をするのは何のためですか。六千年間、人類があえいできた目的は何ですか。それは聖書に流れている神様の事情を知り、神様の心情を知るためです。民族や国家は言うまでもなく、個々人をおいても父母の心情をもって対し、傷つき、蹂躙され、排斥され、引き裂かれてこられた神様が私の父だということを知るためです。
成約時代は、愛の時代です。ですから結婚できるのです。今まで宗教時代には愛を許さなかったので、高次的な宗教は結婚を許さなかったといことを知らなければなりません。
神様は宇宙の中心存在なのでその前に近く行けば千年、万年主管されてももっと主管されたいのです。神様を中心とした侍る道理がそのようになっているので、今日私たち人間もそのような立場で主管されればそれ以上の幸福はないという事実を、私たちは考えることすらできませんでした。
信仰の義であるとか、行いの義であるとか、侍る義を追求するのはなぜでしょうか。義でなければ善悪を分別できません。悪なる世界と善なる世界が分かれません。その善の中心点とは何でしょうか。神様です。神様が信じるのと同じように、神様が行うのと同じように、神様が侍るのと同じように、いつも神様が中心にならなければなりません。それはなぜそうでなければならないのでしょうか。サタンは神様のように義なる者に対しては、讒訴できないというのです。神様が信じ、神様が行い、神様が生活する、侍る環境に処していればサタンが干渉できません。サタン圏内にいてもその環境に神様のようにできる義なる基準が生じれば、サタンはそこから後退するのです。
行いの旧約時代が過ぎ去り、信仰の新約時代が過ぎ去り、侍る成約時代だけがあるのではありません。新約時代にも行いが必要で、成約時代にも信仰が必要で、侍る生活もみな必要だというのです。成約時代にも信仰が必要で、行いが必要で、みな必要です。それは、蘇生、長成があって、長成の上に完成があるのと同じだというのです。それは切っても切れません。
統一教会では侍ることによって救われると言います。侍義、すなわち侍ることによって救いを受けるというのです。春夏秋冬、洋服を仕立てて着る男がいるならばお父さんにも仕立ててあげなければいけません。その方が体をもった方ではないので、代わりに精誠をためておいて、ある時が来ればその込められた精誠を、誰が見ていても見ていなくても自分一人、教会のために神様に侍る心で涙を流しながら献金箱に捧げれば、その精誠は契約の箱に積まれるのです。これが観念的ではなく、感情的に体化され表現できる生活にならなければなりません。
侍る生活は、なぜしなければならないのでしょうか。それは神様の愛を受けるためのものです。
今までの信仰生活は信仰によって救いを得ましたが、これからは侍ることによって救いを得ます。本来堕落しなかったならば、神様に侍ることによって、私たちが行く道をみな行くのです。信じるといって、何を信じますか。侍って生活することによって、みんなできるのです。侍るには、皆さんの生活と心で共に侍らなければなりません。
今は個人なら個人として神様に侍る生活、家庭なら家庭として神様に侍る生活、教会なら教会として神様に侍る生活、あるいはこの民族を中心として、神様が要求される侍る基準を、どのように新しい伝統として設定するのかが問題になります。
統一教会時代は、御父母様の時代です。神様が地に臨むことができ、神様が来られることのできる道を磨くのです。それで、神様が来られることによって、侍ることによって救いを得るという言葉が成立するのです。歴史はそのように発展するのです。
侍る場に同参するためには、今まで悲しんでこられた神様を慰労してあげることができ、悲しい精誠の事情に同参することのできる内容を備えなければなりません。これを紹介し、それに伴う蕩減条件を神様の前に立てるために出てきたのが復帰原理です。
皆さんは侍る生活をしなければなりません。侍る生活はなぜしなければならないのでしょうか。神様の愛を受けるためだということを知らなければなりません。ですから神様に先に侍らなければなりません。神様に侍らなければならないというのです。