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第三章 礼拝と教会生活礼節 : 五 献金は法度に合うように捧げるべし : 1.十分の一献金を捧げる法 |
公金に対して厳しくなければなりません。十分の一献金は徹底しなければなりません。自分の総収入から十分の一の献金を必ず神様の前に捧げなければなりません。
十分の一献金は、所有している物質中の十分の一を神様に捧げることにより全体を捧げるという意味をもっています。父に全体を捧げるのではありませんが、その中の十分の一を精誠を込めて捧げることにより、残りの十分の九も聖なる物として取り扱い得るようになります。このように十分の一献金を捧げて生活する人は、絶対に滅ぶことがありません。日がたてばたつほど、倉庫がいっぱいになっていくのです。
精誠を込めて十分の一献金をしてみなさい。絶対に飢え死にしません。その子孫は物質に対して窮乏しないのが原則です。十分の一献金を捧げるために精誠を込めなさい。それが信仰の本質です。適当にすればいいだろうと、それは通じません。祭物は、自分の生命の代わりに捧げるのです。それで、一番貴重な物を捧げるのです。
蕩減するために物を条件にします。私たちが十分の一献金を天の前に捧げる理由もここにあります。九数は堕落世界の数です。十数はこれを超える数です。天の世界の数です。
レビ族が治める教会の祭壇の前に、十一支派は全部十分の一献金を捧げなければなりません。これからは十分の一献金を捧げなければ教会員ではありません。もともとは十分の三献金を捧げなければなりません。一つは自分の国のために、一つは世界のために、一つは教会のためにです。十分の三献金を捧げなければなりません。
私たちが生きていく上で生活の十分の一献金を出すのは絶対的です。それを自分の物だと侵犯してはいけないのです。なぜそうなのかといえば、九「三三が九(3×3=9)」は、サタンが今まで支配したのです。サタンが支配するこの地上を、九数を天の前に返し連結させれば、神様が主管できるようになるのです。そうすることにより十数を探し出すことができるので、私が神様を信じて九数を引っ張っていけば、この九数圏内のすべての所有権をサタン世界から分離できるのです。それで十分の一献金という言葉が出てきたのです。
復帰途上を越えていく過程にあって、私たちは十分の一献金ではなく十分の三献金をする覚悟をしなければなりません。一つは国へ捧げ、一つはこの世の中の人たちに施さなければなりません。復帰過程ではしなければならないのです。また一つは天の国へ捧げなければなりません。十分の一献金というのは天の責任を担う人として、絶対に侵犯してはならないのです。そのようにして誠心誠意を尽くさなければならないのです。
皆さんが献金する時、何かを買って食べて、残ったお金で献金してはいけません。そのようなお金は汚れた物です。また市場に行って何かを買って、残ったお金で献金をしても、神様はそこに共にいらっしゃることはできません。
祭物は、他人が残した物でしてはいけません。それは汚れた物です。恵みを受けた者ならば一遍に分かるのです。それで不浄な所には行けないようにするのです。
これからのすべての物は、最後に世界の物にならなければなりません。そうしながら同時に世界的な神様の物になり、世界的な「真の父母」の物になり、世界的な真の子女の物にならなければなりません。すべての物はそのような物質として復帰しなければならない責任が、私たちにはあります。これを徹底的に感じなければなりません。
自分が使うところからいくか献金して、それで教会を支えるというのは極めて良いことのようですが、それは悪いことだと思うのです。神様の前に捧げることは自分の生活より、自分全体よりも先にしなければなりませんが、それの何パーセント捧げるという観念によって自分の生活が主で、神様が次の段階に立つのが習慣化されやすいのです。神様が二番目になり一番最後になってしまうのです。そうだと思いますか。そうではありませんか。
皆さんが献金をする時はどうでしょうか。子供たちが聖日の朝教会に行く時に、「お父さん、お母さん、献金! 献金!」と言えば、いくらかを渡しながら「さあ、献金だ、聖日礼拝で献金しろ」ですか。神様が乞食ですか。教会の牧師が乞食ですか。そのような牧師、教会は駄目です。献金は自分の財産の金額を捧げなければなりません。自分の金庫の一番奥に入れておいて精誠を込めて準備しなければなりません。収穫の秋になりすべての蔵に穀物を刈り入れる時も、十分の一献金を別に取っておかなければなりません。そのようにして一年の間、息子、娘、一家が共に精誠を込め、愛の心を重ねて祭物として捧げなければなりません。
