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第三章 礼拝と教会生活礼節 : 一 教会に対する正しい認識 : 2.教会は家庭の延長である |
「私は誰々のために教会へ行く。私は愛する息子、娘のために教会へ行く。愛する夫のために、妻のために教会へ行く」と言う人は、みな乗り越えていくことはできません。誰のために教会へ行くのかというと、神様のために行くのです。神様を私の神様として侍るために、神様の愛を私の愛として得るために教会に行くのです。
公的な教会は、自分の家よりも貴いものです。
天国は教会を通して連結されます。すなわち、家庭は教会を通さなければなりません。それゆえ、教会は家庭が勝利するための基盤であり、家法を結実させる所であり、人格の認定を受ける所であり、天国生活の訓練場です。
顔が良くて若くなければ伝道ができないというのですか。とんでもありません。教会は家庭の延長です。家庭の延長であることを知らなければなりません。おばあさん、おじいさんがいなければならないし、おばさんがいなければならないし、おじさんがいなければならないし、若い人もいなければならないのです。教会に若い人しかいなければ荒廃します。これを早く是正しなければならない、というのが先生の考えです。 年上の人に侍ることができなければなりません。おばあさん、おじいさんは神様の代わりであり、お母さん、お父さんは父母であり、自分と息子、娘まで四段階なのです。おばあさん、おじいさん、父母、私、こういう段階で見ると三段階です。この運命圏を外れることができないのが人生だというのです。おばあさん、おじいさん、お父さん、自分たち夫婦、息子、娘、三段階は線を四本引いて初めて三つの段階ができるでしょう。七数の基準なので、これを結び合わせなければ三段階はできないのです。これを結ばなければ、すべてが勝手にばらばらになります。三段階ができるにはこれを結ばなければならないのです。
教会生活で神様から公認を受け得る立場に立っていない人は、社会生活において神様に代わる生活をすることはできません。内的な教会生活で、神様の公認を受けるかどうかが問題です。ところが今、皆さんの教会に対する観念について考えてみると、教会で集会するその時間がどれほど貴いかを忘れています。教会の公的集会に対する観念が希薄なので、み旨の進んでいる方向に対しても希薄になるのです。内的に自分がどういう立場に立ち得るかを確実に知らないがゆえに、外的基準も確実ではないのです。
教会生活は良くできても社会生活は良くできないという人もいれば、社会生活は良くできても教会生活は良くできないという人もいます。このような点から見ると、社会生活は良くできても教会生活が良くできない人は、実を結ぶための要因とその内容がありません。教会生活は良くできても社会生活が良くできない人と、社会生活は良くできても教会生活が良くできない人とでは、どちらのほうが良いかというと、教会生活が良くできる人のほうがいいのです。結実の要因をもった人は、あすの希望をもって動いていくことができますが、結実の要因をもっていない人は、結実と関係を結ぶことができないのです。
皆さんは血統を通して神様の息子、娘であることを証し、真理を通して神様の息子、娘であることを証し、生活を通して神様の息子、娘であることを証し、仕事を通して神様の息子、娘であることを証し得る基準を求めて立つことができなければなりません。この基準を求めることができないならば、教会に来て信仰生活をしていても、それは小間使いのすることにすぎないのです。
家庭と教会と社会の三角圏を中心として考えると、皆さんは家庭を中心とした思いが強いですか、教会を中心とした思いが強いですか。それとも社会を中心として自分が出世しようという思いが強いですか。皆さんはどの思いが強いかを考えてみてください。神様は、どのような人に協助し同情するでしょうか。教会を考えるというのは、神様に代わって人を愛することなのです。そして人を救うことなのです。
人格者となるためには、組織的な訓練が必要です。集団的な教会生活を通過しなければなりません。すなわち、全体的な理念や制度に通じることができるかが問題です。そのような関門が、教会になるのです。
皆さんが今まで習慣的に生きてきた社会生活全体と、教会を中心とした生活全体を考えて、どちらが内的であるかというと、教会生活が内的です。それでは皆さんは、どれほど内的生活の価値の基準を立ててきたでしょうか。ある人は、み旨を中心として行くと言いながらも、「私がこうすることがみ旨になるだろう」と勝手に考えます。そのようなところに神様は、いることができるでしょうか。
統一教会に反対する人が教会で御飯を食べていったとしても、笑いながら送りなさい。食べ物をけちってはいけません。統一教会員ではない人が来て御飯を食べたからといって、「なぜ食べるのか」と言ってはならないのです。先生がこのようなことを言うのは、今まで八道江山(国中)の誰もが、統一教会員はもちろんのこと、統一教会員ではない人も、ここに来て御飯を食べたことのない人はいないと思うからです。
人が最も好むのは赤ん坊であり、最も嫌がるのは先の短いおじいさん、おばあさんです。極と極です。天の運動とはどのようなものかというと、極と極を包括するための運動ではないかということです。子供と一つになろうとして、おばあさん、おじいさんが杖をついて来ては、遊んで御飯を食べていったり、そうなればそこは栄えるのです。皆さんがおじいさん、おばあさんの友達になり、おじいさん、おばあさんは皆さんに夢中になって夜も眠らず、自分の家の良い庭や、床の間、鯨の背中のような(とても大きく立派な)家をさておいて、教会の板の間で寝るというようになれば、そこ、その団体、その人がいる所はどんどん栄えるというのが原則なのです。
おばあさんが「ここに教会長はいるか」と訪ねてきた時に、遠くから見て「いないよ、いない」と言えば罰を受けます。「教会長は出掛けたけど、おばあさん何の用。年寄りのおばあさんは要らないよ」と言ってごらんなさい。神様が御覧になって「こいつ、お前はどこから来たのか」と引っ掛かるのです。年を取ったおばあさん、おじいさんを否定するということは、お母さん、お父さんを否定することです。ですから年を取ったお母さん、お父さん、おばあさん、おじいさんを良く奉養してこそ、孝行者なのです。
ある男性が、気の合わない女性と結婚しておもしろくない生活をしていて、楽しく暮らしている家に行くと、その家の人が本当に幸福に思われるのです。だからといって二度結婚しろというのではありません。幸福になるためには教会が必要なのです。人は刺激を受けなければなりません。刺激というのは、いつもいるところに来るのではありません。対比されるところから刺激は来るのです。天だけでは天になることはできません。地があってこそ天となるのです。それゆえ、すべてのものはみな相対性をもっているのです。