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第三章 礼拝と教会生活礼節 : 二 礼拝は神様に最高の敬意を表す儀式 : 1.礼拝時間は神様に出会う時 |
安息日を聖なるものとして守る目的は、神様が願う国を建て、人類を救うことでなければなりません。キリスト教が安息日を守ってきたのは、この日を聖なるものとして守ることにより自分自身が昇華され、自分自身を思う、すなわち救いという目的に重点を置いたためです。私たちが安息日を守る目的は、自分の救いの道を促進することでもありますが、さらに進んで全体を救い、今後神様の摂理である国と世界を救うという目的に、より重点を置いているのです。これが、より高い責任をもつ神様の願いであることを知らなければなりません。
礼拝を捧げる時間は、祭祀を捧げる時間です。自分の過去を贖罪しなければなりません。ゆえに礼拝の時間は、自由のない時間です。
礼拝時間は、押し寄せるいかなるサタンの権限も防ぎ止め、父の前に勝利の栄光をお返しすることを約束する時間です。
礼拝を捧げる時間は、怨讐と一騎討ちをするよりも深刻な時です。
礼拝の時間に早く来た分は、神様のために捧げた時間となりますから、千金、万金を出しても買うことのできない価値があります。礼拝の時間は神様に捧げる時間であるために、その時間に遅れることは神様から盗みをすることと同じです。礼拝には決められた時間に来なければなりません。そうすることによって、それだけ神様の前に面目を立てることができます。そうなれば、きのうよりも良い心をもって天の前に近づくことができますが、遅れて来て、祈祷するときも目をパチクリさせながら、「先生はきょうどんなみ言を語られるか」と座っている姿を見ると、惨めで仕方がありません。
神様の前に出て侍る場に、礼服を着ないで参席できるでしょうか。目に見える礼服ではありません。心情の礼服です。このように集まった皆さんのその心から、み言とともに賛美とともに感激した心情が流れ出てきたならば、天は皆さんを通して役事されます。堕落した人間がエデンの園から追放されたとき、涙を流しながら追われましたが、皆さんは涙を流すとしても、喜びの涙を流しながら、笑い顔で神様に会わなければなりません。悲しみの涙も流したことのない者が、喜びの涙を先に流してはなりません。
礼拝時間のために、三日前から心を焦がして準備しなければなりません。万民の幸福を祈り、万民を蘇生させるための復活の権限と生命の因縁を結ぼうと苦悶しながら教会に入らなければならず、神様の前にのどの詰まるような心で礼拝に参席しなければなりません。それでも足りないのに、皆さんは行商人よりもずうずうしいのです。
主日(聖日)礼拝の時は沐浴斎戒して神様の前に敬拝をして、聖地へ行って祈祷しなければなりません。たとえ訪ねてくる人がいなくても、神様がその部落を照覧されて役事することのできる心情的な基盤をつくっておかなければなりません。神様の前に一人祈祷し涙するという立場は、絶対に孤独ではありません。神様が共にあられるので、絶対に寂しくはないのです。皆さんが三年以上精誠を尽くしたにもかかわらず、その町で訪ねてくる人がいなければ、その町は滅びるのです。
礼拝に来るにしても、ただ何も考えずに来るよりも、見えない心を尽くして一日、二日と、精誠を尽くした時間が長ければ長いほど光るのです。ですから見えないものが多いほどに、天が自分を保護し守ってくれるのです。妻が、目には見えない心で一日中夫のことを思った上で、目に見える顔で、口でほほえむと、光るというのです。栄光の光がです。その笑顔には、夫を引きつける魅惑的な力があるのです。同じような道理です。
今後は礼拝をするにも説教形式ではなく、報告形式でしなければなりません。報告の内容は、その家庭が誇ることのできるものでなければなりません。ですから家庭全体が来て、礼拝を捧げなければならないのです。そうして良い家庭があれば、見習い、あまり良くない家庭があれば、うまくいくように導いてあげなければなりません。そのようにして、家庭天国を建設するのです。先に家庭天国をつくることができなければ、地上天国はつくられないということを確実に知らなければなりません。
まず、教会生活を徹底しなければなりません。そのためには、公式的な礼拝時間を厳守しなければなりません。公式的に参席すべき時間を守る模範とならなければなりません。
天の前に出るときに、約束は絶対的に厳守しなければなりません。約束を守らない人が、どうして恵みを受けることができるでしょうか。そのような人は、途中でやめてしまいます。途中でやめてしまうというのです。今後、先生は皆さんが動くとおりに指導します。嫌だったらおやめなさい。誰が滅びるか見てみようというのです。
聖日の公的な集会に出席する模範とならなければなりません。礼拝に来るとき、子女たちがうらやましがってついてきたがるように、夫婦が一緒に仲良く来なければなりません。十時前に教会に来て、聖日の準備をしなければならないのです。
礼拝時間はサタンと闘う時です。一騎打ちする時なのです。それなのに眠っていていいでしょうか。そういう人がいれば、揺すって起こしてあげなさい。「サタンよ退け」とイエス様がペテロに言ったように、横腹を一発たたきなさい。それは愛なのです。先生は礼拝の時に居眠りをする者がいれば、そのままほってはおきません。
精誠を尽くすべき人が、礼拝時間に遅れてもいいでしょうか。そのような人は、恥ずかしくて顔も上げられない、罪人の中の罪人だという思いをもたなければなりません。そして、今後は時間をきちんと守ることを誓って、人よりも多くの精誠を尽くさなければなりません。時間も守らずに「ああ、天よ」と言うことができるでしょうか。精誠は、人に知られるように尽くすのではありません。教会に来て精誠を尽くそうとするならば、車に乗ってくるのではなく、歩いてこなければなりません。ここに来て祈祷をするのではなく、祈祷して来て、もっと懇切な祈祷をしなければなりません。精誠というのは、このようにして尽くすものなのです。
天は懇切に慕い苦労する人に対されます。誰でも訪ねていったからといって対してくださる天ではありません。ですから時間だけは絶対に厳守しなければなりません。今後、時間を守らなければ前に立たせて恥をかかせます。
本来は礼拝時間が過ぎれば戸を閉めてしまわなければなりません。遅れてきた人を集めて話たくありません。このような皆さんを集めて、ある基準まで引き上げようとして二時間、三時間話をするのです。そうして初めて、私が天の前に祈祷し、覚悟した心情的な基準と、つながれるのです。
神様の前に出ていく上で、時間というのは何よりも重要なものです。時を知らなければ滅びるのです。時を逃せば滅びるのです。神様は極めて聖別された環境を要求し、聖別された心を要求するのに、時間も守れずに後ろの方で賛美歌を歌っているのです。天はそのような賛美を願われません。
公式的な礼拝の時間を守らなければなりません。分かりましたか。そうすれば間違いなく発展します。