第三章 礼拝と教会生活礼節 : 三 教役者(牧会者)がもつべき姿勢 : 1.教役者(牧会者)は公的でなければならない

 千人以上を率いる人は、霊界の鑑定を受けて立てられた人です。

 自信があって責任者になるのではありません。先生も「自分に自信がある」と考えたことはありません。自信よりも、神様が慕い、神様が訪ねるその人を慕うべきだということを知っていたがゆえに、いかにしてその心情をもって立ち上がるかということが問題でした。その心情さえ通じれば、できなことがありません。慕うその人をより高め、悲しむ人を慰労できる心をもつべきだということを知らなければなりません。

 真の牧者(牧会者)は、自分が真の牧者だとは言いません。いつも黙々と神様のみ旨とすべての万象を自分の心に抱いて進むのみであり、自分の立場を弁明しないのです。

 公的なことのために疲れも忘れて走り、いつ寝たのかも知らずにぐっすりと寝て朝起きると、体がどれほど軽いか知れません。そのようなことを思うと、「ああ、天に行く道はこうして行くのが原則なのだ」と思われます。ところが「ああ、きのうは三時間しか眠れなかったからきょうは五、六時間寝なければならないのだが」と思いながら寝て起きると、腰が痛く、体中がとても重いのです。ですからそのように思ってはならないということです。

 責任者は、いくら疲れても先に横になるのではありません。みんなを寝かしてから横にならなければなりません。祈祷する時も一番最後までしなければならないし、信仰生活をするにおいても食べられず、いいものを着ることもできず、貧しいながらも精誠を尽くさなければならないのが責任者の立場です。そのようにすれば、「滅びよ」と言っても滅ぶことができないのです。

 先生は精誠を尽くす人の前ではどうすることもできません。今まで教会を指導してきながら、二人の人がいて、その二人のうちどちらが優秀かという問題を解決すべき時は、顔の良し悪しを見るのではなく、心がどこに向いているかを見ました。すなわち、私的であるか、より公的であるかを見たのです。

 朝第一歩を踏み出す時も、公的な一歩であるか、私的な一歩であるかを反省しなければなりません。そして一日の仕事を終えて床に就いた時も、公的な一日を送ったのか、私的な一日を送ったのか反省しなければなりません。また、一年を中心として公的な生活をしたか、私的な生活をしたか、一生を中心として公的であったか、私的であったかを反省しなければなりません。

 公職に就いている人はかわいそうです。もてる精誠を尽くしたのに、仮にみ旨の前に誤って、自分のせいで千年の功績が駄目になってしまったらどうなるでしょうか。そんな心情で生活しているのです。

 過ぎゆく歳月とともに流れていってはいけません。新たな日に備えて前進する群とならなければ、荒野ではげたかの餌食となります。私たちは歴史的開拓者だという事実を知らなければなりません。開拓者は困難な環境を突破して、あすへと向かう希望の前に準備体勢を整えて進むべきです。

 いったん責任を負ったならば、次は戦闘です。闘争です。お前が負けるか、私が負けるかという戦いをしなければなりません。皆さんはその戦いで、皆さんの一代で少なくとも三人以上、反対する立場にいる人を自然屈服させ得る基盤をつくらなければなりません。

 皆さんはまず理論に対する知識をもち、次に、できるという信念をもつべきです。自分の考えが及ばず、自分の信念が及ばなければ、自分のものにならずに人に奪われやすいのです。しかし、自分が実践してつくった基盤、根をしっかりと張ってできた基盤は、それ以上の力を加え、それ以上の信念を加えない限りは、絶対に奪われることはありません。

 責任をもつ前に、どのような心をもたなければならないでしょうか。責任を負えなければ命に替える、という信念をもたなければなりません。そのようになれば、問題の核心を解決する解決点が生じるのです。

 「人間としてできる限りの最大の努力をしました。夜も昼も心のすべて、精誠の限りを捧げました」と言うことのできる立場、天が見てもそれ以上できないという立場でそこを去る時、たとえその人がすべてを成し得なかったとしても、天は成した価値以上に報いてくださるのです。皆さんはそれを知らなければなりません。

 教会長はその地方の祭司長です。寝られなくても、恵みを祈ってあげなければなりません。多くの人を救うために祭物を扱うのですから、精誠を尽くす苦労をしなければなりません。祭祀には実体(教会長)と主人(神様)が一つとなって初めて、返ってくるものがあるのです。

 祭祀は、誰が管理するのでしょうか。祭司長が管理します。客が管理をしてはいけません。それゆえ公的な和合の場を重要視しなければ発展することができません。

 祭物の前に立った人たちは頭を下げなければならない、というのが天法です。その祭壇には神様が臨在して干渉されるのです。心情的に私は、きょうこの祭壇の前に情熱とすべての力と努力を捧げきり、自分の生涯で最高の誠心誠意を尽くして口を開くとき、神様が協助されるのです。祭物は深刻な立場で捧げられるものなのです。

 一生の間、嫌になるほど食べて、笑って、踊って生きたのちにお墓に行けば、福となることが何かあるでしょうか。そのような人のお墓には草が生えるだけですが、国のために血を流して死んだ人のお墓には、その国が生きている限り花が咲くことでしょう。

 統一教会の先生になるのは易しくありません。それは罪人のように、囚人服を着て死刑場への道を歩いていく、そんな気分で歩んでいる人だというのです。皆さんは刑務所生活をしたことがないので分からないでしょう。豪華な家に住んでいますが、私はその家を必要とする人ではありません。私は草屋にも住める人です。草屋にも住めるように訓練されています。服を脱いで、それを持って労働の場に行けば一等労働者になれる、そのような訓練をした人です。そこに神様が愛する人がいれば、私が行って抱き締め、環境をすべて収拾してこそ涙を流し、友達になれる、このような心情的な訓練をした人なのです。