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第四章 神様に対する忠孝 : 一 神様の願い : |
神様はどのような方ですか。神様は人類の父母でもある方であり、神様は人類の王でもある方であり、すべてのものの中心でもある方です。その神様の息子になるために、個人的には一対一の立場で、一つの家庭を中心として見るならば孝子にならなければなりません。それも、世界的な孝子にならなければなりません。
そして、孝の中でも最高の孝であり、忠の中でも最高の忠であり、聖の中でも最高の聖を代表することができる、そのような位置を占領した者だけが神様に侍ることができるならば、それらを別々にしてはいけないのです。神様の願いは、この三つを一度に成し遂げた人です。孝子にもなり、忠臣にもなり、聖人の中の聖人にもなる、そのような人を願うはずです。
このような観点から見る時、神様は、そのような方であることに間違いありません。私たちは、その神様を父母として侍り、子女の名分を備えるために努力しています。そのように、最上になることができる孝子の行くべき道を訪ねて、それを守ろうと努力する群れになろうという者たちが、あるいは宗派が、あるいは民族がいるならば、彼らの行くべき道は楽な道ではありません。楽な道を求めていくところには、そのような孝子は生まれてくることができないのです。
それは、正常な形態として現れることはできません。見ればすべての人が「間違っている」と言うでしょう。他の人々は東に行こうとするのですが、この人は、西だけではなく、南にも行き、東にも行き、北にも行き……。
誰かがついてこようとしてもついてくることができない、そのようなことをさせるはずです。そのようなことをする宗教が出てこなければならないというのです。それは、私たちが常識的に判断しても、そのような結論に到達します。
今まで、歴史的に国王のための忠臣、孝子、烈女は多かったのですが、それに比べて神様のみ旨のための忠臣、孝子、烈女はいませんでした。
しかし、今日の私たちは違うというのです。彼らは、すべての地の基準に立脚した自由解放のために捧げてきたのです。ですから彼らは、神様の前に心配の対象なったとしても、慰安や喜びの対象にはなることができませんでした。「忠臣、孝子、烈女だ」と神様が誇った人は今までいなかったというのです。
神様の前に忠臣、孝子、烈女になることが人間の正道ですが、そのような人はいなかったのです。国王と父母にはそうであっても、神様の前にそのような人はいなかったというのです。
神様は、世の中の忠臣、孝子、烈女を見つめながら、彼らが神様のための忠臣、孝子、烈女になることをどれほど慕い願われたでしょうか。
神様はすべての人々が孝子、孝女、忠臣になることを希望していらっしゃいます。また、神様は、その中でも最上の基準にある人を願っていらっしゃいます。忠孝を尽くす道しかないという人を神様は願っていらっしゃいます。
父母の生命と財産に責任をもって家庭に平和と発展をもたらすことができない者は、孝子になり得ないというのです。父母の財産が崩れる時は、自らのすべてのものを投じることができなければなりません。
神様の創造理想が破綻したので、生命、財産、平和、理想を蹂躙する位置では、忠臣、孝子にはなり得ないのです。私がいつ神様のために自分のことのように悔しく思い、私がいつお父様の生命に対して偉大さを感じ、渡したがいつお父様の家庭の平和と統一のために苦闘してみたでしょうか。
そのようにしようとはしましたが、それが神様の前に忠孝になることができずに、不忠、不孝になったのです。
神様は、忠臣、孝子を立て、彼らを通して御自身の恨をサタンに譲り渡そうというのです。しかし、この恨を無条件に渡すことはできなかったので、忠臣、孝子を立てて、個人的に歴史的な苦痛の道を歩むようにすることによって、その恨をサタンに譲り渡そうとされるのです。
神様も解放して、愛自体も解放する、そのような孝子が存在し得るだろうかという問題が重要なのです。神様もその場に入ってきて、「私も一度孝子になってみることができれば良い」と言われ、真の父母も、「一度孝子になってみることができれば良い」と言い、神様と真の父母が一つになって、愛の前に孝子になることができるそのような道があるならばどれほど良いですか。
神様御自身が、お父様として愛を完成した立場に立たれ、息子自体が、神様の愛と宇宙の根本的愛を中心として孝子の道理を果たし、父と息子が一つになって、その愛の前に、より次元を高めることができる孝子の道をどのように植えつけることができるかというのです。植えつけることができたとすれば、堕落も永遠に生じないのです。
解放の解放圏です。それは、原理圏を凌駕したというのです。根本世界です。このようなことを考える時、今後皆さんが家庭理想と地上天国が成され、天上天国が成されればそれで終わりだと考えてはいけません。
