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第一章 神様に対して侍る礼法 : 一 神様に侍って生きるべし : 2.一体となった生活をしなければならない |
すべての宗教では見るものをむやみに見ないで、聞くものをむやみに聞かないで、言うことや対するものをむやみにするなと言います。見るのも、聞くのも、言うのも、感じるのも、愛するのも、すべてが神様を中心としてしなければならないのであって、自分を中心としてはいけないということです。
皆さんは神様に侍る者として、うれしい時に神様をどれほど喜ばせましたか。皆さんがおなかがすいた時に御飯を食べながら感じる有り難み以上に、神様に侍ってさしあげましたか。皆さんはいいものを食べる時や着る時、そして悲しい時や大変な時にも、いつも神様に侍らなければなりません。そうすることによって、神様の心に覚えられる理由を残さなければなりません。
私の意識と直感と感覚器官一切まで父のものであり、私が感じ意識する全体が父のものだという観が決定されなければなりません。そのようにならない限り、心情を通じて動く天を所有することができないということを、はっきり知らなければなりません。
人間は誰でも、心情的に神様と一つとなるようになっています。お父さんである神様と子供の人間は、正に心情で連結されています。
私たちが話をし、見て、感じ、また感情的に体感する一切も、神様を中心とした因縁をもったものでなければなりません。
私たちは神様に侍り、父母に侍って生きるのです。話をするときも、行動をするときも、寝ても覚めても侍る生活をしなければなりません。このようなコンセプトさえもてば、二十四時間サタンが侵犯することは全くありません。
朝、寝床から起きて初めの言葉を天の前に捧げ、家を出る時も、第一歩を右足から踏み出し、天の前に捧げなければなりません。平素の習慣がこのようになれば、皆さんの生活は侍義生活になり得るのです。このような観点で、皆さんは原則的な基準で生活態度を取っていかなければなりません。
私たちが朝起きて感じるすべての感覚、動作が一つの目的を中心として、いつも直線上に帰一できなければなりません。その点を喪失すれば、み旨と私とは関係を結べないということを否定できません。
天国は、侍る生活をしたことを誇るところです。それなら天国とは、どのような者が行くところでしょうか。主を信じて福を受けるために、福を先立てていく者が行くところではありません。天国は、侍るために心情的に準備する生活をした者たちが行くところです。準備する期間に死ぬとしても、侍る生活を残して喜んでいくことのできる者が行くところです。そこに復活があるのです。
今は三合(神様、真の父母、皆さん)が一致しなければなりません。歩調を合わせなければならないということです。生死の決定的内容がかかっているので、三者が一致する点で一つにならなければなりません。その点に生命の復活圏があります。その点が、真の父母と皆さんが一つになって一致できる連結点です。そこで一心統一が起こるのです。ですから、皆さんは、み旨と一致した生活をしなければなりません。
一日二十四時間の生活圏内で私が見聞きしたすべてのことは、何のためでしょうか。神様のためです。神様のために見たり聞いたりしなければならないし、感じるのも神様のために感じなければなりません。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。
毎日のように慕わしく思えない人は、神様に侍ることはできません。皆さんは誰を慕うとしても、いつも慕わしさに浸っていなければなりません。しかし、夜十二時になると「では、寝よう」と言う人は神様を心配させる人です。心情の因縁を抱いて出る時、夜が問題ではないというのです。
本来神様と完全に一つになったのちには、私を中心として生き、私を中心として考え、私を中心として愛するのが原則です。その時は自分を中心として考え、自分を中心として愛しても、それは神様を中心とした考えになり、神様を中心として愛することになるのです。それが原則だというのです。
お父様である神様に出会うために、神様と因縁を結ぶために、どれほど精誠を尽くしたかということが自分の財産です。
皆さんは涙の谷間で父を呼ぶ時、応答を受けることができる息子、娘にならなければなりません。涙を流す場で「お父様!」と言う時、「おお、私がここにいるから耐えなさい」と、血と汗を流す苦痛が染みる場で、「お父様よ」と言う時、「私が忍耐したのだからお前も耐えなさい」と、死が迫りくるその瞬間にも、「私がいるから安心しなさい」という言葉を聞くことのできる皆さんにならなければなりません。そのような場でどれほど父に侍り、どれほど父と共に相談し、どれほど父と共に生きたのかということが問題になるのであって、栄光の場では父をいくら呼んでも問題にならないというのです。なぜならば、まだお父様が栄光の日を迎えておられないからです。
「ああ、おなかがすいた。ああ、御飯御飯御飯!」と言いますが、それは誰のために食べるというのですか。神様のために食べると、そうでなければなりません。どのようにすれば神様のために食べることになるのでしょうか。私が神様の完全な聖殿になったならば、「神様の聖殿である私がおなかがすけば、中におられる神様が御飯を食べようと言う」このように考えなさいというのです。分かりましたか。そのように御飯を食べれば、その御飯は聖なる御飯になるのです。御飯が御飯様になるのです。