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第一章 忠孝の意義 : 二 聖人、聖子は忠孝の完成者 : |
大韓民国は、忠孝思想が本当に素晴らしいのです。それでは、大韓民国の民は、大韓民国に対してだけ忠誠を尽くせば良いのでしょうか。これが問題です。日本人は、日本の天皇に対してだけ忠誠を尽くせば良いのでしょうか。ドイツ人は、ドイツの主権者に忠誠を尽くせば良いのでしょうか。あるいは、アメリカの国民は、アメリカの大統領に忠臣の道理を果たせば、すべて通じるのでしょうか。違います。通じません。
大韓民国の国民に「あなた方は聖人になりますか、忠臣になりますか」と尋ねるとき、「今、大韓民国は忠孝の道理が中心なので、、聖人のことは分かりません。忠臣になろうと思います」、これではいけません。
忠の道も重要ですが、誰においても聖人の道理を行かなければならない道が残されているので、聖人の道を行こうという新しい国民がいるとすれば、その国民は、世界の福を人類の前にもたらすことができる人々となります。
忠臣とは何かというと、忠臣は、その国家の福をすべて国民の前にもたらしてくれるのです。孝子とは何かというと、その福を家庭にもたらしてくれる人です。それを知らなければなりません。
愛国者である忠臣と聖人では、どこが違うのでしょうか。忠臣とは、自分の国のために生命を捨てる覚悟をし、公的にすべてのものを投入していく人のことをいいます。
聖人とは、自らの民族を超えて世界人類のために生き、さらにはより公的な神様のために生き、世界人類に対して、その前で忠孝の道理を果たすために、いかなる孝の道、いかなる忠の道よりも、それ以上に尽くさなければならないと決意して立ち上がった人です。それをなすために、忠臣の位置を捨て、自分の国の国王を捨てていこうという人です。
国王がその手をつかんで「あなたが行けば、我が国は滅びる」といくら頼んだとしても、国王の立場を考えずにそれを捨て、世界に向かって聖人の道理を全うするようになれば、その国王に対して世界にない忠臣の道理を果たすこと以上の価値を、天から認められるようになるのです。
愛国者の中には数多くの孝子が入っています。孝子になったとしても愛国者になることができなければ、それは、愛国者の隊列に上がっていくことはできません。しかし、孝子になることができなかったとしても、愛国者になる時には、自動的に孝子の班列に上がっていくのです。
そのような意味で、聖子の位置に立てば、聖人を統治することができます。孝子となることができず、愛国者となることができず、聖人となることができなくても、聖子の位置に立てば、すべてのものはその下に抱かれるのです。しかし、聖子となる道は、それほど易しい道ではありません。愛国者の中の最高の愛国者となることができる困難の峠を克服した歴史をもった人とならなければならず……。
孝子ならば孝子として、愛国者ならば愛国者として、聖人になる時まで、あらゆる困難を経て、それ以上の立場で克服することができる自主力をもったその基盤において聖子の道理が連結されるのです。そのような過程を経ていない人は、短時日のうちに世界的迫害を受けなければなりません。
人に絶対必要なものは、孝子の道理、忠臣の道理、聖人の道理、聖子の道理です。堕落したので、聖人が必要です。聖子の道理を完成するのです。
それゆえに、神様のすべての相対圏は、私から、天、世界、そして私たちの家庭まで連結することができるのです。それは、生きている間に成し遂げなければならない道です。完成する道です。国についていえば、国王は、父と母の骨です。そこに接ぎ木して大きくなろうというのです。私が家庭をもたなければ、国の前に立つことはできません。また家庭も、国がなければ、サタンの国の前に破綻するのです。
愛の生命力がそのまま通じる家庭を愛することが孝子の道理であり、国の生命力を中心として愛することが忠臣の道であり、世界の生命力と愛を連結していく道が聖人の道です。このように見るとき、このような方向を通して人倫道徳を教育してきたという概念は、確かだというのです。それが正しかったことを知らなければなりません。世界を愛することが聖人の道理だ、ということを知らなければなりません。
