第四章 神様に対する忠孝 : 二 神様を感動させる絶対忠孝烈 :

 ノアじいさんは、迫害が激しく、乱れた環境の中でも、渾身の力を出したので、その環境に勝つことができました。神様の法度の前に、子女として忠孝の道理を果たすだけだ、という謙虚な心をもっていたのです。
 神様の前に行けば行くほど、環境の非情さを感じて悲しみましたが、そのような時であるほどノアじいさんは、神様に申し訳ない心で悔い改めの涙を流していったので、彼が行く道を妨げる者はいなかったのです。
 そのようにして120年間を過ごしてきたノアを一度考えてみてください。ノア一人に対して、サタン世界は、打つことができるすべての方法を動員して反対しましたが、神様が中心として立てられたその基準から、ノアは少しも外れることがなかったのです。その基準は、天宙の絶対的な中心として立てたものであり、宇宙の正義の人間として立てたものであり、真の勝利者として立てたものです。
 それで、神様は、この基準に反対になるすべての怨讐の要素を清算しようとされたのです。

 生きるためには、皆さんが一生の間、忠誠の道理に変わることがあってはならないというのです。環境が自らの立場と自分を評価すれば評価した分だけ、私たちの舞台は世界へ拡大されるというのです。今日、国内事情を中心として身もだえしていますが、環境が平安ならば平安なほど世界を中心として身もだえしなければなりません。世界のために行かなければならないというのです。
 それで、世界のために忠誠を尽くす神様の息子、娘をお迎えして、神様が祝福してくださり、神様が誇ることができるその日を迎えなければなりません。そのようにしてこそ、初めて韓国に安息が展開するというのです。皆さんが、三千万民族が世界のために中世の道理を果たして、世界万民が「韓国によって自分たちも神様の息子、娘になった」と言って忠誠を尽くすことができる環境の基台を迎えるようになる時、初めて韓国に安息の基台が展開するというのです。

 今まで大韓民国のために、神様が苦労してこの歴史的な環境をつくっておかれ、あるいは今日、時代的な時を私たちが迎えるようにしてくださり、そして今その時が来たとすれば、ここで忠誠を尽くす牛のような人々が出てこなければならないというのです。
 牛のような人です。アブラハムの祭壇の中に三大祭物がありますが、一つは鳩であり、一つは羊であり、一つは牛です。今の時は、象徴的な型から見れば牛の時代です。牛の時代だというのです。神様は牛を好まれるのです。
 牛の時代! 捕まえて食べるために好まれるのでしょうか。牛を好まれるのは、肉を食べるために好まれるのではありません。農夫が牛を好むのも、未来に食べる肉の塊が集まっているから好むのではなく、働くからです。働かせて、肉を食べて、また食べて食べて、さらに食べるというのです。そのようになっています。
 それでは、神様の息子になるためには、何にならなければなりません。豚にならなければならないでしょう? (いいえ)。象徴的に言えば、その方が大王の牛のような忠誠と至誠を人間のために尽くされ、子女のために尽くされたので、今日の私たちも、牛のような方の前に子女になるためには、牛の子のようにならなければならないというのです。
 だからといって、牛の子になりなさいという話しではありません。例えて言えば、そうだというのです。

 この全天地間に、私よりも天の前に忠誠を尽くす人がいるならば、その人は誰か、東方か、あるいは西方か、どこにいるのか、これが気にならなければなりません。
 忠誠を尽くす人がいれば、その人はどのような人なのか、気にならなければならないというのです。どのように忠誠を尽くす人なのか、その人はどのようなことをする人なのか、そのようなことが気になるべきだというのです。

 神様のために忠誠を尽くすことにおいては、一歩も譲歩できないという信念をもたなければならないというのです。どのような人、どのような忠臣、誰よりも私がより一歩、わずかでも先んじなければなりません。地上で生きていった霊人たち、地上で一生懸命に仕事をしていった霊人たち以上に、その人々が国のために忠誠を尽くして、すべての公的な仕事に一生懸命に働いたそれ以上に実践しなければならないというのです。わずかでも多くしなければなりません。鉄則がそうなのです。

