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第三章 礼拝と教会生活礼節 : 三 教役者(牧会者)がもつべき姿勢 : 2.食口の指導は精誠によって |
教会員(食口)を慕うのも、初恋をするような心で慕わなければなりません。
核心要員は、夜を徹してでも精誠を尽くして育てなければなりません。そのように三日間精誠を尽くせば、その人は一生忘れることのできない恵みの因縁を結ぶのです。伝道対象者が夜遅くまでいて帰る時にも、帰らずにもっといてほしいと思うようであれば霊界が協助してくれます。
まず自分自身がみ旨に酔ってこそ相手にも伝わるのです。
先生が食口を育てるために千辛万苦したように、皆さんもそうしなさいというのです。夜に客が来たならば、ひざまずいて天の恵みを祈ってあげ、昼間に来た客には奥の間に通して自分の親戚よりもうれしい客としてもてなし、「私の家はこういう家です」という家風を立てなければなりません。そのような家風を立てるならば、その人は誰のために生きるでしょうか。他人をもてなす伝統をもった人たちが教役者(牧会者)を飢えさせるでしょうか。教役者を飢えさせておきながら恵みを受けようという人たちには、口に砂を入れてやらなければなりません。
夜を徹して話をする時も、楽しくすべきです。夜の十二時が過ぎて、夜中の二時、三時になり、「帰ったらいいのに。寝なければならないのに……」という思いがあると、みな逃げていってしまいます。明け方の三時、四時になっても「帰ってほしくない。時計が止ればいい」という思いがなければなりません。そのような場に因縁を結んでいけば、その人の霊は分かるのです。霊は申し訳なくて食事をするや否や、お尻は後ろを向こうとするのです。先生はそのようにしたのです。
誰に会うにしても、会っただけで終ってはいけません。天を中心として会った人ならばなおのこと、絶対にその因縁を忘れてはいけません。教会に来ていたのに来なくなったからといって切ってしまったり、呪ってはいけないということです。その人が離れて出ていったとしても、その人と結んだ因縁だけは捨ててはいけません。
もし悪いことがあれば、悪いことをすぐに処理するなというのです。悪いことがあっても、その悪いことが良くなり得る条件を探し求めつつ、それを保留にして処理し得る余裕をもたなければなりません。もし一年前に間違ったことを見て切ってしまったなら、その人は完全に死んだでしょうが、一年、二年、三年と切らずに保留にして、それを番外のことと考えながら処理するならば、一年、二年、三年以後にはその人が生き得る道もあるのです。
新しく入った食口を愛すれば、蕩減条件を早く立てることができます。教会が発展できない原因は、食口たちがそのようにできないところにあります。ですから、神様は、互いに愛し合い、和睦しなさいと言われました。
食口が離れて出ていったとしても、落胆してはいけません。不思議なことに、食口が一人出ていけば、その人と性格や話し方、歩き方まで似た人が来るのです。どの面から見ても不思議なほどに出ていった人にそっくりでありながらも、すべての面でずっと良い人が来るのです。そのようなことを考えると、精誠を尽くしたことは失われることがないということが分かります。これは間違いのない事実です。
教会の草創期に、韓国で食口を育てるときには眠りませんでした。一対一の作戦をしたのです。一人の人の前で講議をするにしても、千人の前で講議をするような思いでしました。その一人の人に数千、数万人がかかっていると考えたのです。どんな命令でも聞くことのできる、そのような人にするためには、それだけの精誠を尽くして、そうなるための動機をつくってあげなければなりません。
皆さんは、欽慕の心情をもった食口にどれほど会いましたか。先生は、そのような人にたくさん出会いました。地の果てからやってきて先生に敬拝するではありませんか。それはなぜでしょう。先生が地の果てまで愛の心情的な綱を投げたがゆえに、既に電気を通したので、方向が分かるからです。そうでなければなりません。
指導者になるためには、心から病人を治療する医師の立場に立たなければなりません。病んでいる人の心霊状態が下がれば、夜でも昼でも時間を問わず、共に涙しながら心霊を治療するために努力しなければなりません。それが霊的指導者なのです。皆さんは生命を救うために幾晩も夜を徹したことがありますか。生命を救うためにどれほど忙しく歩き回りましたか。そのようなことが今後霊界に行けば、表彰の対象になるのであり、人格的な基準になるでしょう。