第三章 礼拝と教会生活礼節 : 四 説教は恵みと感動がなければならない : 1.説教の実際

 説教する時は女性がお産の時に苦痛を感じるような立場で説教しなければなりません。すべての精神をそこに集中させなければなりません。説教の壇上に立つときには、産婦が産室に入るような感覚がなければならないのです。その境地に達すれば準備が必要ありません。説教の内容が問題なのではなく、そのような心情になっているかどうかが問題なのです。

 説教の時間はある人を天国に行かせるか、地獄へ行かせるかという境界線になります。「今まで統一教会のことが気がかりだったけれど、一度行ってみよう」と教会に来たのに、「この説教は何だ」ということになれば、その人の首を完全に切ることになるのです。公廷で判事が宣告をする場よりも深刻な場が、説教の場なのです。

 人にとって最も大変なのが、前に出てみ言を語ることです。人前で話をすると、みんなが注目します。甲は甲なりに、乙は乙なりに、丙は丙なりに、また金氏ならば金氏、朴氏ならば朴氏と、みなそれぞれに聞いて批判なり判断をするのです。ですから人前で話をする人は、とても大変なのです。

 牧会者は説教についてのことを常に補充し、特に教会員に必要で、ためになることをいつでも供給してあげなければなりません。

 霊的指導者には体恤的な信仰なしにはなれません。本を見て説教の準備をし、本を見て説教しても、その本の中に神様がいますか。いません。神様は霊的な中におられるので、神霊を通さなければならないということを皆さんは知らなければなりません。

 皆さんが説教をする時、昔その題目で説教したことがあるということを食口が知れば、気を悪くします。それは、人が春夏秋冬の四季によって変化を感じるのと同じだからです。朝だからといって、いつも気分がいいとは限りません。何も心配なことはないのに、とりわけ憂うつな日もあります。朝の日差しも明るく、そうかいな天気でも自分では憂うつな日があるのです。 そのような時、どうすれば解決できるでしょうか。これを急に変動させる刺激的なものがなければ、もっと憂うつなところを求めて入りなさいというのです。このように正反対の新たな刺激を与えるなり、それを克服し得る新たな刺激を起こして補充していかなければなりません。皆さんが解決方案を立てて一日一日の生活を調節していくことができなければ、今後多くの人の心霊を指導することはできないのです。

 新たなものを提示しなければなりません。どのようにしてでも刺激を与えなければなりません。祈祷してでも補充すべきです。それでも駄目ならば、命を懸けてでも談判しなければならないのです。

 準備のできていない説教をして恵みを与えられなかった時、ありったけの力を尽くしても駄目だった時は、振り返り、帰ってきて、ただただ大声で痛哭する時間がなければなりません。恥ずかしいのです。自分の恥ずかしさを知るべきです。そうしてこそ発展するのです。

 朝御飯を食べる時、新しく炊いた御飯を食べるでしょう。新しい味がしなければならないのです。説教するにも新しい説教をするべきです。霊的な面で新しい何か、保養剤とでもいうか、そのようなものを供給して、そこにつけ加えて説教しなければなりません。そうでなければ調味料を入れて酸味をきかせ、塩味をきかせ、さもなければ苦みでもきかせて新しい味を出さなければならないのです。

 恵みを与えられずに説教を1時間してきたならば、3時間悔い改めなければなりません。皆さん、それを知らなければなりません。説教がうまくできずに恵みを与えられなかった時には、3倍以上悔い改めなければならないのです。一つの生命のために命の水を与え、育てるべきなのに、水をやるどころか水を奪い、土を掘り起こしてきたとすれば、その責任を取らなければなりません。その人たちが帰ったあとで、きょうのみ言を中心として恵みを施さなければならないのです。

 聖日ごとに「聖書はどこを読もうか、賛美歌、出てこい、聖歌、出てこい」と言うのではありません。それではいけないのです。人にとっての生きた材料を中心として、聖書からそのような歴史を取り上げて、その人のことと聖書の内容を対照しながら興味深く説教するのです。そうすると聞く人は、自分の話なのですっかり引き込まれるのです。喜ぶのです。本を見てしようとしてはいけません。本も人から出てくるのです。人自体が本の原本だということを知るべきです。

 牧会者は苦労をたくさんしなければなりません。人生の修練をたくさんしなければなりません。かわいそうな労働者から乞食、あるいは高級官吏、あるいは権勢圏にある立場まで一度は経験することも必要です。そしてそのような状況を中心として、その時に公的立場で経験した事実などを取り入れた体験談には実感がわくのです。