そこにはまだ解決しなければならない、サタンの血統によって汚された痕跡がまだ内的根に残っているというのです。数千万年の歴史を経てきたのですが、その何倍、何十倍、何百倍以上の消耗を経ても、堕落したその世界の過去の出来事を忘れることができるかというのです。それを忘れてしまい、あなたと私が一つになり、息子、娘が一つになり、愛自体の苦労を慰労することができる孝子になれればということが、神様の最高の願いだということを皆さんが予想しなければなりません。
神様が手を挙げてアダムとエバを祝福なさる時に、神様は彼らの父として心で何を願われたのでしょうか。「おお! あなた方は私が造った大宇宙を抱いて、私を主として侍り、忠臣になってくれ」と思われたのです。神様は、そのような心だったというのです。
したがって、アダムとエバは、この天地間に忠臣の志操を立て、それを伝統として億千万年残さなければならなかったのです。アダムとエバが神様を真のお父様として侍り、真の孝子、孝女になっていたならば、彼らが神様の前に立てた忠孝の志操は伝統になっていたのであり、この地の役事は、連結した神様とアダムとエバの心情を中心として受け継がれてきたのです。そのようになれば悪が主管できないのです。
神様の心情の世界を悪が主管することができるならば、復帰歴史、救援歴史は絶対に不可能です。
神様が息子、娘であるアダムとエバに願われたことは、彼らが育って孝子、忠臣、聖人、聖子になることです。皆さんは神様が願われるように、家庭で孝子になるという考え、国で忠臣になるという考え、世界で聖人になるという考え、そして、天地の前に聖子になるという考えをもってみました。
歴史的に見る時、すべての聖人たちは、孝子になり、忠臣、聖人、そして聖子になりなさいと教えてきました。これを教えることができない宗教は、宗教として千年、万年の歴史を越えることができません。いずれは行くべき私たち人間の宿命的な路程です。宿命は、父子の関係のような物をいうのです。宿命は分けることができません。運命は代置し得るものがありますが、宿命はそのようなことはできないのです。
このような内容を知らなくては、家庭において真の父母の役割を果たすことはできないというのです。真との父母ならば、孝子、忠臣、聖人、聖子のような前進的なことを教えてあげなければなりません。
自分の息子たちをして、孝子、忠臣、聖人、聖子の道理を果たすようにして、さらには神様にまで行かなければならないということを教えてあげなければなりません。
神様が理想とされた一双の夫婦は、神様に栄光をお返ししてさしあげなければならないのに、堕落によって栄光の代わりに悲しみを返してしまったというのです。ここには、アダムとエバの責任だけでなく、天使長の不忠もあるのです。天使が先に神様に忠孝の道理を立てなければならなかったのですが、その道理を果たせずに堕落したのです。したがって、復帰摂理は忠孝烈を立てることです。
神様が忠孝烈の心的中心を立ててこられたので、すべての宗教と道もこれを立ててくるようになっているというのです。すべての道人たちは、これを探し立てるために出てきたのであって、イエス様も忠孝烈を立てるために家庭を尋ね求めてこられたのです。
神様がイスラエル民族を立てられたのは、このような家庭を復帰するためでした。イエス様が先に忠孝烈の道を立てていかなければならず、忠孝烈を立てるための祭司長になってこそ、サタンを屈服させることができたのです。
私たち祝福家庭は、忠孝烈を立てることにおいて誰にも負けてはいけないのです。忠も、孝も、烈も家庭から始まらなければなりません。
祝福は、お父様の希望を相続することです。今まで、神様に対する忠孝はありましたが、烈の家庭はなかったのです。「神の日」が訪れるまでは烈を立てることができず、サタンの讒訴が残っている限りは烈は立てられないというのです。
それゆえに、本来は、皆さんが天の前に完全に立つためには、韓国ならば韓国という一つの国に忠誠を尽くすことだけではいけません。それでは、天の前に完全な神様の息子、娘になることはできないのです。使徒パウロのような人は、そのような事実を知っていたというのです。自分の民族は、誰でも愛することができます。自分の民族は、誰もがすべて愛することができるというのです。
しかし、異邦の人々までも愛さなければなりません。なぜなら、神様は、自分たちの国の人々だけを愛するのではありません。全体を同じ立場で愛する神様だということを知らなければなりません。
その神様の心情を知るためには、逆境にぶつかり、難しい環境に置かれている一つの国を訪ねていき、私たちが因縁を結んでいかなければなりません。そのようにしなければなりません。原理的に見る時も、三カ国を経ることができる忠誠の道理を立てなければなりません。