 僕の時代において絶対的な忠誠を尽くし、養子時代において生活面で絶対的な忠誠を尽くさなければなりません。このように二代の環境を経ることなくしては、養子として神様の直系の子女と一体となることができる基準を決定できないのです。
 一つになることができる基準を決定できないというのです。地の世界を中心として天の世界との関係を結ぶことを、世界を代表して最初にした民族が第三イスラエル民族になるのです。

 皆さんが待つ心をもって耐え、その環境において、すべての恨的な要件を皆さんの一心で蕩減、解怨しようと思って苦闘しなければなりません。そのような人は、倒れず、滅びないということを皆さんが銘記しなければなりません。倒れて、今ではもう主の前に行く道がないと考えても、天は生きているというのです。
 天は今まで耐えてきたので、そのような立場で精誠を尽くし、忠誠を尽くしている途中で倒れたそのような群れは、再び起こして天の前に祈祷だけでもし得る道を開いてくださるのであり、また今から生きて進んでいく方向を提示してくださるのであり、また彼らを起こして協助することができる人を送ってくださるようになるというのです。

 神様が御覧になる時に、民族の内的心情を泣かせることができ、天宙の内情を貫徹することができる人にならなければなりません。神様と通じることができる愛情を持ったその孝子、孝女は、深い悲運が漂う立場でも、その悲運の主人公になった王ならば王、父母ならば父母の心を解いてさしあげ、その背後のすべてを一人で防いで解決しなければなりません。このような忠孝の因縁をもった人が天国に行くのです。
 イエス様を信じて一人で天国に行くという人は、天国どころかエデンの園にも行くことができません。このような人々に今まで悪口を言われて迫害されてきたことは無念で悔しいことですが、だからといって銃刀で復讐してはいけません。

 皆さんが文字を書くときに、点を一つ書くにしても、その時の心の姿勢いかんによって喜ぶことができます。また、その一点が希望の象徴になり得るというのです。
 それゆえ、天地を創造された神様がいくら小さな物をつくられたとしても、それは神様の孤独な立場を埋めて喜びを得るための対象なので、それは、神様の前においては最高の喜びの対象になるのであり、忠孝の要件にならざるを得ないのです。ここで私たちは、神様が、つくったものを鑑賞されながら、これは抜いてこれを加えればどうかという希望の中で、いつも喜びの心をもってお過ごしになったという事実を知ることができます。

 誰が神様を解放してさしあげるのでしょうか。忠孝の道理を誓って孝誠の道理を尽くす、限りなく最善を尽くす孝子が現れて、その方のすべての十字架の恨に責任をもたなければなりません。そのような息子、娘が現れなければなりません。
 そうでなければ、神様は解放されないということを皆さんは知らなければなりません。

 私を見て勇気を出され、悪なる世界を押し倒そうと思いながら立ち上がることができる神様になるとすれば、その瞬間には神様の活動舞台が自分によって生じます。それは、自分にとってどのような貴い位置、王座、栄光の位置において、一生ではなく、いくつもの生涯にわたってそれ以上のものをプラスしても達し得ない、王からの喜びの贈り物なのです。
 歴史を越えてまで迫害に対して自分が対抗する、それが永遠の歴史を代表した孝子、孝女が行くべき道ではないかと思うのです。
 それが永遠の国に対しての忠誠の道ではないかというのです。

 結論的に神様は、絶対家庭、絶対忠孝を願われるのです。今までそのような絶対的な忠孝が出てきませんでした。絶対聖子、神様の息子のような世界的な基盤がなければ、神様が地上に降臨できないのです。神様お一人では、地上で何の役事もできません。ですから、私たちは、「悲しい神様、かわいそうな神様だ」と言うのです。
 今から、レバレンド・ムーンを中心として、ヨーロッパのメンバーが初めてそのような家庭を築くということは、驚くべき事実です。誰でもみな忠孝を願います。今まで神様は、この堕落した世界に対して、かわいそうな立場にいる以外になかったのです。
 その神様をどのように解放することができるのですか。それは、どのようにそのような家庭、氏族、民族、国家、世界を建設するかということにかかっています。