祭物を捧げておいて取り戻す法はないのです。取り戻す道理がありません。それはより高いところで、その責任者がより高いことのために使えばそれでいいのです。低いところのために使いません。皆さんのために使わなくてもよいというのです。
宇宙を創造された絶対全能であられる神様が、乞食に投げ与えるようなそんなお金でもって喜びながら、「ああ、福を受ける者たちよ! お前たちは愛らしい宗教人だ」と言うことができますか。サタンの前に威信が立つかのかというのです。献金箱を回しながらお金を出しなさいというでしょう。それは、看板を付けた乞食です。それは、何ですか。それは、神様は喜ばれないのです。
皆さんが先生に献金をしますが、先生はそんなお金は受け取りません。先生は受け取らない主義です。皆さんがそれを集めるためにどんなことをしたのか、それを私が知って、それに対して恥ずかしくない主体的な立場に立てるようでなければ受け取れないのです。心の姿勢がそうなので、与えてもまた与えたい心が神様に宿るのです。
精誠を込めた献金や礼物に対する時、その価値を知らないで対すれば、精誠を込めた礼物に審判されるという事実をはっきりと知らなければなりません。王様も自分の身の振り方を間違えば、すなわち精誠を尽くした人には、むやみに接したならば滅んでしまいます。精誠を尽くす人を間違って接すれば、天の逆賊として追われるようになります。ですから先生は、精誠を尽くす人にはむやみに接しないのです。
私的な物を公的な物より重要視する人は、天道に反する人です。私的な自分の人格を公的な人格より重要視する立場は、み旨に反する立場です。
既成教会で、献金することを何と言いますか。それは何かの袋を持って回すでしょう。私たちの教会も、献金をそのように受け取りますか。何の献金箱を持って受け取るのですか。出ていく時、みんなあの門前の献金箱に集めておくのです。精誠を尽くして恵みを受けていく代価として感謝献金をするのです。出さない人たちは帰っていって……。そのようなお金をもらっても、それは天が願わないのです。 精誠のこもったお金でなければいけません。お父さん、お母さんのポケットにあったお金では駄目です。全部自分の体に三日以上持って聖別して、献金しなければなりません。昼食一回分にも満たないものをどこに献金するのですか。自分の生命、財産を全部はたいてでもしなければならないのに……。
一番最初の物は、神様の前に捧げなければならないのです。聖なる物は、神様の前に捧げなければならないのです。聖なる物がないところには、神様が共にされないのです。皆さんの生活習慣は、このようにしていかなければならないのです。
十分の一献金は、一番精誠を尽くした聖なる物でなければなりません。それが祭物です。祭物を捧げるには、聖なる物を捧げなければなりません。息子を祭物として捧げなければならないとするなら、どんな息子を祭物に捧げなければなりませんか。憎い息子ですか。望みのない息子ですか。そんな息子は祭物にはならないのです。一番良い息子でなければならないのです。なぜですか。祭物は「私」の身代わりだからです。
今自分が持っている物、または自分所有の財産は、自分が少しの間管理する過程にあるというのです。皆さんは管理人です。それで、各自がよく管理して奉献しなければならないこの万物は、真の父母の懐を通し、神様の懐へ帰っていかなければなりません。もう一度言えば、神様の物であると同時に「真の父母」の物という過程を通さなければ、私の物にならないという事実を知らなければなりません。
復帰路程の原則的基準で見る時、万物はまず人類始祖の物とならなければなりません。もちろん神様の物ですが、神様が人間の前に下さった祝福の基準を中心として見る時、人間始祖の物とならなければなりません。堕落しない善の父母の物にならないといけないのです。
堕落は、自分のものをつくろうとし、自分が所有しようとすることから始まります。神様とメシヤが来られるのに、このようにすれば必ずサタン側になるのです。それで従順の道理を通らなければならないというのに、いつも堕落した世界に執着する事情が残るようになるのです。皆さんは皆さんの所有を神様のために使おうとする時、どのようにしますか。私は自分が稼いだ物でも、夢にも私の物にはしません。
私のものははあなたのものであり、あなたのものは国のものであり、国のものは世界のものであり、世界のものは神様のものであり、神様のものは私のものだというのが、私たちの主流思想です。
まず物質祝福時代を通して人間祝福時代が来て、その次に神様を主とした心情祝福時代が来るようになっています。
今まで人間が復帰されるのに、万物がどれだけ多くの貢献をしたか分かりません。また万物と人間が一つになれなければ、父の前に行くことができません。