これが、人倫の道徳教育の標準となってきたのです。それが間違いでなく正しかったということを、ここから見いだすことができるのです。
人間世界で生きる時、愛を中心とした孝子が最初の円であり、忠臣はその外側の円です。これが大きくなっていきます。小さい時は、これは小さいのですが、大きくなっていくのです。この円が、聖人はもっと大きく、聖子はもっと大きいのです。ですから、これをきちんと並べれば、その一点は孝子です。孝子が最初です。その次に忠臣、聖人、聖子、この四段階です。
その中心は垂直です。垂直を中心としています。すべて中心は一つです。二つではありません。愛は中心が一つです。それゆえに、父母の前における孝子は地獄に行きません。国の前における忠臣は地獄に行きません。救世主を信じなかったとしても、それは、自然に収拾するようになっています。ですから、聖人は地獄に行きません。
すなわち、この話は、孝子になれなかった人は、忠臣にはなれないという話です。それでは、孝子になりたいと思っても、父母がいなくなればどのようになるのでしょうか。孝子が良いというのですが、自分に父母がいなければどのようになるのでしょうか。大変なことです。「神様、私に父母を下さい!」と言っても、天地の道理はそのようにはなっていません。父と母が死ぬこともあり得るのです。
そのようになれば、孝子になりたいと思っても、なることができるでしょうか、できないでしょうか。なることができない時には、どのようにするのでしょうか。忠臣、聖人になりなさいというのです。聖人の位置は、孝子や忠臣の位置よりも勝っているのです。
父母を愛し、息子、娘も愛するのが孝子です。それは、最初のページも愛であり、過程も愛であり、最後の結論のページも愛です。家庭は、核となることはできません。家庭の核の上には国がなければなりません。国の核は何かというと、忠臣の道理です。それはどういうことでしょうか。国を愛しなさいということです。
忠臣、聖人、聖子、これらはすべて核は核ですが、何を根拠として核になっているのでしょうか。それが愛だということを人間は知りませんでした。しかし、漠然とそのように立ててきたということは、今後、終わりの日の時代に定着し得る安定点は、愛以外にはないということを意味しています。
それゆえに、男性と女性の夫婦同士で愛する人こそ、孝子になるのです。孝子になり、忠臣になるのです。忠臣になり、聖人になるのです。聖人になり、聖子になるのです。
聖子になって、すべての相続権をもつのです。このようにして神様の息子になれば、神様も私のものになり、それから神様がもっているものも私のものになり、今後、神様が創造することのできる希望的な未来のものも私のものになるのです。
聖子の位置に立ってこそ、過去と現在と未来のすべてのものを伝授してもらうことができます。そこにおいては、被造万物は頭を上げて抗議することはできません。そこにおいて初めて、統一天下をうんぬんすることができるという結論が出てくるのです。
私たちが人生行路をどのように歩んでいくべきかという問題について整理してみるとき、孝子が行く道、忠臣が行く道、聖人が行く道、聖子が行く道の、その骨子とは何でしょうか。
永遠に共に暮らしたいと思うことです。そのような人々は、上下で共にいたいと思い、前後や左右で、昼夜を問わず、生涯を越えて共に暮らしたいという思いが心の奥深くまでしみ込んだ人々ではないでしょうか。このような推理的な結論が出てくるのです。
それでは、皆さんは、神様の前に何にならなければならないのでしょうか。第一に、孝子にならなければなりません。第二に、忠臣と愛国者にならなければなりません。忠臣と愛国者の上は何でしょうか。聖人です。
孝子とは、家庭において、父母の前に絶対的な忠誠を尽くす人です。愛国者とは、国に対して絶対的な忠誠を尽くす人です。それでは、聖人とはどのような人々でしょうか。イエス様や釈迦や孔子のような人々です。彼らは、自分自身を主張した人々ではありません。
神様を主張した人々です。神様を中心として生きた人々です。
また彼らは、人間たちに被害を与えた人々ではなく、利益を与えようとした人々です。また彼らは、国家主義者ではなく、世界主義者です。