皆さんが今、韓国でお父様に侍り、天の前に忠孝の道理を果たそうと考えるようになる時、ここで忠誠を尽くすその忠誠は、自分自らのために忠誠を尽くすのだと思ってはいけません。「先に民族のために、先に世界のために、先に天地のためにこれを捧げ、これを残しますので、天のものとして受けてください。天のものとして、地のものとして残してください!」このように祈祷しなければなりません。
そのようにすれば、それは、私が死んでも必ず天のものとして残るのであり、地のものとして人類が残すようになるはずです。そうだというのです。
神様の前に孝子になることができる時は、いつもあるのではないのです。孝行することができる時は、死んだのちに霊界でつくられるのではありません。永遠を中心として見る時、限りなく短い期間、チックタックという瞬間のようなこの一生の間に、神様を愛したという条件を立てなければならず、神様の前に孝行したという条件も立てなければなりません。
また、私たちが生きている時に、神様の前に絶対的な息子だという決定もしなければならないのです。私たちは、生きている時にそのようなことをしなければなりません。
神様が、一時に六千年の恨の因縁を解くという目的をおいて今までつづってきた歴史の結果として私たちが因縁を結んだのです。
それゆえに、私たちは、お互いの姓が違っても、同じ血筋をもった兄弟以上の情をもって生きなければなりません。私たちは、父母でない父母に侍っていますが、神様を中心として、自分の血肉の父母以上にその父母に侍ろうとする群れです。また私たちは、国をもっていますが、その国以上の忠孝烈をもって天国のために生きようとする群れです。
今は最後の時が来たというのです。父母から私の国まで復帰するのです。祝福を受けた家庭が父母の代わりに横的に囲んだので、私の国を取り戻すにおいて、忠孝の道理を果たすことによって、孝子の代わりに忠臣、忠臣の代わりに聖人、聖人の代わりに聖子の立て札を持ち、天宮法を守り、天国の道、天国の方を立てなければなりません。私たちによって天国の拳法が始まるという事実を知らなければなりません。このような意味で「私の国」と言うのです。
神様の心さえ知る日には、この民族は、天地を支配するはずです。どうしてでしょうか。数多くの子女がいて、数多くの民族がいたとしても、最高の孝子、孝女、忠臣は一人です。堕落した人間の父母も、同じ子女があっても、無念に打たれている子女をより考えるというのが誰もがもっている人情ならば、ましてや神様がそうでないということがあるでしょうか。
神様は、ある民族を探し求められるのではなく、最も愛する孝子、孝女を探し求められます。孝子、孝女を探し立てて、その民族に誇りたいと思われます。
世界を収拾して一つの民族を取り戻し、イスラエルを立ててここで一つの血族を取り戻し、一つの血族を収拾して一つの家庭を取り戻し、一つの家庭を収拾して一人を取り戻すのです。その一人を取り戻すことが世界を取り戻すことなので、その一人は、神様のすべての歴史的な恨を解いてさしあげることができる心を所有した孝子でなければなりません。
そのような孝子が出てきてこそ、彼によって悪なる人々が贖罪を受けることができるのです。
終わりの日の私たちは、何よりも神様の心を知っている人にならなければなりません。人間には、知、情、意の三要素があり、知と意を踏み台にして情的な天情をなすべき部分が残っています。
神様の情的な流れがあり、私たち韓民族に対して天的な摂理があるために、韓民族は、誰よりも天に対する切実さと忠孝の心が強く働いているというのです。
天の忠臣になろうとすれば、天の恨みを晴らさなければなりません。孝子になろうとするなら、父母の怨讐をそのままにしてはなることができないので、怨讐をなくさなければなりません。烈女も同じです。この恨みを晴らす日まで、永遠の命を懸けて覚悟して行かなければ、闘わなければ、皆さんは、堕落の恨に満ちた峠を越えることはあり得ないのです。
この峠を越えてこそ、初めて神様がすべての悲しい心情を解かれ、皆さんに、「六千年間待ち焦がれた忠臣よ、孝子よ、烈女よ」とおっしゃって、両手を挙げて祝福してくださるはずであり、三位神は安息することができるのです。
このように、心情基準が解決する前には安息できないというのです。
神様は、父母の中で一代の父母であり、王の中で一代の王であり、この天地を一人で主管することができる方であり、理想を形成することができる一代の先祖である方です。
その方を中心として孝誠を尽くして、その方を中心として忠誠を尽くし、その方を中心として聖人の目的を達成することができる息子、娘になり、そして神様の天地創造の大偉業を相続されるにおいて恥ずかしくない位置に行こうということが、私たち統一教会の目的だというのです。