第三章 礼拝と教会生活礼節 : 四 説教は恵みと感動がなければならない : 2.真のお父様の説教

 先生は、説教のために祈祷する時間よりも食口のために祈祷する時間を多くもちます。「父よ! この者たちを引き上げなければならないのですが、どうすればよいのですか。これですか、あれですか」と、精誠を尽くしてから心の命ずるままに説教します。

 先生は、説教のために準備したことがありません。生きた体験で事実を語る時は、みな感動せずにはいられないのです。

 一時先生は(北韓にある)威興でトンネルを貫通する仕事をしました。おなかをとてもすかせて仕事をすると、つるはしを強く握りしめた手が上がらず、精根尽きていました。「昼飯だ!」という声を聞いた時、その声がどれほどうれしかったか分かりません。その時の御飯! その御飯を食べるためにつるはしを地面に突き立てて振り向くその瞬間の気分、先生にはそのような生きた歴史の材料が数えられないほど多いのです。

 悲惨だった復帰歴史の事情は、私を滅ぼすのではなく、青史に永く光り輝く資料であることを知らなければなりません。それで、神様が秘めた宝物をかき集め得るその日まで行かなければなりません。その受難の事実を世界万民の前に打ち明け、話せば、他の内容で一時間説教するよりも、この内容で十分だけ話せば痛哭するというのです。そのようにいい説教の内容がどこにあるかというのです。

 神様と密接な関係にあれば、説教の準備をしなかったと心配するなというのです。そのような訓練が必要です。私は、有名な人に会って一日に十回話をしたことがあります。その時は、場所によってみな内容が違う話をしなければなりません。ところで、それをみな準備してするでしょうか。そういう時の心は、完全に祭物としての自覚をもつのです。祭物の自覚。「私」というものはありません。存在意識がないのです。所有観念もないのです。完全に捧げられる立場に立てば、天が共になされるのです。

 皆さんがいつも注意すべきことは、先生がどの方向に向かっていくのかということです。そこに歩調を合わせていくのが、皆さんが説教する上で一番効果のある方法です。恩賜を施すことのできる動機になるのです。先生がこの時間に、何のために、どんなことをするのかを知ろうとするならば、相対的に心情的基準を先生と一致させるために自分の心を引き上げて、先生の心をどのように身代わりできるかが問題なのです。皆さんが先生の前に相対的立場で動くようになれば、天運はそこに訪れることでしょう。

 聖日の説教をする時は深刻でしょう。私が皆さんだったら、夜寝ることができません。どうして寝ることができますか。人の生命を生かすために注射するのです。強壮剤注射をするのと同じです。食口たちに一週間分の薬をあげ、強壮剤注射をしなければならないのです。生命を扱う医者が、生死の岐路に立たされた人に注射する時、深刻なのと同じように、そのような立場で指導しなければなりません。ですから壇上に立つ時は、死刑場に出ていくのと同じなのです。

 説教する時は汗を流さなければなりません。後頭部に汗が流れなければなりません。涙と汗がなければなりません。それが鉄則です。説教は心配する必要がありません。先生が一生の間に説教した200巻を超える説教集があります。皆さんが霊界に行って問答する時、「私は見ることも読むこともできませんでした」と言いますか。英語には翻訳させないでしょう。これを読まないで逝けば大変なことになります。指導者たちがこれを読まなければ大変なことになります。